第四話 因果報応、そして虚無の残滓
あの阿鼻叫喚の教室から、二週間が経過した。
俺、黯樹影人(くらきかげひと)の日常は、驚くほど静かなものになっていた。
教室の窓際最後列。俺の指定席。
そこから見える景色は何も変わらない。だが、教室内の空気、そのノイズの「質」は劇的に変化していた。
まず、物理的にノイズの発生源が消えた。
焔龍二(ほむらりゅうじ)。
星宮輝羅々(ほしみやきらら)。
そして、彼らに追従していた主犯格の取り巻き数名。
彼らの机は、まるで最初から存在しなかったかのように、そこにはなかった。
龍二は、あの日、父親からの電話を受けた後、教室で暴れ、教師に取り押さえられた。そのまま学校には来ていない。
輝羅々は、カンニング捏造の主犯であったこと、そして玲(れい)さんが学校側に送り付けた「SNS裏アカウントでの全方位誹謗中傷ログ」が決定打となり、即日、長期の停学処分が下された。
残ったクラスメイトたちは、俺という存在を、まるで強力な病原体か、あるいは触れてはならない神聖な何かのように扱い始めた。
誰も俺に話しかけない。誰も俺の噂をしない。
俺が教室に入ると、一瞬だけ空気が張り詰め、そして全員がサッと目をそらす。
(……素晴らしい。これ以上ない、理想的な平穏だ)
俺は、彼らの畏怖や恐怖といった感情すら「不要なノイズ」として処理し、伊達メガネの奥で、静かに専門書のページをめくっていた。
昼休み。
玲さんから、今回の「掃除」に関する最終報告がチャットで送られてきた。
俺はイヤホンで講義のポッドキャストを聞きながら、そのテキストを無感情に目で追う。
『ターゲットA:焔龍二について』
玲さんの調査チームがリークした「ホムラ建工」の脱税と下請法違反の証拠は、完璧すぎた。
国税局の査察と銀行団の融資停止というコンボは、もともと火の車だった経営を再起不能にした。取引先も一斉に手を引き、倒産はもはや時間の問題。
龍二の父親は、すべての責任を「経理担当のミス」と「下請け業者の捏造」になすりつけようと足掻いているらしいが、無駄な努力だ。
龍二本人は、大学推薦はもちろん取り消し。第二話で俺たちを脅したナイフの件(教師が目撃)と、第三話での教室での破壊行為、そして輝羅々への暴行。これらが重なり、すでに「自主退学勧告」が出されている。
『ターゲットB:星宮輝羅々について』
彼女の状況は、龍二とはまた違った形の「破滅」だった。
停学処分は、始まりに過ぎなかった。玲さんがリークしたのは、学校だけではない。
彼女のSNS裏アカウント(特にパパ活まがいの行為や、親のカードの無断使用を自慢していたもの)は、小規模な炎上から始まり、瞬く間に個人情報が特定され、ネットの海に拡散された。
彼女の親は、学校からの呼び出しと、ネットで晒された娘の裏の顔、さらにはカード会社からの高額請求という「現実」を同時に突きつけられ、完全に匙を投げた。
もともと虚栄心の塊だった母親は、娘の「失敗」を受け入れられず、父親は事態の収拾に疲れ果てた。家庭は崩壊し、彼女は今、家にも学校にも、そしてSNSという虚構の世界にも、どこにも居場所がない状態だという。
俺は、チャットを閉じ、カロリーバーを一口かじった。
(……因果応報。俺の行動は、彼らの行動に対する『反作用』に過ぎない)
俺は何もしていない。
彼らが自分で撒いた種が、彼らの世界を食い尽くした。ただ、それだけのことだ。
---
その日の放課後。
季節はすでに初冬に差し掛かり、空は重たい灰色に覆われていた。
冷たい雨が、アスファルトを叩いている。
俺は、学校から徒歩圏内にある、セキュリティの強固な自宅マンションのエントランスへと足を速めていた。
自動ドアの前で折り畳み傘を閉じようとした、その時。
「……ぁ……」
エントランスの庇(ひさし)の下、その隅。
雨風を避けるようにうずくまっていた人影が、俺に気づき、弱々しい声を上げた。
「……かげひと、くん……?」
俺は、動きを止めた。
そこにいたのは、星宮輝羅々だった。
雨に打たれ、全身ずぶ濡れだった。高価だったはずのブランド物のコートは泥に汚れ、あの完璧だったメイクは涙と雨で流れ落ち、見る影もない。
色素の抜けた髪は濡れて張り付き、その下から覗く顔は、生気を失い、青白くふやけていた。
それは、俺が知る「陽キャの輝羅々」ではなく、俺が拒絶した「中学時代の地味な彼女」よりもさらにみすぼらしい、打ち捨てられた人形のようだった。
彼女は、俺の姿を認めると、最後の力を振り絞るように、よろよろと立ち上がった。
そして、俺の足元に駆け寄ると、そのままアスファルトの上に膝をついた。
土下座だった。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、影人くん……!」
額を冷たいコンクリートに擦り付け、彼女は泣きじゃくり始めた。
「私が、ぜんぶ、私が悪かったの……! ごめんなさい……!」
俺は、無言で彼女を見下ろしていた。
雨音が、彼女の嗚咽をかき消していく。
「もう、どこにも行けない……。学校も、家も……ネットも……誰も、誰も私を見てくれない……!」
「龍二くんも、みんなも、私のせいだって……!」
彼女は、顔を上げた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、必死に俺に手を伸ばそうとする。
「お願い、影人くん……! 助けて……!」
「……」
「影人くんなら、できるでしょ……? いつもみたいに……! 昔みたいに!」
昔。
その言葉に、彼女の歪んだ記憶が垣間見える。
小学生の頃、彼女が上級生に絡まれた時、俺が面倒事を避けるために、相手の死角から石を投げて注意をそらし、その隙に彼女の手を引いて逃げたことがある。
彼女はそれを、俺が「すごい力で彼女を守ってくれた」と誤解しているのだ。
「あの時みたいに、私を助けて……! 影人くんだけが頼りなの!」
「お願い、なんでもするから……! 私を、ここから……!」
懇願。依存。
彼女は、最後まで他力本願だった。
自分が陥った窮状を、自ら招いた結果だと理解せず、ただ「誰か」に救い出してほしいと願っている。
俺は、ゆっくりと、かけていた伊達メガネを外し、ポケットにしまった。
雨に濡れた前髪をかき上げる。
俺の「素」の目が、初めて彼女に晒された。
「……え……」
輝羅々の嗚咽が、止まった。
彼女の目に映ったのは、彼女が知っている「陰キャの黯樹影人」ではなかった。
感情というフィルターを一切排した、冷徹で、底の知れない暗い瞳。
まるで、深海を覗き込むような、絶対零度の視線。
彼女は、本能的な恐怖に、ヒッと息を呑んだ。
「……星宮さん」
俺は、静かに、しかし刃物のように冷たい声で、彼女の最後の希望を断ち切った。
「お前が始めたゲームだ」
「……なに、を……」
「俺は、俺の平穏というリソースが侵害されることを、極度に嫌う」
「……」
「俺は警告した。第一話(あの日)の教室で。『君のような人間は信用できない』と。体育倉庫の裏でも言ったはずだ。『俺に関わるな』と」
輝羅々は、わなわなと震え始めた。
恐怖か、寒さか、あるいはその両方か。
「違う……! 私は、あの時は、龍二くんたちに逆らえなくて……!」
「嘘をつくな」
俺は、一歩だけ彼女に近づいた。
「お前は楽しんでいた。俺がクラスで嘲笑されるのを。俺が龍二にボールをぶつけられるのを。俺をカンニング犯に仕立て上げ、この手で破滅させられると、心から歓喜していた。……違うか?」
輝羅々は、何も言い返せなかった。
すべて、事実だったからだ。
「お前たちは、俺の平穏な日常(システム)に侵入した、悪質な『バグ』だった」
「バグ……?」
「そうだ。だから、駆除した。デバッグだ。ただ、それだけのことだ」
「そん……な……。ひどい……」
輝羅々が、か細い声で呟く。
「私たち、幼馴染じゃ……なかったの……?」
「その言葉を、お前は教室で笑いながら否定し、俺を『罰ゲーム』のネタにした」
俺は、彼女の心の奥底に突き刺すように、言葉を続ける。
「俺にとって、お前との過去は、とうの昔に忘れたい『黒歴史』だった」
「あ……」
「だが、今は違う。お前はもう『黒歴史』ですらない」
「……」
「ただの『削除済みデータ』だ。俺の記憶(ストレージ)には、もう、お前の占有する領域(リソース)はない」
俺は、彼女に背を向け、自動ドアへと歩き出した。
「二度と俺の前に現れるな。目障りだ」
「いや……いやだ……! 待って! 待ってよ、影人くぅぅん!」
輝羅々の絶望に満ちた悲鳴が、背後で響く。
「いやだぁぁぁぁ! ひとりにしないでぇぇ!」
彼女は、その場に崩れ落ち、雨に打たれながら、子供のように泣き叫んでいた。
もう、誰も彼女を助ける者はいない。
俺が、自動ドアを通過しようとした、その瞬間だった。
「黯樹ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
獣のような咆哮。
マンションの植え込みの影から、俺が予測していた最後の「ノイズ」が飛び出してきた。
焔龍二だった。
髪は伸び放題、目は血走り、焦点が合っていない。全身から、破滅した人間の放つ、腐臭のような殺意が立ち上っていた。
その手には、あの日、体育倉庫裏で振りかざした、黒い折り畳みナイフが握られていた。
「お前のせいだ……! お前のせいで、俺の家も、学校も、人生も、全部……ぜんぶ……!」
「……」
「死ねぇぇぇぇぇぇ!」
龍二が、ナイフを振りかぶり、俺の背中に向かって突進してくる。
泣き崩れていた輝羅々が「龍二くん!? やめてぇぇ!」と、間抜けな悲鳴を上げた。
だが、俺は振り返らない。
動く必要もなかった。
龍二の刃が、俺の背中に届く寸前。
「そこまでだ!」
「動くな! 警察だ!」
龍二の突進を遮るように、エントランスの左右に隠れていた複数の人影が、一斉に飛び出した。
屈強な私服警官たちだった。
一人が龍二の腕を捻り上げ、もう一人がその腹にタックルを決め、瞬時に地面に押さえつける。
ガシャン、とナイフがアスファルトに落ちる音が響いた。
「ぐ……あ……! 離せ! 離せよぉ!」
「傷害及び殺人未遂、現行犯で逮捕する!」
「ちくしょう! 俺は、こいつを……! あの陰キャを、殺さねえと……!」
龍二は、地面に顔を押し付けられながらも、なお俺を睨みつけていた。
俺は、ゆっくりと振り返り、冷ややかに、虫ケラを見るような目で彼を見下ろした。
「……最後の最後まで、非合理な男だ」
俺は、玲に事前通報し、すべてをセットアップしていた。
玲の調査チームが、龍二のSNS(もちろん裏アカだ)を監視していたのだ。そこには、俺への逆恨みと、殺意に満ちた投稿が繰り返されていた。
『あの陰キャを殺す』『あいつのせいで俺の人生は終わった』『ナイフは手に入れた。あいつの家の前で待つ』
玲はそれらの証拠を警察に提出し、「ストーカー規制法違反」および「殺人予備」として被害届を出し、警察に今日の張り込みを依頼していた。
すべて、俺の描いたシナリオ通りだった。
遠くから、パトカーのサイレンが近づいてくる。
龍二は、もはや意味のない抵抗を続けながら、警官に引きずられていく。
輝羅々は、目の前で起きたすべてを理解できず、雨の中でただ呆然と座り込み、虚無の表情で泣き続けていた。
俺は、その二つの「削除済みデータ」に、もう何の興味も示さず、今度こそエントランスの奥へと消えた。
静かなエレベーターの中で、スマホが短く震えた。
玲さんからのチャットだ。
『掃除完了。これで、ノイズは完全に除去されたわね』
俺は、濡れた指先で、短い返信を打つ。
『ああ。やっと平穏が戻る』
翌日。
俺の教室。
空席がさらに増えたが、教室の空気は、昨日までの「畏怖」から、ある種の「無関心」へと変化していた。
龍二が逮捕されたこと、輝羅々が精神的に崩壊したことは、すぐに学校中に知れ渡った。
だが、その原因が俺にあると気づいている者は、もうこの学校にはいない。
彼らはただ、恐ろしい事件が起きた、という事実だけを受け止め、すぐに忘れていくだろう。
(……これだ)
俺が望んでいた、完璧な平穏。
誰にも注目されず、誰にも干渉されない、石ころとしての日常。
俺は、窓際最後列の席で、ラノベカバーのかかった専門書(今日からは一般相対性理論だ)を開いた。
耳に、いつものイヤホンを装着する。
世界からすべてのノイズが消え去り、心地よい、宇宙の法則についての英語講義だけが、俺の鼓膜を静かに満たしていく。
俺は、仮面の下で、誰にも気づかれないよう、小さく、満足のため息をついた。
陰キャ演じる俺の黒歴史(幼馴染)が、陽キャグループと俺をハメようとしてきたので、俺の「本当の力」で全員社会的に抹殺することにした @flameflame
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