第11話:静かな僕と、賑やかな彼女

春が夏に近づくころ、陽射しは急に強くなる。

気温も上がり、冷房のない室内はそれだけで気が滅入りそうだった。

「紗良ちゃん……」

葵は机に突っ伏したまま、恨めしそうに紗良を見つめる。

「ん?」

教室では、まるで暑さなんて存在しないかのように、周りの同級生が思い思いに話している。

その光景を見渡した葵は、さらにしょんぼりした。

紗良はスマホを見ながら、短く返事をしただけで振り向こうとしない。

背中を軽く叩かれて、ようやくはっとして後ろを向いた。

「……暑い……」

葵はまるで力が抜けたみたいに机に貼りついていた。

怒られるのを恐れているのか、顔までずっと伏せている。

「そうかな?」

紗良は葵の様子を不思議そうに見た。

窓の外からはゆるい風が流れ込み、日差しを受けてもそこまで熱を感じない。

「そういえば、葵って暑さに弱かったよね。」

そう言うと紗良は鞄から冷感シートを取り出し、そっと葵の手に貼った。

「助かった……!」

葵は一瞬で顔を上げ、感謝を込めた目で紗良を見る。

そのままシートで手を拭きながら、

「紗良ちゃんは救いの女神……!」

と大げさに言った。

「大げさだって。」

紗良が前を向こうとしたところで、葵がまた腕を引っ張る。

「どうしたの?」

言い終わらないうちに、葵の顔が近づいてきた。

紗良はそっと葵の顔を押し戻して、

「近い。」

と眉を寄せる。

「紗良ちゃん……一真くんに、まだ会ってないんでしょ?」

頬を押されたままでも、葵の声ははっきり聞こえた。

紗良はその言葉に一瞬だけ口元を引き結び、目を伏せた。

葵はじっと紗良の表情を観察するように見つめ、

紗良は作り笑いで返した。

「小野さん、嘘つくとき——」

葵は紗良の唇を指さす。

「必ず、そこを結ぶから。」

「……っ」

紗良はまた唇をきゅっと結ぶ。

「そんなに……分かる?」

小さな声で聞くと、

葵はゆっくり頷き、

「でも、小千は気づいてないよ。」

と穏やかに言った。

紗良は少し安堵して息を吐く。

「でも、そのうち気づくと思うけど。」

葵はさらりと言う。

「それで?まだメッセージだけ?」

「たまに……電話するけど。」

紗良はまた唇が震えそうになり、すぐに閉じた。

だが葵の鋭い目は、その一瞬も見逃さない。

「で、どうしたいの?」

葵に促され、紗良は少し考え込んでから、静かに口を開いた。

「どう誘えばいいか分からなくて……それに——」

「一真の気持ちが分からない、でしょ。」

葵が続きを言った。

「中学のときもずっとそう言ってたよ。」

葵は呆れながらも、優しい目をした。

その表情を見て、紗良は思わず目を瞬いた。

久しぶりに見る葵の“真面目な顔”だった。

「でも、私たち……友達だし。普段会えないし。」

紗良は説明するように言う。

葵はゆっくりと指を振った。

「紗良の小学生のときのことは知ってる。でも、その傷が残ってるように、一真のほうも忘れてないと思うよ。」

紗良は驚いたように葵を見つめる。

目の前の葵が、いつもの調子とは違うように感じた。

「忘れないでね?私、一応“恋愛のプロ”なんだから。」

葵は胸を張る。

「……そうだったね。」

紗良は苦く笑った。

中学のころ、葵は何組もカップルを成立させていた。

「で、どうしたらいい?」

紗良が身を乗り出す。

「ティッシュ、もう一枚。」

葵は手を差し出す。

紗良は無言でティッシュの袋ごと置いた。

「女神さま、教えてください。」

葵はスマホを操作し始める。

「何探してるの?」と紗良が聞く。

葵はふっと笑い、画面を見せた。

「……っ!」

画面いっぱいの——

ビキニの水着。

紗良の頭に、一瞬で“自分が着ている姿”がよぎる。

「もうすぐ、海の季節だしね。」

葵は自信満々に言う。

「え……無理だよ、こんなの……!」

紗良は画面の水着を見て、肩をすぼめる。

「違うよ。」

葵は指を立てる。

「一真に“どれが好き?”って送るの。」

——心臓が跳ねた。

「み、水田葵……!」

紗良の声が大きくなり、教室の空気が一瞬止まる。

周囲の視線を感じて、紗良は顔をうつむけた。

「何見てるの?」

近くの友達が集まってくる。

「水着。」

葵はあっさり画面を見せる。

「かわいいじゃん。」

クラスの女子たちはむしろ楽しそうだった。

「小野さん、こういうの好きなんだ?」

そう言われ、紗良は真っ赤になりながら小さく答える。

「……着てみたいなって、思うときも……あるから。」

「いっ……!」

突然、葵が小さく声を漏らす。

紗良が思い切り葵の足を踏んでいた。

「ご、ごめん……!」

紗良は慌てて頭を下げた。

放課後、二人は川沿いの道を歩いていた。

水着の画像が、まだ紗良の頭に残っている。

——目の前の人たちが、水着を着ている気さえする。

「ねえ、まだ怒ってるの?」

葵が後ろから声をかける。

「怒ってないよ。」

紗良は眉を少し寄せたままだ。

「じゃあ、何考えてた?」

紗良は歩きながら、ためらうように自分の体を指さした。

「……あの水着……一真、好きかなって。」

葵は少し考えてから言う。

「一真なら……七割くらい?」

「七割?」

「うん。私、中学の三年間であの人のこと、それくらいは分かったよ。」

葵は指を一本立てる。

「洪水の中でも倒れない、大きな木って感じ。」

紗良は思わず吹き出す。

「ね?分かるでしょ。」

葵も笑った。

「だから、“選んでもらう”のは意外といいと思うよ。」

紗良は前を向いて静かに言った。

「でしょ。」

葵は満足そうに頷いた。

少し歩いて、葵がふと思い出したように聞く。

「小千には……言うつもり?」

「私が、一真を好きってこと?」

紗良は立ち止まる。

「たぶん、小千はもう気づいてるよ。」

紗良は小さくつぶやきながら、夕映えの空を見上げる。

「でも……もし小千も一真のこと、好きだったら……」

葵は肩で軽く紗良に触れた。

「大丈夫。あの子、そういうことで喧嘩するタイプじゃないよ。」

「どうしてそう思うの?」

紗良が尋ねると、

葵は一瞬だけ紗良を見つめ、

「勘。」

と真顔で言った。

「……葵!」

紗良が抗議する。

葵は笑いながら、もう一度尋ねた。

「でも、もしそうだったら……紗良、どうしたい?」

紗良はしばらく考えてから、小さな声で答えた。

「……話す……かな。」

「え?」

葵が聞き返す。

紗良は一度深呼吸し、今度ははっきり言う。

「そのときは、ちゃんと話すと思う。」

「へぇ。」

葵は少し意外そうに目を細め、親指を立てる。

そのとき、スマホの着信音が鳴った。

「タイミング良すぎ。」

葵が電話を取る。

「もしもし……うん。」

少し間があって、葵の表情が変わる。

「え、ほんと?」

紗良が小声で「誰?」と聞くと、

葵はスピーカーに切り替えた。

「ねえ小千……“リボンの水着”、好きだったよね?」

『うん。なんで?』

紗良は思わず葵の腕を掴んだ。

「なんでそんなこと聞くの……!」と唇を震わせながら。

「一真、どんなの好きかなって。」

葵は平然と言い、紗良は固まる。

『さあ……分からないけど……スタイル良かったらどれでも好きじゃない?』

その答えに、紗良は静かに頷く。

葵はすかさず、

「じゃあ紗良には“フリル”、似合うよね。」

と言う。

「言わないでってば……!」

紗良は葵の肩を軽く叩く。

『分かる。似合いそう。』

千夏子は穏やかに笑った。

「ねえ、そろそろ角のところだよね?」

千夏子が言う。

「見えてる……?」

葵があたりを見回すと、

『橋のうえ。』

と千夏子の声。

紗良も橋の上から手を振る千夏子を見つけた。

「……ほんとに、偶然。」

葵は手を振り返した。

そのころ、一真はちょうど夕食を作り終え、着替えをしていた。

スマホが震える。

「……ん?」

紗良からのメッセージ。

表示されたのは数種類の水着の画像と、

『どれがいい?』

「……は?」

一真は目を瞬かせる。

その頃、紗良たちは全力で走っていた。

「小千、押さえて!」

「無理……!」

「紗良、逃がすなってば!」

ようやく落ち着いたところで、紗良のスマホに一真の返信が届く。

『熱、ある?』

「……あ、一真だ。」

千夏子はくすっと笑う。

葵はしゃがみこみ、深いため息をついた。

「何のために走ったんだろ……」

千夏子はそんな葵をそっと抱きしめ、

「ごめんね。ちょっと意地悪したくなって。」

と静かに言った。

「もう……」

葵は小さくつぶやき、紗良はその会話を聞きながら笑った。

夕陽の川沿いには、

三人の笑い声と、

少しの悲鳴が柔らかく響いていた。

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