第三卷:3つの心が、同じ空を見るとき
第13話: それぞれの距離、それぞれの「好き」
夏の昼間はいつも早く始まる。
空がぼんやりと明るくなり始める頃には、もう布団の中ではなく、外で仕事をしたり朝の運動をしている人が多い。
「慣れてても、やっぱり眠い……。」
千夏子は小さなタンクに飲み物を注ぎながらぼそっと言った。
家が喫茶店を経営しているせいで、彼女は物心ついた頃からずっと店の手伝いをしてきた。
平日の登校日は唯一、自然に目が覚めるまで寝られる日。
理由は簡単で、休日は開店時間が早まるためだ。
この点について、千夏子は昔から不満を持っている。
喫茶店の立地はちょうどよく、田んぼのようなブロック状の住宅地の入口にあり、そこから大きな通りに繋がっているため、朝からとても忙しくなる。
客が来る前のわずかな時間を利用して、千夏子は氷を口いっぱいに放り込んだ。
氷を食べるのは彼女の大好きな習慣で、衛生的ならどんな氷でも構わない。
「おはよーう!」
外で準備をしていた母親が店内に向かって声をかけた。
「え、誰か来た?」
千夏子は口をぷくっと膨らませたまま、慌ててカウンターへ向かう。
「ん?」
千夏子がぱちぱちと瞬きをすると、相手は少し気まずそうに微笑んだ。
「おはようございます。」
「……ふむぅ。」
千夏子も返事をしたが、口の中にまだ氷が残っているのを忘れていた。
「同級生なの?」
母親は二人のやり取りを見て尋ねる。
「はい。」
一真がこくりと頷く。
「じゃあ少し安くしとくよ。ほら、好きなの選んで。」
母親はメニューを差し出したあと、千夏子に向かって
「早く氷飲み込みなさいって!」と小声で言う。
千夏子は慌てて氷を噛み砕き、一真の方を見る。
汗をかいている様子を見るに、彼はどうやら朝ランニングをして来たらしい。
「同級生くん、さっき走って来たの?」
母親が尋ねる。
「はい!」
一真は注文票に書き込みながら答えた。
「で、なんであんた急に静かなの? 同級生でしょ?」
母親が千夏子の肩を軽く押す。
「き、君って……毎日……走ってるの?」
千夏子は押されるまま、なんとか質問を絞り出す。
「……お母さん、一真くんを見るの初めてだったんだよね。」
彼女は小さくぼそりと呟いた。
「うん。雨の日以外は。」
一真はメニューを返しながら答える。
「そ、そうなんだぁ。」
千夏子が微笑む。
「あなた、毎日走ってるなんて思わなかった……。」
そんな風に心の中でつぶやきながら。
「焼きチーズサンドと、ホットサンド三種ね。」
母親がメニューを見て告げる。ホットサンドは千夏子の担当だ。
「はーい。」
千夏子は一瞬で仕事モードに切り替わる。
「同級生なら特別に……。」
千夏子は作りながらそっと具材を少し多めに入れた。
「でも君、ずいぶん頼むのね?」
母親が尋ねる。追加で別の温かいメニューも注文していたからだ。
「家の人の分もあります。」
一真は答えつつも、時々店内をちらりと見渡していた。
しばらくして朝食が出来上がると、母親は
「汗のにおいが他のお客さんに移ると悪いから」
という理由で千夏子に持って行かせた。
「できたよ。」
千夏子はトレーを渡し、代金は受け取らなかった。
「今日は私がおごるって、お母さんが。お金いらないって。」
「え……でも……。」
一真が財布を開こうとすると、千夏子は手で遮った。
「うちの人、断られるの嫌いなの。また来てくれたらいいから。」
にこっと笑いながら言う。
店に戻ろうとした時、彼女は振り返って
「気をつけてね、じゃあね!」
と軽く手を振った。
まるで、一真があまり「じゃあね」と返さないことを知っているかのように――
返事を待たず、そのまま店に戻っていった。
「ち・な・つ・こー?」
母親が声をかける。
「なに?」
「同級生、けっこうイケメンじゃない?」
母親はからかうような笑顔を向けた。
千夏子は無表情で一言。
「お父さんに言っとく。」
最近、一真のクラスでの生活には、少し変化があった。
ぽつぽつと話しかけてくるクラスメイトが現れ、世間話のような会話が増えてきた。
だが、その中で一番不思議だったのは――千夏子がやたらと一真のそばで話すことが多くなったことだ。
この変化に、一真はあまり慣れなかった。
自分から話しかけることがほとんどない分、クラスの空気に対して
「なんか、うちのクラスの人たち、ちょっとおかしい……。」
とすら思ってしまう。
とはいえ、その週もあっという間に過ぎていった。
休みの日になると、綾音はどうしても家に帰らなければならない。
彼女がいくら嫌がっても、それは変えられない決まりだった。
聞いた話では、「外で一人暮らしをさせる代わりの条件」らしい。
「一真くん。」
家に着いたちょうどその頃、綾音も起きてきた。
「朝ごはん買ってきたの?」
綾音は一真が手に提げている袋を見上げる。
「こんなにいっぱい買ったの?」
「なんか美味しそうだったから、食べたいもの適当に。」
一真は正直にそう言ってから、続けて尋ねる。
「綾音ちゃんの家の人、何時ごろ迎えに来るの?」
「お昼前くらいかな。」
綾音は目をこすりながら答えた。
あの日、久しぶりに一真に抱きしめられて以来――
綾音の距離感は、むしろ一歩も二歩も後ろに下がってしまった。
一真に少しでも近づくとすぐに恥ずかしくなってしまい、ある朝、洗面所の前ですれ違っただけで顔を真っ赤にしたこともあった。
「とりあえず、先にご飯食べよ。」
一真はキッチンで袋を開け、一つずつテーブルに並べていく。
綾音は洗面所に向かい、鏡を見つめる。
そして、あの時のこと――一真に抱きしめられた瞬間を思い出してしまう。
胸板の温かさ、頭の上から聞こえた静かな息づかい。
「や、やば……。」
綾音は自分の頬をぱんっと軽く叩いた。
頭の中に浮かんだ映像があまりにもくすぐったくて、強制的にシャットダウンした。
身支度を終えると、綾音は廊下で何度も深呼吸をしてから、ようやくリビングへ出ていった。
「一真くん、どれ食べる?」
テーブルの上に並んだ朝食を見つめながら、できるだけ平静を装って尋ねる。
「綾音ちゃんの食べたいもの選んでいいよ。」
一真が顔を上げると、綾音はすっと目を逸らした。
一真は、その少しばつの悪そうな様子を見て、ふっと笑ってしまう。
「な、なに笑ってるの?」
綾音は、無理やり一真を見つめるようにして問い詰める。
「綾音ちゃんが照れるなんて、思ってなかったから。」
最初はそこまで気にしていなかった。
だが、ここ数日の綾音の態度はあまりにも分かりやすく、
「隠してるつもりなんだろうけど、全然隠し切れてないな」
と思ってしまうほどだった。
「そんなの……自分でも分かんないよ。」
綾音は諦めたように、目を伏せて呟く。
どうせ隠し通せない。
そうでなければ、一真だってわざわざ口にしない。
「一真くんは、わたしのこと好き?」
綾音の頬は再び赤くなる。
それでも今度は、一真から目を逸らさず、はっきりと問いかけた。
一真は少し考えてから、
「好きだよ。……妹みたいで。」
と答えた。
その答えを聞いた瞬間、嬉しいとも、悲しいとも言えない感情が胸に広がる。
ただ、手の中のフォークをじっと見つめながら、得体の知れない虚しさがこみ上げてきた。
「もし……妹じゃなかったら、どうする?」
綾音は、今度は本当にか細い声で、ほとんど聞き取れないような大きさで呟いた。
「え?」
一真は顔を傾け、綾音の方に少し身を寄せる。
「なんて言った?」
「い、いや、この量……食べきれるかなって。」
綾音は慌てて言葉をすり替えた。
迷う暇もなく、反射的に口が動いていた。
「たぶん大丈夫。」
一真はテーブルの朝食を眺める。
種類は違っても、どう見ても四人分くらいの量があった。
「食べきれなかったら、外に持ってって食べる。」
「外?どこ行くの?」
その一言に、綾音はすぐ食いついた。
「中学の時の友達に会いに。」
一真は、並んだ料理を一つひとつ半分に分けながら答える。
「女の子?」
さっきまでの恥ずかしさは、どこかへ吹き飛んだ。
綾音は一気に詰問モードになる。
「うん。」
一真は、パスタをどうやって半分にしようか真剣に悩んでいた。
「どこ行くの?」
綾音はさらに重ねる。
「まだ決まってない。」
一真はパスタを諦め、ほかのものから分けることにした。
「一真くん。」
綾音は急に距離を詰める。
「ん?」
一真が視線を向ける。
しかし、綾音はただ黙って彼を見つめているだけで、何も言わない。
「どうしたの?」
綾音の唇が微かに震え、口元が何度か動いたあと――
「キ、ス……。」
と、かろうじて最初の一音だけがこぼれ落ちた。
その瞬間、一真は軽く彼女の額を指で弾いた。
強さ自体はたいしたことない。
だが、その行為にこめられた意味は、綾音にもよく分かっていた。
――ふざけないの。
「早く食べないと、全部俺が食べちゃうよ。」
一真は最後のひと皿を分け終えると、いつも通りに言った。
「……はぁい。」
綾音は額を押さえ、涙目で一真を見つめる。
しかし、一真の視線はもう朝食に向いていた。
「こ・の・さ・ら! 朝っぱらから叩き起こして、手伝わせるの、それ?」
紗良は、今日の服を選ぶために早朝から起き出し、部屋中の服をひっくり返していた。
その余波を受けて、服飾デザインを専攻している姉まで叩き起こされた。
紗良の部屋は、床一面にシャツやスカートが散乱し、ベッドの上には服の山ができている。
その惨状を見て、姉は頭痛を覚えたようにこめかみを押さえた。
「ねえ……今日、出かけるの。」
紗良は、助けを求めるような目で姉を見上げる。
姉は時計をちらりと見て、
「だからって、朝の八時すぎに起こさなくてもよくない……。」
とため息をつく。
「だって、今日はその人と会うんだもん。」
紗良は、床に散らばる服の山を睨みつけながら言った。
「そっか。」
姉は天井を仰いで、大きく息を吐く。
「じゃあ、外出用のコーディネートは手伝ってあげる。その代わり、出かける前には部屋片づけること。」
「うん!」
それから一時間以上――。
「なんか違う。」
「かわいいけど、落ち着かない。」
と、紗良はことごとくダメ出しをしていった。
ようやく決まったのは、小さめのワンピースに透け感のあるシャツを合わせたコーディネートだった。
「別に嫌いじゃないけど……なんか落ち着かない。」
紗良は気まずそうに、自分の足元をさする。
少なくとも半分くらい太ももが見えてしまっている。
「かわいい服って、だいたい着心地悪いのが普通。
あんたのいつもの“女の子っぽさ”に合わせて組んだんだから。」
姉は後ろから全体のバランスをチェックする。
「この前あげたサンダル、あれ履いていきなさい。」
「わたし、あの人には……。」
紗良は言いかけて、姉の方を見る。
「けっこうきつく当たってた方だし……。」
「それは前の話でしょ。
大事なのは、“どれが本当のあんたか”ってこと。
いつまでも男っぽいキャラで見られたいわけじゃないんでしょ?」
姉は紗良の肩に手を置き、優しく笑う。
紗良はこくんと頷き、
「……分かった。」
と答えた。
「じゃ、片づけスタート。」
姉はくるりと背を向けるが、その手首を紗良が掴む。
「なに?」
「手伝って……。」
紗良は、まるで雛鳥のように頼りなげな表情で見上げる。
「ふふ。」
姉は小さく笑ってから、
「却下。」
と、きっぱり。
紗良の手をそっと振りほどき、
「さっき自分で言ってたよね。
“片づけないなら、寮に放り込んでいいから”って。」
と念押しする。
「分かってるよ……。」
紗良は不満げに言う。
「いい子いい子。」
姉は紗良の頭を軽く撫でてから、部屋を出て行った。
姉がいなくなって、ようやく紗良は片づけを始める。
一真から「着いたよ」という連絡もまだ来ていない。
焦っても、どうにもならない。
「それにしても、あいつ……。」
紗良は、手にしていたズボンを床に放り投げる。
「そのあと、全然メッセージくれなかったし。」
そう言いつつ、結局またズボンを拾い上げ、丁寧に畳み直す。
服やスカート、パンツを種類ごとに分けてベッドの上に並べ終えると、自分の着ている服装を見下ろし、ふとひらめいたように目を輝かせた。
「さっきみたいに、自分でもコーデしてみよう。」
さっきまできれいに畳んだ服が、また一瞬で乱雑な山へと戻っていった。
「ピロン。」
スマホからメッセージの通知音が鳴る。
紗良は服を放り出して、スマホのところまで飛び跳ねるように駆け寄った。
〈今、バスに乗った〉
そう一真からのメッセージが届いていた。
「何時ごろ着くの?」
紗良はすぐに返信する。
〈だいたい三十分くらい〉
その返事を見て、紗良は振り返り、さっき作り出したカオスな光景を見渡す。
頭の中で、全力で計算を始めた。
――とりあえず、全部クローゼットに突っ込んで、あとは学校行ってから考える?
――それとも、このまま放置して、帰ってきてから片づける?
――歩いて学校までそんなに時間かかんないし、全力で片づけてから出ても間に合う?
「片づけなかったら、寮に入れるからね。」
最後に思い浮かんだのは、姉のさっきのセリフだった。
――寮行きは、絶対に嫌!
太陽は容赦なく照りつけていたが、今日は風が強かったおかげで、少しだけましに感じられた。
しかし、その風は紗良のコーデにとっては天敵だった。
「風強い……。お願いだから、スカートめくれないで……。」
紗良は早足で歩きながら、時々スカートの裾を押さえる。
校門が見えてきたころ、前方に一真の姿が見えた。
紗良はさらにスピードを上げる。
「ごめん、待たせた?」
「今来たところ。」
一真はリュックからウェットティッシュを取り出し、紗良に差し出す。
「わ、ありがと……。」
紗良は校門のそばの木陰まで移動し、汗を拭く。
体の熱が少しずつひいていくのを感じながら、空を見上げてぼそっと言う。
「冬のほうが好きだなぁ。」
「どっか、ぶらぶらする?」
紗良がウェットティッシュを返しながら聞く。
「街の方。ちょっと歩くけど。」
一真は、市街地の方向を指さした。
「そっか……。」
紗良は思わず本音を漏らし、慌てて口を閉じる。
「こっちの学校の方が街に近いから、便利でいいよ。」
一真はそう言って、紗良が歩き出すのを待つ。
「で、何しに行くの?」
紗良はその時ふと気づく。
一真の方から「どこへ行きたいか」を先に言うのは、珍しい。
「本屋。」
一真は歩き出しながら答えた。
道すがら、二人は学校のことを中心に話をした。
話しているのはほとんど紗良で、一真はそれを聞いていることが多い。
「汗かいてるじゃん!」
歩いているうちに、一真の額に汗がにじみ始めたのを見て、紗良が声をあげる。
その時になってようやく、一真がさりげなく自分を影のある側に歩かせてくれていたことに気づいた。
紗良は何も言わず、自分のウェットティッシュを取り出して一真の額を拭こうとする。
「自分で――。」
一真が身を引くが、紗良はその手を掴む。
「あとで飲み物買お? のど渇いてきた。」
紗良は話題をそらし、そのまま拭き続ける。
一真は、道の両側をちらりと見やる。
人通りがほとんどないのを確認すると、観念したように紗良に任せた。
冷たい飲み物の店が見えた途端、紗良は勢いよくカウンターに向かう。
「何飲む?」
「あんまりこだわりないから、紗良と同じので。」
一真は本気で困っていないような表情でそう言った。
紗良は一瞬固まり、それから我に返って注文する。
「タピオカミルクティー、二つ。氷少なめ、甘さ控えめでお願いします!」
支払いも、当然のように紗良が先に済ませた。
「いくらだった?」
一真が聞く。
「今日は奢る。」
紗良は即答したあと、続ける。
「さっき、ずっと日陰歩かせてくれたお礼。」
一真は少し黙ってから、ふっと笑った。
「そっか。……ありがとう。」
――なんで? 太陽、さっきよりまぶしくない?
――一真くんが、光って見えるんだけど。
紗良は慌てて視線をそらし、ようやく胸の高鳴りが落ち着いていくのを感じた。
しばらく歩いてから、一真はふいに細い路地へ曲がる。
左に折れ、右に曲がり――その先に、小さな本屋が見えた。
気づけば、そこは別の商店街に続く裏道だった。
「今の道、よく分かったね。」
紗良は驚いたように周りを見回す。
「前にここに来た時、迷って覚えた。」
一真は、まるで「歯みがきしてたら、ちょうど歯磨き粉が切れた」くらいの口ぶりで言う。
「迷ったって……。いつの話?」
「引っ越してきたばかりの時。開校前に。」
そう言うと、一真はそのまま本屋の方へ歩いていく。
「やっぱり、ちょっと不思議な人だよね……。」
紗良は、半ば感心しながら一真を見ていた。
彼は、周りのことを何も気にしていないように見えて、本当は色々よく見ているのかもしれない。
自分だったら、新しい道を見つけたら絶対に誰かに話したくてたまらなくなる。
そう思った瞬間、紗良は自分で恥ずかしくなって、口をつぐんだ。
店に入ると、紙とインクの匂いがふわっと広がる。
このにおいに、紗良はよく分からない違和感を覚えたが、冷房の冷たい風に触れた瞬間、全部どうでもよくなった。
今、この店から一歩も出たくない――そう思ってしまうほどの快適さだった。
「一階にある本は立ち読みしていいよ。」
一真は、棚の本を指さしながら説明する。
紗良は、彼の言葉一つひとつを逃すまいと、真剣に耳を傾けていた。
――一真くんから、説明されてる……。
「二階の本はダメだけど。」
一真はそう付け加えると、ゆっくりと歩き出した。
「読みたい本、ある?」
紗良はその隣で、小さな声で尋ねる。
店内があまりに静かで、自分の声がやけに響きそうな気がした。
「小説。」
一真は短くそう答え、逆に尋ねる。
「紗良は?」
――この人、今日どうしたんだろ。
紗良は不思議に思いながらも、すぐに答える。
「わたしも、小説かな。」
一真は頷き、紗良を小説コーナーへ案内する。
そして、奥にあるソファ席を指さした。
「向こうでも読めるよ。」
「でも、ここ、ちょっと狭くない?」
紗良は、ソファスペースの空き状況を見て呟く。
座れそうなのは五人分くらいで、ぎゅうぎゅう詰めにしても十人は無理そうだ。
「二階に個室があって、そこで読むこともできる。」
一真は二階を見上げ、それから紗良に問いかけた。
「個室、取る?」
「え、あ、その……。」
まさか一真からそんな提案が来るとは思っておらず、
意味は分かっていても、別の方向にドキッとしてしまう。
「高いの?」
紗良は、とりあえず現実的な質問をする。
「聞いてくる。」
一真はカウンターへ向かい、店員と少し話をした。
紗良が近づいたときには、もう話は終わっていた。
「行こ。」
一真が振り返り、鍵を見せる。
「え……。」
状況が飲み込めず、紗良は短く声を漏らす。
「もう個室取った。」
一真は鍵を指で回して見せる。
「そ、そっか……。」
――やっぱり、今日の一真くん、どこか変。
そう思いながらも、紗良は後をついて二階へ向かった。
個室のドアを開けると、一真はリュックを中に置いたが、自分は部屋の中に入らなかった。
「入らないの?」
紗良は首をかしげる。
「まだ本、持ってきてないから。」
「あ、そっか……。」
紗良も、自分のリュックだけ中に置き、いったん部屋を出る。
ドアに鍵をかけたところで、一真が尋ねる。
「どうかした?」
「え? ううん、その……。」
紗良は、言うべきか迷いながら口を開く。
「なんか今日、一真くんがいつもと違うっていうか、ちょっと変で……。」
「本屋、好きだから。」
一真は、紗良の言葉の意味を察して、簡潔に答える。
「だから、ちょっとテンション上がってるだけ。」
その一言で、紗良はようやく納得した。
さっきまでの妄想を思い出し、自分にビンタしたくなる。
「ごめん、行こ。」
紗良は軽く頭を下げて、一緒に再び階段を降りた。
個室に戻ると、紗良はまず本ではなく、部屋の内装を見回した。
まるで動画サイトで見たネットカフェの個室のようで、こんなスペースが本屋にあること自体が意外だった。
一真はすでに椅子に座り、本を開いていた。
タイトルは、手がちょうど隠していて見えない。
――今、話しかけたら邪魔かも……。
紗良はそう思い、自分も選んできた本を開いた。
人と人との距離は、物理的な空間だけではない。
心理的な距離もまた、大きな意味を持つ。
心理学では、人と人との距離を四つに分ける――
親密距離、個人距離、社会距離、公的距離。
それぞれが、違う親しさと関わり方を象徴している。
「え、恋愛小説じゃないの……?」
紗良はそこまで読んでから、慌てて表紙を見返す。
『僕と君の間にある“距離”という障害』
紗良はタイトルを小さく読み上げた。
「いや、恋愛ものじゃないの?」
眉をひそめつつ、もう一度ページをめくる。
今さら本を取り替えに行くのも面倒くさい。
そうして読み進めていくうちに、紗良は一つ、すごく好きな一節に出会った。
その瞬間、完全に物語の中に引き込まれてしまう。
「……まだ、ちゃんと考えられない。」
彼女はそう言って、俯いた。
彼女との距離は、たぶん十歩くらい。
声は小さいのに、俺にははっきり聞こえていた。
浜辺に打ち寄せる波の音が、俺の心臓みたいに一定のリズムで響く。
速くもなく、遅くもない。
でも、波がぶつかるたびに、その力が少しずつ強くなっていく。
彼女の返事を聞くのが怖いはずなのに、なぜか俺は不思議なくらい落ち着いていた。
「答えは、いらないよ。」
俺は静かに口を開いた。
それは、この数週間の迷いや期待や不安を全部飲み込んだあとの静けさだった。
「ただ、俺の気持ちを、知っててほしいだけだから。」
そう言って、俺は笑う。
「帰り、気をつけて。」
彼女の背中が小さくなっていくのを見送りながら、俺は言わなかった。
「明日、ここを発つんだ。」という言葉を。
言ったところで、彼女を余計に困らせるだけだと思ったから。
次の日、俺は人より早く空港に着いた。
この街を、二十年以上過ごした場所を離れるのが、寂しくて仕方なかった。
でも、それ以上に――
十年以上、互いの時間を分け合ってきたあの人と離れることの方が、ずっと堪えた。
それでも、現実を受け入れる覚悟はもうできていると思っていた。
涙なんか、とっくに枯れたはずだと。
なのに、出発ロビーの前に立った瞬間、足が止まった。
一歩、足を踏み出したら、何か大事なものが全部なくなってしまう気がした。
携帯の画面には、内定通知のメール。
夢だった仕事を手に入れたのだと、何度も自分に言い聞かせる。
なのに、胸の中は、ごちゃ混ぜだった。
搭乗口近くのベンチに座り、ぼんやりと時間が過ぎていくのを見ていた時だった。
携帯が震え、現実に引き戻される。
「……もしもし。」
画面も見ずに通話ボタンを押すと、聞き慣れた声が耳に届いた。
「たぶんね……私も、君のことが好きなんだと思う。」
「でも、君が夢を追いかけるのを、止めたくない。」
「……ありがとう。」
俺は笑った。
「俺の気持ちが、ちゃんと届いてたって分かっただけで、十分だから。」
「泣きたい?」と、彼女が聞いた。
少し間を置いてから、俺は正直に答える。
「……ちょっと。」
「じゃあ、抱きしめてあげる。」
その言葉に、俺は思わず立ち上がり、周りを見回した。
そして、気づいた。
彼女が、すぐ後ろに立っていたことに。
それでも、涙は止まらなかった。
彼女との距離は、あの時と同じ――十歩。
彼女の手には何かが握られていて、俺の方へ一歩ずつ近づいてくる。
最後の一歩だけ、彼女はとてもゆっくりと歩いた。
今にも引き返してしまうんじゃないかと思うくらいに。
「どうして――」
言いかけた俺の言葉は、彼女のキスで遮られた。
そんな光景を、何度も想像したことがある。
ただ、その舞台が空港で、しかも大勢の人の前だなんて、考えたこともなかった。
「私も、一度くらいは勇気を出してみたくて。」
彼女は手に持っていたもの――俺と同じ便の航空券を見せる。
息が詰まりそうだった。
驚きの方が大きすぎて、喜びが追いつかない。
彼女は仕事が大好きで、今の職場での生活を心から大切にしていた。
それを全部捨てて、俺についてくるということ。
その意味を考えると、簡単な言葉なんて出てこなかった。
何か言おうとすると、彼女はもう一度キスをした。
「一人で行くの、怖いから。」
俺は何も言わず、彼女を抱きしめた。
もしこれが脚本だとしたら――
俺は、書いてくれた作者にこう言うだろう。
「こんな結末をくれて、ありがとう。」と。
気づいた時には、紗良の頬を涙がつたっていた。
慌てて手の甲で拭おうとしたところで――。
「大丈夫?」
一真が、そっと声をかける。
「この本、絶対買う……。」
紗良は、まだ物語から抜け出せないまま、ぎゅっと本を抱きしめた。
一真はタイトルをちらりと見て、ふっと笑う。
「それ、紗良に合ってると思う。」
そう言って、ティッシュを一枚差し出した。
「読んだことあるの?」
紗良はティッシュを受け取りながら尋ねる。
さっきまでの高ぶった感情は、少しずつ落ち着いていく。
「この作者の“感情の乗せ方”が好きなんだ。
キャラクターの気持ちに、一緒に引っ張られていく感じ。」
一真は静かに言う。
――本当に読んでるんだ……。
――一真くんは、この物語の、誰と自分を重ねたんだろう。
「選んで正解だった。」
紗良は、無意識のうちに本をぎゅっと握りしめる。
「もう読み終わった?」
「ほとんど。」
一真は本を閉じる。
「どうしたの?」
「お腹、空かないかなって。」
紗良は自分のお腹を押さえながら言う。
「どっか、行きたい店ある?」
一真は少し考えてから尋ねた。
「別に、どこでも……。
ここって、なんか食べ物頼めたりしないの?」
紗良はテーブルの上の端末に目をやる。
「読み終わったら、外で何か食べよう。
また今度も来ればいいし。」
一真は視線を本に戻しながら答える。
「ゆっくり読んでていいよ。
わたしも、まだ途中だし。」
紗良は本を開きながら言う。
「時間、あと少しで三時間。」
一真は時計に目をやる。
「三時間だけで借りたから。」
「そっか……。」
結局、一真は時間ぎりぎりで読み終え、
紗良もその本をレジに持って行って購入した。
店を出る道すがら、紗良はさっき読んだ内容の感想を語り続け、
一真は自分なりの見解を淡々と返していく。
そのやり取りが、紗良にはたまらなくうれしかった。
――ようやく、一真と共有できる話題を見つけた気がして。
お昼時になり、二人は評判のいいリーズナブルな定食屋に入った。
「結末、どうだった?」
ご飯を待ちながら、紗良が尋ねる。
「現実寄り、かな。」
一真は少し考えてから答えた。
「わたしは、もうちょっとドラマチックでもよかったかなって思った。
でも、そのあとに後日談があったから、読者サービスって感じだったよね。」
紗良は牛肉を一口食べてから、そう分析する。
「結末自体は、好きだよ。
でも、もしあの話、もっと“きつい”終わり方してたら、たぶんもっと忘れられない作品になってたと思う。」
一真は、ほんの少しだけ口元を緩めて言う。
「例えば? 主人公が振られちゃうとか?」
紗良は首を傾げる。
――それ以上に、きつい終わり方なんて、ある?
「女の人は、彼を受け入れる。
でも、現実の事情で、結局は別々の道を歩む。」
一真は言葉を選びながら、
「その方が、たぶん“物語としては”きれいだと思う。」
と続けた。
「どうして?」
紗良には、まだよく分からない。
「ここまでじらしておいて、最後は空港でキスして一緒に旅立ちました――っていうのは、
読者としては嬉しいけど、ちょっと優しすぎるかもなって。」
一真は箸を止め、窓の外を見ながら言う。
「この世界に、“完璧なハッピーエンド”って、ほとんど存在しないと思うから。」
――たぶん、これが、この人の“人生観”なんだろうな。
紗良はそう感じて、胸の奥がざわりとした。
「恋愛するなら、ハッピーエンドがよくない?」
紗良は、少し不安を混ぜながら尋ねる。
「全部が上手くいく恋より、
何かしらの悔いが残る方が、人間らしいんじゃないかな。」
その時の一真は、どこか年季の入った中年男性のような口ぶりだった。
声は穏やかなのに、妙に重みがある。
とても、高校一年生が言う言葉とは思えなかった。
「明日さ、もう一回本屋行かない?」
紗良は、自分でも意外な提案を口にする。
「いいよ。」
一真は、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
夕方。
道路に沈みかけの太陽の色が伸びて、街全体をオレンジ色に染めていた。
綾音は、窓から道路を見下ろしていた。
ふと、一真が自転車で走ってきた時の姿を思い出す。
彼女は、くすっと笑った。
最初に会った時は、ただ「変な人が来た」としか思えなかった。
家に来て、神社に行って、また戻ってきて、やがていなくなった――
その不思議な行動ばかりが印象に残っていた。
「お兄ちゃんがいないのに、なんでわざわざ神社に行くの?
余計に寂しくなるだけなのに。」
あの頃は、そう思っていた。
ぼんやりと外を見つめながら、綾音は考える。
――もし、お兄ちゃんが死んでいなかったら、今の自分はどうなってたんだろう。
一真と初めて会った時から、
「この人は、他の男の子とは違う」
と感じていた。
ただ、その「違う」が何なのか、はっきりと言葉にはできなかった。
「お兄ちゃん、わたし……一真くんのこと、好きになってもいい?」
綾音は、空を見上げながら、そっと呟く。
一真は、あの日こう言ってくれた。
――翔太くんは、空から綾音ちゃんのこと見てるよ。
――ちゃんと守ってくれる。
慰めの言葉だと分かっていても、その一言が心を支えてくれた。
あの日から、綾音は一真が自転車でやって来るのを待つようになった。
神社へ向かうその後ろ姿の後ろを、何も言わず、ただついていくようになった。
綾音はもう一度道路を見て、それから立ち上がる。
階段を降り、リビングのソファに座っている両親の隣に腰を下ろした。
「ねえ、お父さん、お母さん。」
綾音は二人の顔を、順番に見つめる。
「わたし、一真くんのこと……好きになってもいい?」
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