第12話:雨音と、すれ違う心

この日、朝起きたときにはもう空一面が雲に覆われていて、

空気の湿った重さが、やがて大雨になることを告げていた。

紗良は静かに窓の外を見つめて、

学校へ行くかどうかをぼんやりと考えていた。

「雨の日って、本当やだ。」

洗面所に向かう前にスマホを手に取り、画面を開く。

「また返事ないし!」

多少距離があっても、一真を誘えば一緒に出かけられる。

そう思っていたからこそ、本当は「休みの日、どこか行かない?」と

一言聞ければいいだけなのに——その一言がどうしても言えなかった。

高校生になってから、心ってこんなに面倒だったっけ。

中学生の頃は、もっと気軽に「行こーよ」って言えていたのに。

紗良は歯を磨きながら、ふと手を止める。

「もしかして……あいつ、本当はあたしに構われるの、嫌だったりする?」

一真が前に、真面目な顔で言ったことがある。

「俺、あんまりしゃべるの、好きじゃないから。」と。

その言葉を、紗良はいつも冗談みたいに受け流してきた。

けれど改めて思い出すのは、いつもクラスの隅っこにいる彼の姿。

輪から離れて座って、誰とも話さない横顔。

「でも、嫌いってわけじゃ……ないよね?」

だって、卒業式の日。

泣きながら笑っていた一真の顔は、間違いなく「嬉し泣き」だった。

あれが演技だなんて、考えたくない。

「クラスの子たちとは、もう慣れた?」

身支度を終えた紗良は、そうメッセージを送る。

高校が始まってから、もうしばらく経つ。

その間、メッセージ以外で一真と話したことはなかった。

電話もしていないし、当然、直接会ってもいない。

もし一真が「会えない相手には、自分から連絡しない」タイプだったら——。

卒業した時点で、彼のことはもう何も分からないままだったはずだ。

そう思うと、紗良の胸がざわついた。

紗良は、何度も一真の「行動を変えさせたい」方向に話を持っていった。

けれど、一真はいつも話題をそらす。

トークルームを上へとスクロールする。

そこに残っているのは、一真なりの「嫌だ」というサインで。

紗良は、それをずっと見ないふりをしていただけだった。

「……あたし、たぶん、やらかしてる。」

その頃、一真はただじっと、窓の外を見つめていた。

今にも降り出しそうな空。

けれど洗濯物を取り込むこともなく、ただ空だけを見上げている。

「今日は、一日中降るんだろうな。」

小さくつぶやき、そして立ち上がる。

綾音を起こしに行かなくてはいけない。

ちょうどそのとき、ぽつぽつと音を立てて雨が降り始めた。

一真は足を止め、しばらく耳を澄ませる。

それから、すぐに「学校」のことを思い出し、歩き出した。

「起きて。」

軽くノックするが、返事はない。

もう一度ノックする。

それでも、静かなまま。

「綾音?」

少しだけドアを開ける。

「……うん。」

かすれた声が、暗い部屋の奥から返ってきた。

「具合悪い?」

ドアを開けると、綾音はベッドの上で座っていた。

まるで、ずっと前から起きていたかのように。

綾音は小さく首を振り、

それからなにかを切り替えるように深く息を吸い込む。

「朝ごはん、なに?」

「トースト。簡単なの、ちょっとだけ。」

そう答えてから、

「起きておいで」と一言付け足し、ドアを閉めた。

今日の綾音は、明らかにいつもと違う。

けれど、それは彼女だけじゃない。

一真の心の中にも、重たい雲がかかっていた。

朝ごはんの間も、会話は続くようで続かない。

綾音が無理やりテンションを上げようとしているのは、見れば分かった。

だが一真は、そのことをあえて口にはしなかった。

「眠れてない?」

家を出る前になって、ようやく一真が聞く。

「ちょっと……昨日、あんまり。」

綾音は左手で目をこすり、

右手で手探りに傘を探す。

「学校行ってから、寝な。」

一真はそう言って、傘を彼女の手に握らせた。

学校までの道のり。

綾音は一言もしゃべらない。

二人は一列になって、雨の中をゆっくり歩く。

ぱしゃ、ぱしゃ、と靴が水たまりを踏む音。

そこに、雨音が重なる。

一真は、雨の日が好きだ。

雨の日は気持ちが沈む。

それでも、雨の音を聞いていると、不思議と落ち着くのだ。

——自分の心の中は、いつも雨が降っているから。

そんなふうに、彼は思っている。

「一真くん。」

しばらく歩いたところで、後ろから綾音が声をかける。

「ん?」

一真は歩調を緩め、振り返る。

「今日のお弁当……作るの忘れてない?」

少し間を置いてから、綾音はそう言っ。

「あ……完全に忘れてた。」

振り向いた先で、綾音はうつむいたまま、ゆっくり歩いている。

彼女はいつものようにからかってくることもなく、

ただ続ける。

「じゃあ、お昼、買いに行ってもいい?」

そう言ってから、一真の顔をちらりと見上げる。

目が合うと、またすぐに視線を落とした。

「いいよ。」

一真は短く答える。

「じゃあ、お昼休みに迎えに行く。」

普段の綾音なら、もっと軽い調子で言うだろう。

でも今日の声は、やけに静かだった。

一真は黙ったまま、歩くスピードを落とし、

彼女の横まで下がる。

「本当に具合悪くない?」

そう言って、そっと額に手を当てた。

綾音は一瞬びくっとしながらも、

その手を払いのけることはなかった。

「大丈夫。ただ、雨が好きじゃないだけ。」

「もししんどかったら言えよ。」

一真は手を離す。

「おばさんにも、ちゃんと『綾音のこと見る』って約束したし。」

「……うん。」

一真が前を向いて歩き出した後、

綾音はそっと目尻の涙を拭った。

「本当に……今日は、一日中降るんだろうな。」

涙を拭き終えて、また一歩を踏み出す。

そうして二人は、学校に着くまでほとんど言葉を交わさなかった。

ちょうどお昼前、

クラスのグループに担任からメッセージが飛んできた。

『吉城くん、今日中にクラスのみんなの部活、集めてくれる?』

上履きの泥を拭きながら、その文面を読む。

「今日か……。」

一真はノートを一枚破り、

片側にクラスメイトの名前をずらっと書き出し、反対側は空欄のまま残す。

それを持って黒板へ向かおうとしたとき、

隣の席に誰かが近づいてきた。

「一真。」

顔を上げると、千夏子だった。

「どうかした?」

一真は尋ねながら、ノートを見せる。

「ちょうどよかった。部活、決めたやつ書いて。」

「さっき先生からも来てさ。放課後、うちら二人で職員室来いって。」

千夏子は隣の席に座りながら言う。

「部活のこと、なんだって。」

「分かった。ありがとう。」

一真が笑って答えると、

千夏子はすぐに続けた。

「その紙、黒板に貼っとくね。先生にもそう言われたし。」

そう言い残し、紙を持って前に出る。

貼り終えると、教卓の前でみんなに向かって声をかけた。

「今日中に、参加する部活書いておいてねー!」

「……いい子だな。」

席に戻っていく千夏子を見ながら、一真は思う。

そして、ふと気づく。

——きっと、こっちが本当の千夏子なんだろうな。

「ごめんねー。」

と、後ろから柔らかい声が飛んだ。

「藤堂さん、どうしたの?」

千夏子が立ち上がって振り向く。

「吉城くん、いますか?」

綾音が穏やかな笑みを浮かべて、そう尋ねた。

千夏子は少し驚いた。

いつもと雰囲気が違う。

声も、どこかかしこまっている。

「いるよ。えっと、吉城くん——」

呼ぼうとした瞬間、

一真はもう千夏子の横まで歩いてきていた

「俺から行くよ。ありがとう。」

そう言って、微笑む。

一真はそのまま教室の外へ足早に出ていく。

綾音は千夏子に軽く一礼してから、その後を追った。

「一真くん、もうこの辺でいいよ。」

少し歩いたところで、綾音が言う。

一真は足を止めて振り向いた。

「わざわざクラスまで来て、どうした?」

「……。」

綾音は口を開きかけ、

言葉を飲み込むように一度だけ瞬きをする。

そして、ようやく絞り出す。

「怒ってる?」

「怒ってないよ。」

一真は自分の顔を指さして見せる。

「ほら、怒ってたら、こういう顔にはなってない。」

「ただ、何してるのかなーって。」

綾音は一真の正面まで歩いてきて、

不機嫌さを隠そうともしない表情で見上げた。

「どうした?」

一真は今度は背中を向けず、綾音の隣に立ったまま聞き返す。

「眠いだけ。」

綾音は目線を逸らさないまま答える。

——この顔、前にも見たことがある。

一真はふと思い出す。

あの日、綾音の家で。

翔太の野球ボールをじっと見つめ、

現実に戻れなくなっていたあのとき。

一真が肩を揺らして、ようやく、

「抱きしめてほしい」と言った、あの瞬間。

「行こ。お腹空いたでしょ?」

一真の声が、さっきより柔らかくなる。

「うん……。」

綾音は小さくうなずき、歩き出した。

一真は、泣き続ける空を仰ぎ、

小さくため息をついた。

ちょうど同じ頃。

別の学校でも、誰かが雨に文句を言っている。

「紗良ー、お昼買いに行くけど、行く?」

葵が財布を手にひょこっと顔を出す。

「なんか買ってきてー。」

紗良は机に突っ伏したまま返事をする。

「なにそのやる気のなさ。ほら、立って!」

葵は紗良をそのまま抱え上げる。

「ちょ、ちょっと!変なとこ触んないでってば!」

紗良が慌てて声を上げると、

男子たちの視線が一斉に集まった。

紗良は思わず顔をうつむけた。

「ごめんごめーん。」

葵は舌を出して軽く謝り、

すぐに紗良の耳元で小声を落とす。

「でもさ、あんた、意外と……あるよね。

「水・田・葵。」

紗良はじとっとした目でにらむ。

「なにさ!」

葵は両手を上げて、おとなしく降参ポーズ。

「どの男が、嫌いなわけ?」

紗良は再び人混みを眺め、

どこか列に割り込めそうな隙を探す。

「素直に認めるとは思わなかったわ。」

葵は一気にテンションを失ったように言う。

「素直に乗ってあげたほうが、めんどくさくないの。」

そう言った瞬間、紗良は列のことを忘れてしまう。

「ほら、あそこ!空いてる!」

葵は紗良の腕をつかんで、ずんずん進んでいく。

紗良の頭の中はまだ別のことでいっぱいだった。

——だったら、なんであいつ、自分からあんなに離れていくの?

一方その頃、教室に戻った一真は、

案の定、男子たちに囲まれていた。

言うまでもなく、話題の中心は綾音だ。

一真は、受けた質問にはひとつひとつ丁寧に答え、

あまり良くないタイプの奴らの誘いは、

さりげなく全部はねのけておいた。

放課後が近づく頃。

一真は黒板に貼った紙をじっと見つめていた。

まだ、数人が空欄のままだ。

「他にも書いてない人、結構いるよ。」

考え込む一真を見て、千夏子が言う。

「もしかして、勝手に決めて書くつもり?」

身を乗り出して、紙を覗き込む。

「バレた。」

一真は苦笑いを浮かべた。

「あと一人。」

そう言って、残りの名前を見る。

絵に描いたような不良。

見た目からして、「関わりたくない」の一言に尽きる。

「じゃあ、最後の一人は、あたしが——」

「いいよ。俺が聞く。」

千夏子の言葉を手で制し、一真は立ち上がる。

近づいて行き、軽く手を挙げて話しかけた。

「ねえ、部活、決めた?」

男は足を組んだまま、めんどくさそうに顔を上げる。

「で?」

一真は、あえて困ったような表情を作る。

「今日までに出さないといけないんだ。

 まだ決まってないなら、そう書いとくけど。」

「だから?」

男は口角を上げて続けた。

「じゃあさ。さっきの女、紹介してくれよ。

 そしたら、考えてやってもいいぜ。」

「会わせることはできるよ。

 でも、あの子がどうするかは、あの子が決めることだろ。」

一真の声は落ち着いている。

けれど、さっきよりずっと冷たい。

「なんでお前が頼んでくれねーの?」

男はさらに調子に乗る。

——適当に流して終わらせるか。

一真がそう考えた瞬間、

千夏子が一歩前に出た。

「だったら先生に言って、時間もらうってことでいい?ね?」

二人の間に入るように立つ。

男は千夏子を横目で見て、

鼻で笑うように言った。

「女にかばってもらうとか、だっさ。」

そして一真を見据える。

「さっきの女さ、お前の女じゃないんだろ?」

「そうだよ。でも、あの子がお前に興味持つとは思えないけど。」

一真はごく普通の笑顔のまま答えた。

そして、そのまま続ける。

「お前の股間がムズムズしてるからって、

 俺が世話焼いてやる必要はないだろ。」

「ちょっ……。」

千夏子は慌てて止めようとするが、言葉が追いつかない。

「てかさ。」

男は立ち上がり、一真の胸を指でつつく。

「ああいう子ってさ、お前みたいなコミュ障が好きなの?」

「——!」

乾いた音が教室中に響いた。

男の頬が、真横に跳ねる。

「選ぶとしても、絶対あんたじゃない。きっしょ。」

綾音は怒りを隠そうともせず、

まっすぐ彼をにらみつけた。

「ちょっと!」

一真はすぐさま綾音の腕をつかみ、その場から引き離す。

棠も慌てて後に続いた。

中庭まで来て、ようやく一真は手を離す。

「いつから、うちのクラスにいた?」

「……あいつが、あたしのこと聞き始めたとき。」

綾音はうつむいたまま答える。

自分は間違っていない。

そう思っている。

それでも、一真の声には怒気が混じっていて、

そのことが、不安を煽る。

「でも、手出すのは違うだろ。」

一真は棠の方へ向き直る。

「ごめん、綾音を家まで送ってあげてくれる?」

「い——」

綾音は呼び止めようとする。

けれど、その前に一真が振り向いた。

「俺、あとで帰る。綾音、お前もあんまり遅くなるな。いいな。」

その目は、いつもより鋭くて。

綾音は、初めて見る顔だと思った。

「頼む。」

もう一度棠に頭を下げてから、

一真は教室へと戻っていった。

教室には、もう数人しか残っていなかった。

さっきの不良の姿もない。

「書いてくれたよ。」

席に座っていた千夏子が、一真に紙を差し出す。

「急に素直になってさ。」

「……ありがと。」

一真は少し拍子抜けした顔で、紙を受け取る。

「先生のとこには、俺一人で——」

「一緒にって、先生が言ってた。」

千夏子はすでに鞄を背負って、隣に立っていた。

「さっきのことなんだけど——」

一真が口を開きかけると、

「悪いのは、あいつ。」

千夏子は先に言った。

「でも……きつい言い方したのも事実だよ。」

一真は鞄を肩にかける。

「先にああいう言い方してきたの、向こうだし。」

そう言って歩き出す。

「でもね——」

千夏子が追いかけるように続ける。

そこで今度は、一真が遮った。

「分かってるよ。俺の言い方も、正しくはなかった。」

一歩近づき、千夏子を見下ろす。

「でもさ、もしお前が『コミュ障』ってバカにされたら、

 ムカつかない?」

「みんなと仲良くできるの、悪いこと?」

千夏子も、引くつもりはない。

「最初から、助けようとしてたのはあたしじゃん。」

「世の中、みんなが話せば分かる相手じゃないって。」

一真の声は低いままだが、

その態度には、はっきりした棘があった。

「でも、どんな相手だろうと、言葉は選べる。」

千夏子も負けずに言い返す。

「——君たち。」

後ろから、担任の声が飛んだ。

二人は反射的に振り向く。

「職員室、来なさい。」

一方その頃、一真に「帰れ」と言われた綾音は、

棠と一緒に帰り道にある喫茶店へ入っていた。

「一番高いやつください。」

そう言って、メニューの中で一番豪華なパフェを頼む。

「そろそろ、話してくれる?」

スプーンでアイスをすくいながら、棠が聞く。

さっきまでの道中、何度聞かれても、綾音は何も答えなかった。

「さっきの人、一真。」

綾音はクッキーをアイスに浸して、ぱくっと食べる。

「あー、どこかで見たと思った。

 そりゃ、手も出るわ。」

棠は納得したようにうなずく。

「あいつ、ひどいこと言ってたよ。聞こえなかった?」

綾音はまだ怒りが収まらない様子で、

アイスをぐさぐさ刺しながら言う。

「うーん……でも、あんたがビンタするとは思わなかった。」

棠はスプーンを口に運びながら首を傾げる。

「今まで、人殴ったことなんてなかったのに。」

「あたしの、きょ・う・は、そういう日だったの。」

綾音はパフェの上の部分を強めに突き刺し、

それからぺろりと舐めた。

「運が悪いのは、向こう。

 一真にちょっかい出したから。」

棠は「はいはい」と笑って見守る。

これ以上強く突いたら、ガラスの器が割れそうだな、と心の中で思いながら。

職員室では、担任が真剣な顔で二人を椅子に座らせた。

しばらく黙って二人を眺めてから、

ようやく口を開く。

「で。最初に火つけたのは、どっち?」

「俺です。」

一真が即座に答える。

「どういう流れで?」

今度は腕を組み直しながら尋ねる。

「クラスメイトと、ちょっと言い合いになりました。」

「さっき、すごい声、廊下まで聞こえてたよ。」

担任は千夏子の方を見る。

「分かってます。」

二人は揃って答えた。

「人と一緒にいる以上、ケンカなんていくらでも起きる。」

担任は一真に視線を戻す。

「でもね、大事なのは『相手じゃなくて、問題を責める』こと。」

「さっきのケンカ、価値あったと思う?」

二人は何も言えなかった。

ただ、それぞれが頭の中で振り返っていた。

「ちょっと考えてみなさい。」

担任は席を立ち、パソコンの前をあけて歩き出す。

「その間に、部活の登録やっちゃおうか。」

コップを手にしながら振り返る。

「千夏子、一覧読んで。吉城くんは打ち込んで。」

しばらくして入力が終わると、

担任はふいに微笑んだ。

「ほら。二人でやれば、早いでしょ?」

一真と千夏子は顔を見合わせ、

そのまま担任の方を見た。

「これ、持って帰って。」

担任は一枚の同意書を取り出す。

「成績のいい子、各クラス二人を、

 部活に入れないで『講習』に回したいって話が出ててね。」

一真は同意書を見つめながら耳を傾ける。

「先生、これ、保護者のサインいらないんですか?」

千夏子が尋ねる。

「いらない。これはね、生徒会と校長が揉めて、

 『生徒が嫌なら無理にさせない』って決めた紙だから。」

——じゃあ、今回は生徒会の勝ちだな。

一真は心の中でつぶやいた。

「もう遅いから、今日は帰りなさい。」

そう言って、担任は二人に立ち上がるよう促した。

そして最後に、一真を指さす。

「今日の件はね、全部、一真のせいってことで。」

「え?」

一真は目を丸くする。

だが、すぐに気持ちを切り替えた。

「分かりました。」

「さっきは、ごめん。」

昇降口へ向かう途中、

一真が先に口を開く。

「あたしも、ごめん。」

千夏子も素直に頭を下げる。

校舎を出ると、さっきよりも雨脚はさらに強くなっていた。

前がかすむほどの雨粒。

「傘、持ってないの?」

一真は両手が空の千夏子を見て尋ねる。

「ちょうど今日は忘れた。」

そう言って、スマホを取り出しロック画面を見つめる。

「そっか。」

一真は開いていた傘を一度閉じ、

そのまま持ち直した。

「え?待っててくれなくていいよ?」

千夏子は慌てて言う。

一真は一度、中庭の方へ目を向ける。

電気もついていない、うす暗い空間。

「本当に、一人で平気?」

「えっと……うん……。」

千夏子は視線を落とし、小さく答えた。

「ありがとう。」

二人で並んで歩き出してから、

しばらく沈黙が続く。

ようやく千夏子が、ためらいがちに口を開いた。

「今日、なんか……元気なかったよね。」

「そうかもな。」

一真は前だけを見ている。

言葉にはならない、重い寂しさが目の奥に沈んでいた。

「話したくなったら、聞くからね。」

喉まで出かかった言葉を、

千夏子は結局、飲み込んでしまう。

二つ角を曲がったところで、

ちょうど千夏子の家族の車が止まっていた。

一緒に乗っていかないかと誘われたが、

一真は丁寧に断り、そのまま歩き続ける。

「……ん。」

ポケットの中で、スマホが鳴る。

「なに。」

電話に出ると、すぐに声が飛んできた。

『なに、じゃないでしょ。あんた、今までどこ行ってたの。』

紗良の声だ。

一真はボリュームを少し下げてから、耳に当て直す。

「最近、ちょっといろいろあって。」

いつもなら、このタイミングで「どうせ文句言ってるんだろうな」と

どこかおかしく思えたはずだ。

だが今日は、そんな余裕はまったくなかった。

『ふーん。売れっ子さんは大変ですねー?』

「で、どうしたの。」

一真が問い返すと、今度は紗良が少し黙る。

『別に。用事がある時だけじゃなくて、

 普通に連絡取ってもいいじゃん。』

「雑談ってこと?」

『そうそう。分かってるじゃん。』

一真の頭の中が、一瞬ぐちゃぐちゃになる。

少し間を置いてから、ようやく言葉が出た。

「家に着いてからでもいい?」

『……分かった。忘れないでよ?』

通話を切ってから、一真は目を閉じて、

傘を下ろし、顔を隠すように角度を変えた。

耳元で、無数の雨粒が音を立てる。

その音が、妙に心地よく感じられた。

何も考えず、ただ雨の中を歩くことだけに集中していると、

心の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。

——傘なんか捨てて、ずぶ濡れになれたらいいのに。

そんなことを思いながら、

ゆっくりと家へ向かった。

家に着いた頃には、もうすっかり遅い時間になっていた。

一真にしては珍しく、夕飯は綾音に任せず、

デリバリーで済ませることにした。

その夜、二人はほとんど会話もないまま、

それぞれ自分の部屋へと引きこもる。

ベッドに腰掛けてから、一真は、

朝の紗良のメッセージにようやく返信を送った。

『もう慣れた』

すぐに、返事が来る。

『クラスに、話しやすい人いる?』

『一人なら』

『それならよかったじゃん!』

『学校はどう?』

『まだ、よく分かんない』

一真は、そこまで打っていったん指を止める。

『卒業式のこと、覚えてる?』

紗良からのメッセージ。

『覚えてるよ。急にどうした。』

内心、理由に心当たりはあった。

それでも、最後の一押しが欲しかった。

『あの時さ。すごく嬉しそうだったよね?』

少し考えてから、一真は短く返す。

『うん』

『だったら、なんで今は、いじめられてるみたいなことしてるの。』

——逃げ続けていた問い。

一真は、ついにその言葉と正面から向き合う。

『俺が、前にクラスで無視されてたときのこと、覚えてる?』

『覚えてる』

『俺も、覚えてる』

『あのとき、どうやって一人で耐えてたかも、ちゃんと覚えてる』

紗良は、すぐには返信してこなかった。

でも、一真は続ける。

ここでやめたら、またいつものように、ごまかしてしまうから。

『紗良は、俺をいじめた側じゃない。

 それは分かってる。』

『でも、誰も何も言ってくれなかった中で、

 黙って見てた一人でもある。』

スマホの光を見つめながら、紗良は固まる。

画面に浮かぶ一文字一文字が、

胸の中に刺さっていく。

『あの頃ずっと助けてくれてたことも、

 本当に感謝してる。』

『でもさ、もういいだろ。』

『罪滅ぼしみたいに俺のこと気にかけるの、

 そろそろ終わりでよくない?』

『中学はもう終わった。高校生になったんだ。

 お互い、自由になってよくない?』

『それとも、直接言わないとダメ?

 「今までありがとう」って。』

——まるで目の前に立って、

そのまま口にしているかのような言葉だった。

最後のメッセージを送り終えてから、

一真はスマホをベッドに放り投げた。

しばらく、天井を見つめたまま動けない。

「……やりすぎた。」

ようやくそうつぶやき、

視線を窓の外へ向けた。

紗良は、「ありがとう」の文字が並ぶ画面を見つめたまま、

ぽろり、と涙をこぼした。

「違うよ……そんなつもりで——」

ドアを閉め忘れていたせいで、

部屋の前を通りかかった姉が、

床に座り込んでいる紗良を見つけて慌てて駆け寄る。

「ちょっと、なになに。誰がうちの紗良を泣かせたの?」

紗良の頭を自分の胸に引き寄せる。

「お姉……ちゃん……」

しゃくりあげる声しか出てこない。

姉は視線をスマホに落とし、

そこに表示されたやり取りをざっと追う。

「あー……なるほどね。」

一瞬で状況を理解して、小さくため息をついた。

「紗良のせいじゃないよ。」

姉は優しく背中を撫でる。

「でも……あいつ……あたし……ひっ……違う……のに……」

「うんうん。分かってる。分かってるから。」

少し落ち着いてから、姉は問いかける。

「……好きなんでしょ、あの子のこと。」

紗良は、ぐしゃぐしゃの顔のまま、こくりとうなずく。

「好きな人に、誤解されたら。そりゃ、つらいわ。」

大きく鼻をすすった紗良に、

姉は微笑みかける。

「ちょっと、時間置こ。お互いに。」

ぎゅっと抱きしめ直してから、続けた。

「あんたね、あの子のこと大事に思うあまり、

 追い詰めてたんだよ。」

「心配っていうより、『こうしてほしい』って押し付けに近かったかもね。」

「……分かった……。」

紗良は涙声で返す。

「少しは、楽になった?」

「うん……。」

「よし。じゃあ——」

姉は紗良の服の裾をつまんで、

わざとらしくしかめっ面をする。

「これ、一万円のワンピなんだけどなー。

 涙と鼻水でびしょびしょだなー。」

「ちょっと……今それ言う?」

紗良の声に、ようやく少し笑いが戻った。

その頃、一真は机に座り、

翔太とのツーショット写真をじっと見つめていた。

「誕生日、おめでとう。」

写真の中で笑っている翔太に、

そっと言葉を投げる。

頬を伝う涙は、止めようとしても止まらなかった。

震える口元を、必死にかみしめる。

部屋のドアをそっと開け、

綾音が自分の部屋にいることだけを確認する。

それから、ベランダへ出た。

欄干に体を預け、

手を伸ばして、冷たい雨に触れる。

目を閉じると、

翔太の顔がすぐそこに浮かんだ。

いつもみたいに、あのバカみたいに明るい笑顔で。

——何でそんなに、笑えるんだよ。

両方の人差し指で、自分の口角を無理やり持ち上げてみる。

それでも、写真の中の笑顔には到底届かない。

「ほんと、楽しそうに笑うよな、お前。」

雨音にかき消されるような小さな声で、

そう文句を言う。

雨が好きだ。

びしょ濡れになれば、泣いていてもバレないから。

一真は手を引き、

山の下に広がる街の灯りを見下ろす。

鼻水も、涙も、そのまま流れっぱなし。

「もう、どうでもいい。

 見えてるの、お前だけだし。」

そう思いながら、思い切り鼻をかんだ。

「コン、コン。」

背後から、ガラス越しのノック音が聞こえた。

一真が驚いて振り向くと、

そこには、同じように目を赤くした綾音が立っていた。

「眠れないの?」

ガラス戸を開けて、声をかける。

「うん。」

綾音は短く答える。

一真はリビングへ戻り、

窓を閉めて鍵をかける。

「翔太のこと、考えてた?」

自分の頬に残る涙を、雑に拭う。

「……ぎゅーって、してほしい。」

綾音はかすかな声で言った。

「今日だけな。」

一真はため息をつく。

「今日だけ。」

綾音は同じ言葉を繰り返した。

人と人が体を寄せ合うと、

心と心も少しだけ近づける——らしい。

一真はそっと綾音を抱き寄せ、

頭を撫でた。

綾音が「抱きしめてもらう」のが好きなのは、

小さい頃、そうしてくれたのが翔太だけだったからだ。

洗面所から漏れる灯りだけが、

部屋の中にぼんやりとした明るさを作り出している。

顔はよく見えない。

でも、それがかえって、相手の体温や息遣いを

ありありと感じさせた。

視覚が少し遠のいている分、

触覚と、嗅覚と、鼓動の音が近くなる。

多くの人は、きっとこの距離を「心地いい」と思うだろう。

一真にとっては、針のむしろみたいな感覚だったとしても。

ずっと感情を隠して生きてきた人間が、

誰かと一緒に、同じ感情を抱く夜なんて、

一度もなかったのだから。

それでも、頭で考えるより先に、

身体が動いていた。

——綾音を抱きしめたい。

その想いだけは、嘘ではなかった。

一真は目を閉じ、

心の中で翔太に話しかける。

「ほら。お前の妹、こうなってんぞ。」

こみ上げてくる涙を、

何とか飲み込もうとしながら。

綾音の足が痺れてきた頃、

一真は彼女を支えながら立ち上がらせ、

部屋まで送り届けた。

布団をかけ、

「おやすみ」と小さく告げてから、

自分の部屋へ戻る。

ベッドに腰を下ろし、

紗良とのトーク画面をもう一度開いた。

——ただ、図星を突かれただけだ。

そう気づいたとき、

さっきのやり取りがあらためて胸に刺さる。

『さっきは言いすぎた。ごめん。』

最初の一文を打ち込む。

『今度の休みに、そっちの学校まで行く。』

『ちゃんと考えてみる。

 紗良が言いたかったこと。』

そこまで打って、送信ボタンを押した。

雨音はまだ、止む気配を見せなかった。

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