第14話:好きって、こういうこと?
空は、まるでキャンバスに浮かぶ綿菓子のような白い雲をいくつか散らし、そのあいだから差し込む光の柱は、遠くから見ると一枚の絵画のように美しかった。
それは、一真がぼんやりと空を見上げるのが好きな理由のひとつでもある。
「きれい……!」
隣にいた綾音もその景色に気づき、思わず声をこぼした。
一真は口元にかすかな笑みを浮かべたまま、その方向を見続ける。
街のほうへと降りそそぐ陽光は、まるで誰かがそこに生まれ落ちた瞬間のようだった。
「いっちゃん。」
綾音がそっと彼の腕を叩く。
「ん?」
一真は軽く返事をする。
「ねぇ、あの光……なんて言うか知ってる?」
綾音が光の柱を指差す。
「知らない。」
「天国の階段、だよ。」
「……うん。確かに、そんな感じがする。」
一真はその言葉を否定しなかった。
「でもね――」
綾音は一真の腕に絡みつくように寄り添いながら言う。
「死んだ人が天国へ行くときに通る道、って意味なんだって。」
綾音は一真の横顔を見つめた。
「なんか……ちょっと悲しくない?」
一真は視線を戻し、水のように澄んだ綾音の瞳を見つめ返すと、無表情のまま彼女の額を指でつついた。
「……おでこ、また高くなった。」
さらに押す。
「いっ……! なってないし!」
綾音は仰け反りながら抗議する。
最近、綾音が妙に自分にくっついてくる――一真はそれが少し気になっていた。
「こつん。」
乾いた音が額に響く。
「いったぁ……」
綾音はしゃがみ込み、額を押さえて顔をゆがめた。
一真は歩みを止め、見下ろす。
――もし、妹じゃなかったら?
耳の奥で、ふいにその言葉が蘇る。
一真の目に、わずかな柔らかさが宿った。彼もしゃがみこむ。
「ごめん。ちょっと強かった。」
「ほんとに痛かったんだよ……」
「じゃあ、午後にスイーツ食べに行く?」
子どもをあやすような、淡くて優しい声。
綾音はこくりと頷き、数秒して立ち上がった。
「っ……」
まだ眉間を寄せて額をさする。
一真は一瞬だけ罪悪感に胸が痛み、綾音の頭にそっと手を添えた。
「大丈夫?」
綾音は片目を開けて一真を見上げ――
「だまされたでしょ!」
と、ぱっと笑った。
一真は無言で手を離し、そのまま踵を返して歩き出す。
が、綾音が彼の手首をつかんだ。
「でもね……ほんとにちょっと痛かったんだよ?」
その手は、さっきより強く握られた。
「罰。校門まで、絶対に離しちゃだめ!」
そう言って、返事を待たずに綾音は歩き出した。
棠と帰るのが日課になってから、千夏子は放課後に一緒に帰れる相手ができた。
帰り道が同じ方向だったのがきっかけだ。
そして今日も――。
「……え?」
校門の手前で、千夏子は綾音に手首を引かれて歩く一真の姿を見た。
千夏子の肩紐を握る手に、ぎゅっと力が入る。
「たぶん、綾音が一真の弱みを握ったんでしょ。」
棠が軽く言う。
「二人って……家、近いの?」
千夏子は気づかれないよう小さく尋ねた。
「えっと……言っていいのかな……」
「お願い……」
千夏子の声はどこか切実だった。
「確か、同じ道だったはず。」
その瞬間、千夏子は深く息をついた。
「どうしたの?」
棠が不思議そうに尋ねる。
「咳でそうだっただけ。」
千夏子は喉を指して微笑んだ。
「でも出なかった。」
そう続けると、
「それ、逆に身体に悪いやつ。」
棠は軽く笑い、歩き出した。
胸の奥に、重く湿った霧のような感情が渦巻く。
どうしても晴れない。
教室へ向かう道で、千夏子の脳裏にはさっきの光景が何度も再生される。
綾音の楽しそうな笑顔。
一真の、少し困ったような横顔。
「吉城さん、おはよー!」
クラスメイトの声で我に返る。
「おはよう。」
いつものように微笑んで返す。
――また、思い出してた。
千夏子は自分に小さくため息をついた。
教室に入ると、自然と視線は一真へ向かう。
彼は今日も窓の外を眺めていて、賑やかなクラスの空気とは別世界にいるようだった。
「はーい!」
風紀委員が前に立つ。
「先生から、中間テスト近いからって。始業前は勉強タイムだってさー。」
と言っても、ざわざわは止まらない。
風紀委員が注意しようとしたとき――
千夏子がすっと立ち上がった。
「おしゃべりすると、勉強してる人の迷惑だよ?」
柔らかく、けれどしっかり通る声。
皆が千夏子の方を向く中、ただ一人、一真だけは黙って本を読む。
「やっぱり……一真くんはいつも通りだね。」
千夏子は座りながら、心の中で呟いた。
昼が近づく頃、千夏子は弁当を持って一真の席へ向かった。
「ん? なにか用?」
一真が顔を上げる。
「今日、お弁当持ってきた?」
千夏子が小首を傾げる。
一真はカバンから弁当袋を取り出した。
そこには――ピンクのウサギの缶バッジがついていた。
綾音がつけたのだろう、と千夏子は直感した。
「……ウサギ、好きなの?」
思わず聞いてしまう。
「いや。朝目についたから使っただけ。」
一真は胸元のバッジを指しながら言った。
「袋を留めるのに便利だっただけ。」
「なにかあった?」
そう締めくくる。
――なにかあった?
わたしはただ……あなたと話したいだけなのに。
どんな言葉を選べばいいのか、自分でもよく分からない。
「一緒に食べよ!」
思わず口から飛び出した。
一真は千夏子の友達グループを一度見てから、彼女を見る。
「友達と食べないの?」
淡々とした声なのに、なぜか胸が刺さる。
「その……」
千夏子は一瞬だけ俯き、
向かいの席にすとんと座った。
「話し合いでしょ?」
「……なにの?」
一真は本気で分かっていない。
「生徒会の話。」
千夏子は弁当を彼の前に置いた。
「断られるの嫌だから、理由つけて来たの!」
両拳をぎゅっと握りしめる。
もし断られたら――膝が崩れそうだった。
「……あぁ、思い出した。」
一真はぽつりと言う。
そして少し身を乗り出した。
「けど、話すことある?」
「ひ、日比野一真……!」
千夏子は困ったように笑う。
「無理やり虫で脅すよ?」
一真は小さく吹き出した。
「たまに思うんだよ。どれが本当の君なんだろうって。」
「え?」
千夏子は瞬きをする。
「小さい頃は、家に帰ったときだけしか会わなかったろ。」
一真の表情がわずかに柔らぐ。
「今の君、なんか……前とは全然違う。」
千夏子は静かに聞きながら、
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
――わたしのこと、見てくれてたんだ。
「どういう意味?」
期待を込めて聞く。
しかし――
「いや。ただ、昔の君とは違うなって思っただけ。」
その答えは、想像していたものとまったく違った。
「じゃあ……」
気づけば声が出ていた。
「ん?」
「昔のわたしと、学校のわたし……」
「どっちが好き?」
――言ってしまった。
自分で自分の口を押さえ、弁当を掴んで逃げ出した。
「一緒に食べるんじゃなかったの?」
一真はぽつりとつぶやき、蓋を開ける。
「ねぇねぇ、レースのやつ!」
「ぱしっ!」
頭に手刀が落ちる。
「いてっ!!」
葵は頭を押さえてうずくまる。
「名前で呼べ。」
紗良がタオルで手を拭きながら言う。
「でもレース選んだの紗良じゃん……」
痛みが引くと、葵は姿勢を正した。
「だからって毎回言わなくていいでしょ!」
紗良の顔がほんのり赤くなる。
放課後が近づき、クラスのほとんどが帰ったが、葵と紗良だけは残っていた。
「宿題、終わらないと減点だよ。」
紗良が作業を促す。
「家に忘れただけだし……」
葵はため息をつきながらペンを動かす。
「小千、また待ってるよ?」
紗良が急かす。
「安心しなって。もう伝えてある。」
葵は得意げに言う。
「ほら、書け!」
紗良がまたノートを指す。
「今日、遅れるって。だから大丈夫。」
誇らしげな口調。
「まったく……避けられるでしょ、こういうの。」
紗良は呆れ顔。
「そういえば……」
紗良がそっと葵に近づく。
「小千のあだ名、“ちいリボン”とかじゃないよね?」
葵の目が輝く。
「正解! やっぱ紗良わかってる!」
「本人知ってるの?」
紗良が絶句する。
「もちろん。でも反応そこまでじゃなかったよ?」
葵は肩をすくめる。
紗良はスマホを取り出して呟く。
「絶対、葵のせいで感覚バグってる……」
葵はニヤニヤしながらペンを置いた。
「ほら、書けってば!」
三人で店に着くのは、すっかり習慣になっていた。
「千夏子ちゃんのお母さん、優しいよね。」
紗良がお茶をかき混ぜながら言う。
店内は少し混んでいたが、穏やかな空気が流れていて、店員も走り回る必要はなかった。
「前に小千がケガしたとき、私が背負って帰ったからね。」
葵は無料のケーキをパクッと食べる。
「そうだ、二人って試合で知り合ったんだったね。」
紗良は軽く頷く。
「でも……甘すぎない?」
紗良は言う。
「その……あだ名の件だけど……」
千夏子は苦笑い。
「裏で言うから気にしないで。」
葵は悪びれない。
「ねぇ、小千って手伝わなくていいの?」
紗良が尋ねる。
「大丈夫。」
千夏子は迷いなく答える。
「ほんと、手伝いなくても回りそうな店だよね。」
葵は店内を見回す。
「でも休みの日、全然遊べないでしょ?」
紗良も心配する。
「んー……」
千夏子は少し考え、
「ちょっとだけ、かな。」
指で「すこし」を示す。
そのとき、葵が身を乗り出す。
「そういえば、小千。聞きたいことあるって言ってたでしょ?」
「なに?」
紗良と葵が揃って覗き込む。
千夏子の心臓が、一番不安になるような打ち方をする。
「えっと……」
口を開いたものの、すぐには言葉が出ない。
二人はただじっと待っている。
数秒の沈黙ののち――
「……好きな人がいるって、どんな感じ?」
二人の身体が同時に前に傾いた。
「誰!? 誰なの!? 同じ学校!?」
葵が大興奮。
「いつから!? なんで今まで言わなかったの!」
紗良も同じく大パニック。
千夏子は驚いたように二人を見た。
まず紗良、そして葵を見た――。
その一秒。
ほんの一秒の視線の揺れが、
紗良の胸に、嫌な予感として刺さる。
――もしかして。
「……同じクラス?」
紗良の声は小さく、落ち着いていた。
「え? 声小さくて聞こえない!」
葵が紗良を軽く突く。
千夏子は指を絡め、不安げに紗良を見る。
「ごめん……私も聞こえなかった。」
そう言う。
「じゃあ……上級生?」
紗良がもう一度尋ねる。
千夏子は首を横に振る。
葵は紗良の表情の変化に気づいた。
しかし――
「ないない。小千めっちゃ内向的だよ? 自分から上級生と話すとかありえないって。」
葵は明るく笑って流した。
紗良は唇に触れ、ぎこちなく笑う。
「だよね。やっぱ先輩とかだと思った。」
千夏子は、いつものように上品に微笑んだ。
「二人の意見を聞いてみたかっただけなの。紛らわしくて、ごめんね。」
葵が肩をぽんぽんと叩いた。
「だってあの顔! 誰だって勘違いするよ!」
葵は笑い出す。
「でもさ、小千に好きになってもらえる人って――」
紗良は心からの笑みで続けた。
「すごく幸せ者だと思う。」
その笑顔は、優しく温かかった。
――もし、小千の想いの相手が一真だったとして。
――一真には紗良の気持ちがある。
千夏子は思う。
(なら……わたしが一歩引いたほうが、いいのかも。)
三人の視線が絡み合う。
その笑顔は、どこか切なくて、
どこか互いを祝福していて、
そして――友情そのもののように見えた。
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