第4話 ライバルと嫉妬

嵐が過ぎ去った配信チャンネルは、皮肉なことに、かつてないほどの盛況を見せていた。


白銀玲華の、あの「真実」の語りは、アンチコメントを一掃し、ひかりとの絆の強さ、そして#玲華舌 の本質的な魅力を、より強烈に視聴者へ刻み付けた。


熱狂は、二人の関係性への「考察」という、より深く、甘い沼へとファンを引きずり込んでいく。


その日の配信メニューは「春野菜のテリーヌ」。

色鮮やかな野菜が、透明なコンソメのゼリーに宝石のように閉じ込められている。ひかりの技術が光る、繊細な一品だ。


> ▷ うわ、綺麗

> ▷ もはや芸術

> ▷ 玲華様、今日も美しい

> ▷ #玲華とひかり の空気感、ほんと好き


玲華が、いつものように一口目を運ぼうとした、その瞬間だった。

コメント欄が、一瞬、異常な速度で流れ、そして止まった。

高額のスーパーチャットが、眩しい光と共に表示される。


『拝見しています。白銀さんの鋭敏な味覚表現、そして藤森さんの確かな技術、大変興味深い。一度、私のキッチンでコラボしませんか?「味覚の科学」について、ぜひお二人と語り合いたい。t.co/xxxx —— 有馬健斗』


> ▷ !?!?!?

> ▷ え? うそ?

> ▷ ARIMA KENTO!? あの!?

> ▷ 「厨房のロジシスト」の有馬!?

> ▷ ガチのプロじゃん!

> ▷ 玲華様、ついにプロに見つかった!

> ▷ コラボ! 絶対見たい!!


ひかりの手が、止まった。

有馬健斗。


テレビや雑誌で見ない日はない、若き天才シェフ。彼の料理は「科学的」かつ「論理的」と評され、そのカリスマ的なルックスも相まって、絶大な人気を誇っている。


「……まあ」


玲華が、わずかに目を見開く。その表情は、驚きと共に、ひかりの目には、ほんの少しの「好奇心」が混じっているように見えた。


「有馬シェフ……。光栄ですわ。ご視聴ありがとうございます」


玲華は、完璧な配信者としての微笑みを浮かべ、コメント欄を巧みにいなし始める。


「コラボですって。どうしましょう、ひかり」


ひかりは、何も答えられなかった。

頭の中で、何かが、ぷつりと切れる音がした。


(味覚の、科学?)

(玲華さんの舌を、語り合う?)

(あの人が作った料理を、玲華さんが食べる?)

(そして、あの人の「論理」で、玲華さんの「感情」が分析される?)


——冗談じゃない。


ひかりは俯き、自分の震える手を、エプロンの下で強く握りしめた。

玲華さんの、あの夜明けのような、陽だまりのような、灯台の明かりのような、繊細な、世界でたった一つの「語り」を。

玲華さんの、自分だけに向けられる、あの熱っぽい視線を。

他の誰かに、ましてや、あんな「ロジック」で武装した男に、触れさせてたまるか。


> ▷ ひかりん、固まってるw

> ▷ 嫉妬?w

> ▷ 男はいらねえ

> ▷ でも有馬シェフなら……

> ▷ 玲華様、どうするんだろ


配信は、その後、どこかぎこちない空気のまま進んだ。

玲華の味語りも、どこか上の空のように、ひかりの耳には響いた。

配信終了のランプが消えた、静かなスタジオ。


「ひかり。先ほどのお話ですが……」

「……嫌です」


玲華の言葉を遮ったのは、ひかりの、低く、冷たい声だった。


「え?」

「私は、嫌です。あの人と、玲華さんが話すのも、あの人の料理を、玲華さんが食べるのも」


ひかりは、玲華の驚いた顔を見ないように、調理台に向き直る。

そして、配信では使わなかったフライパンを、乱暴に近い手つきで火にかけた。


「ひかり……?」

「……待っていてください」


ひかりは、冷蔵庫から卵と、作り置きのチキンライス、そして、数日かけて煮込んだ特製のデミグラスソースを取り出す。

スタジオに、バターの焦げる、攻撃的とさえ言える香りが充満する。

ひかりは、一心不乱にオムレツを焼いた。


有馬健斗の「ロジック」など微塵も入る隙のない、ひかりの《シルヴァヌスの舌》がシミュレートした、玲華のためだけの、最も「非論理的」で「感情的」な味。


トン、と、皿が玲華の前に置かれる。

完璧な、黄金色の、ふるふると震えるオムライス。

ナイフを入れるまでもなく、表面がとろりと割れ、中の半熟卵がチキンライスを覆っていく。

上からかけられたデミグラスソースが、暗い情念のように、艶やかに光っている。


「……ひかり、これは……」

「……食べて、ください」


ひかりは、玲華の目を真っ直ぐに見つめて、命令するように言った。

玲華は、その気迫に押されるように、スプーンを口に運んだ。


瞬間。

玲華の思考が、停止した。


(……なに、これ)


甘い。

だが、砂糖の甘さではない。

苦い。

だが、コーヒーの苦さではない。

深い。

暗い、森の奥の、誰も知らない泉の底に突き落とされるような、濃密な、味。


「……これは……『論理』などでは、到底、たどり着けない……」


玲華の唇から、言葉がこぼれる。


「これは……『束縛』です。

このデミグラスソース。私の舌に絡みついて、他のどんな味も、もう感じさせないと、強く、強く、主張しています。

卵の優しさ。これは、逃げ道を塞ぐための、甘い罠。

ライスの一粒一粒が……『私だけを見て』と、叫んでいる……」


これは、いつもの#玲華舌 ではない。

視聴者に聞かせるための「情景化」ではない。

ひかりの剥き出しの感情が、味覚を通して、玲華の脳を直接、揺さぶってくる。


「……ひかり……あなた……」


玲華が顔を上げると、ひかりが、泣きそうな、それでいて、怒っているような、見たことのない顔で、玲華を睨みつけていた。


「……私の、料理だけを、食べてください」

「……!」

「玲華さんの舌は……玲華さんの言葉は……私だけの、ものですから」


それは、告白でも何でもない。

ただの、天才料理人の、身勝手で、独占欲にまみれた、ただのだった。

玲華は、心臓を掴まれたように胸を押さえた。


コラボの提案など、有馬健斗のロジックなど、もうどうでもよくなっていた。

今、この舌に残る、強烈な「独占したい味」。

いや——私を「独占している味」。


この味の前では、他のどんな美食も、色褪せてしまう。

玲華は、目の前の少女のその重すぎる感情を、ただ恍惚と受け入れるしかなかった。

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