第5話 家と制約

あの夜、ひかりの剥き出しの独占欲を「美味しい」と感じてしまった自分に、白銀玲華は気づいていた。


有馬シェフからのコラボ提案など、玲華の心からは消え失せていた。

ひかりが、自分だけのために、あの味を作ってくれた。その事実が、玲華の心をどれほど満たしたか。


だが、世界は二人だけではなかった。


「白銀家」という、玲華が生まれながらに背負う「制約」が、その熱狂と独占欲の直後に、冷や水を浴びせに来た。


発端は、有馬シェフの件で注目度が上がりすぎたこと。そして、アンチをねじ伏せた玲華の「真実」の語りが、あまりに「感情的」すぎると判断されたことだった。


『玲華』


週末、実家の大理石のテーブルで、玲華は父親から、静かだが絶対的な圧力で告げられた。


『最近の配信は、少々、品位に欠けるのではないか。白銀の娘として、感情を公の場で露わにしすぎるのは、慎みなさい』

『……ですが、あれは私の』

『有馬氏のような著名人との交流は結構。だが、それも「白銀玲華」としての格を保ってこそだ。……あの料理をしている娘、藤森さんと言ったか。彼女との関係も、馴れ合いが過ぎると、あらぬ憶測を呼ぶ。距離を考えなさい』


それは、命令だった。

玲華の「#玲華舌」は、玲華自身の感情の発露であると同時に、白銀家の「商品価値」でもあったのだ。


***


次の配信日。


スタジオの空気は、凍りついていた。

玲華は、ひかりが淹れた紅茶にも、ほとんど口をつけなかった。


「ひかり……」

「……はい」

「有馬シェフの件は……お断り、いたしました」

「……」


ひかりは、喜ぶべきなのに、玲華の顔が曇っている理由が分からず、胸がざわついた。


「それから……今日の配信ですが。少し、趣向を変えようと思います」


その日のメニューは「水信玄餅」。

限りなく透明に近く、儚く、そして、完璧な「形」を要求される一品。ひかりの技術の粋を集めた、冷たい芸術品だった。


配信が始まる。

いつものように跳ね上がる数字。だが、スタジオの空気は、あの日のオムライスとは正反対に、冷え切っていた。


> ▷ きたー

> ▷ うわ、水信玄餅! 綺麗すぎる

> ▷ まるで宝石

> ▷ 玲華様、今日、なんか雰囲気違う?

> ▷ メイク? いや、オーラが……


玲華は、完璧な微笑みを浮かべていた。

学校で見せる「白銀玲華」の仮面よりも、さらに分厚く、隙のない、完璧な「お嬢様」の仮面。

ひかりは、その隣で、息が詰まりそうだった。


「皆様、こんばんは。白銀玲華です」


声のトーンは、いつもの親密さを含んだものではなく、プロのアナウンサーのように、美しく、しかし、感情のないものだった。


「本日は、藤森さんに、日本の『涼』を体現するような、美しいお菓子を作っていただきました」


——「藤森さん」。


ひかりの心臓が、冷たく握りつぶされた。

スタジオで、その名前で呼ばれたのは、初めてだった。


玲華は、完璧な所作で、黒文字(菓子楊枝)を手に取る。

水信玄餅を一口。

そして、カメラに向かって、完璧な「食レポ」を開始した。


「……舌の上で、露が消えていくようです。寒天の硬さと、水の柔らかさの、絶妙な境界線。

添えられた黒蜜は、甘すぎず、しかし、その存在感を確かに主張し、きな粉の香ばしさが、全体の輪郭をくっきりとさせています。

……藤森さんの、丁寧な仕事ぶりが伺える、素晴らしい一品ですわ」


> ▷ !!!!

> ▷ すごい、完璧な食レポ

> ▷ #玲華舌 が、今日は知的だ

> ▷ (……でも、なんか)

> ▷ (いつもの、あの、情景が浮かぶやつと違う)

> ▷ (そう、なんか、教科書みたい……)


コメント欄が、賞賛と、わずかな違和感で埋まる。


ひかりは、唇を噛みしめた。

玲華の言葉は、一言一句、正しい。

だが、そこには「情景」も「感情」もなかった。

夜明けも、陽だまりも、灯台の明かりも、束縛も、そこにはない。

ただ、「完璧すぎる」情報だけが、玲華の美しい唇から紡がれていく。


(これが、玲華さんの望み……? いや、違う)

(あの男のせい? 有馬健斗の「ロジック」が、玲華さんをこんな風に……)


いや、それも違う。

ひかりは即座に否定する。

ひかりは、玲華の瞳の奥に、深く沈んだ、助けを求めるような「揺らぎ」を見逃さなかった。


(……誰かに、何かを、言われたんだ)


配信は、滞りなく、完璧に、そして、恐ろしく退屈なまま、終了の時間を迎えようとしていた。


「それでは皆様、本日はこのへんで——」

「待ってください」


ひかりが、初めて、配信中に玲華の言葉を遮った。

玲華の目が、驚きに見開かれる。


ひかりは、調理台の陰に隠していた小さな皿を、玲華の前に、トン、と置いた。


それは、水信玄餅を作るときに、わざと「失敗」させた、形が崩れたかけら。正規品になれなかった、透明な、涙のような一欠片だった。


「……ひかり?」

「……これも、食べてください」


コメント欄が「?」で埋まる。


玲華は、数秒間、その崩れた一欠片と、ひかりの真剣な目を見比べた。

そして、ふ、と。

仮面が、ほんの少し、欠けた。


玲華は、カメラからそっと顔を背け、マイクが拾わない角度で、その「隠し一口」を、そっと口に含んだ。


(……これは)


味など、ほとんどない。

ただ、冷たい。

だが、その冷たさが、完璧な「水信玄餅」の冷たさとは違った。


(……これは、味が、しない)

(形も、ない)

(甘さも、ない)

(……でも)


玲華の口元が、わずかに、震えた。

配信終了のボタンが押される、直前。


「……でも、この『無』が……今、私には、一番……優しい……」


マイクが、その呟きを拾ったかどうかは、誰にも分からなかった。


配信が終了し、スタジオに静寂が戻る。

玲華は、俯いたまま、動かない。

やがて、ぽつり、と。


「……ひかり」

「はい」

「……あなたの『失敗作』は……いつも、私の『本当』を、暴いていきますね」


それは、視聴者には決して見せない、白銀玲華のたった一口だけの本気の「味語り」だった。

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