第10話:十歩の心、ひとつの距離。
「部活、か……」
高校生活ももう半分が過ぎて、ほとんどの生徒が学校の雰囲気に慣れてきたころ。
一真も例外ではなかったが、ただ一つ――部活に入るかどうかだけはまだ決めかねていた。
『中学で部活入ってなかったじゃん。高校では挑戦してみなよ!』
それは、ある日の夜に紗良から届いたメッセージ。
『でも俺、学生会の仕事でほとんどの部活に顔出したよな?』
一真はそう返す。
『あれは“視察”であって参加じゃないから!!』
スマホを伏せて、窓の外で羽を整えるスズメをぼんやり眺めていたそのとき。
背中を「コツン」と軽く叩かれた。
「ぼーっとしてた?」
振り向くと、朝の光が千夏子の頬に射し、柔らかいフィルターのように見えた。
「まあ……ちょっとな。」一真は少し間を置いて答える。
千夏子はふわりと笑った。「何考えてたの?」
突然の声かけに一真は一瞬だけ戸惑う。
けれど、すぐに逆に気になってしまったことを口にした。
「……人と人の距離って、どうやって決まると思う?」
千夏子は目を瞬かせ、近くの席に座り込む。
「え……メートル、とか?」
座りながら、そんなふうに答えた。
一真は小さく頷き、言葉を続ける。
「最近読んだ本なんだけどさ。」
千夏子の瞳がわずかに輝いた。
開校以来、彼がここまで会話を広げるのは珍しい。
「“一歩から十歩までの距離が、人に向ける気持ちを表す”って書いてあった。」
一真の目はどこか深く、千夏子は理解が追いつかず眉を寄せる。
「本に……その意味、説明書いてた?」
「十歩離れてたらさ。声を張らないと届かない。でも、聞こえないふりもできる。」
一真は淡々と言ったが、千夏子の中ではいまいちピンと来ない。
――その瞬間。
一真がふっと前に体を寄せる。
ほんの少し腰を前にずらしただけなのに、距離は一気に“目の前”へ。
千夏子の時間がスローモーションになり、唇がきゅっとすぼまる。
「ち、近っ……!」
睫毛が触れそうなほどの距離。
一真の目は真っ直ぐ千夏子を射抜いていた。
「これが、一歩の距離。つまり“親しい気持ち”だってさ。」
喉が鳴る音が自分でもわかる。
緊張して体温が上がる――そんな話を聞いたことがあった。
手は無意識に椅子のへりをぎゅっと掴んでいた。
「で、でも……こ、こういうのって……好きって意味じゃ、ないの……?」
やっと組み立てた言葉を、小さな声で絞り出す。
一真は元の位置に戻り、横目で彼女を見る。
「いや……好きだけじゃない気がする。」
その静かな声が、逆に千夏子の心臟を暴れさせる。
胸に手を置かずにはいられなかった。
「で、千夏子。俺に何か用だろ?」
まるでさっきの彼女の動揺に気づいていないような、自然な口調。
「えっ、あ……うん?」
千夏子の意識が一気に現実に戻る。
「放、放課後に……先生が職員室に来てって……。」
「わかった。」
一真は短く返し、千夏子は胸の内でそっと呟く。
(ほんっと……この人、大木頭……)
棠は昔から特別な存在だった。
綾音にとっては“優しいお姉さん”のような人。
幼いころからの仲だから、綾音の性格も癖も、全部わかっていて受け止めてくれる。
だからこそ、綾音は棠が大好きだった。
「一週間分のノート、なんでこんなに時間かかってんの?」
綾音が棠の机に身を預ける。
「お姫様、家帰ったら弟妹の世話あるんだよ。」
棠は冷たく言いつつも、ノートを綾音の目の前に突き出す。
「てかさ、なんでフォント変わってんの?書くたびに字違うってどういうこと?」
さらにノートを近づける。
綾音は甘えるような顔でノートを机に押し付けた。
「だって……同じ字ばっかり書くの、飽きるんだもん。」
棠はため息とともに肩を落とす。
「……これ写す人の身にもなって?」
「ありがと。」綾音は小さく頭を下げる。
その顔を見た瞬間、棠は急に罪悪感のようなものが胸をちくりと刺した。
「許してあげるよ。」
ぽつりと呟く。
「えっ?なにを?」綾音はぱちぱち瞬く。
「……頭痛。」
棠は額を押さえながら小声で言った。
「ほら。」
目を開けると、目の前にキャンディーが差し出された。
見上げれば、綾音の柔らかい笑顔。
「食べて。」
「――あっ!お昼だ!」
スマホを見た瞬間、綾音はバネのように立ち上がる。
「どしたの?」棠が怪訝そうに聞く。
「えへへ、今日のお弁当、一真哥が持ってる!」
満面の笑みで跳ねる綾音。その背丈も仕草も子供みたい。
「先行っていいよ。あとで購買部寄るし。」棠は苦笑しつつ言う。
「じゃ一緒に行こ!」
綾音は棠の腕を引っ張って歩き出す。
A組へ向かう途中、ちょうど千夏子が教室を出てくるところに遭遇した。
「ちょ、ちょっと待って!」
綾音が手を振ろうとした瞬間、棠がその腕を掴む。
「……何してんの?」
「え?挨拶。」綾音はきょとんとした顔。
「知り合いなの?」棠が手を離す。
綾音は頷き、千夏子に声を掛けようとした。
「あ、そうだ!棠に紹介するの忘れてた!」
「えっ?」
棠が混乱している間に、千夏子は綾音に気づき、こちらへ歩いてきていた。
近づいて初めてわかる――
この子、ちょっと見ないタイプの”雰囲気美人”だ。
棠は無意識のうちに目で見てしまう。
「藤堂さん。」
千夏子が微笑む。
「やっほー!」綾音が明るく返す。
「一真、まだ席にいるよ。」
千夏子は教室をちらり。
「うんうん、ちょうど紹介したい人がいてね!」
綾音は棠の肩をぽんと押す。
「はじめまして。」
千夏子が丁寧に頭を下げる。
「ど、どうも……はじめまして。」
棠まで急に礼儀正しくなる。
「私と綾音ちゃん、小さいころからの友達なんだ。」
綾音が楽しそうに言う。
「紗良ちゃんと葵ちゃんみたいに……幼なじみってやつ?」
千夏子の声に、どこか少し羨ましさが混じる。
「仲良さそうだね。」
その一言に棠はためらいなく返した。
「そうでもない。……この子、時々めっちゃ人を疲れさせるから。」
綾音が「むぅ」と頬を膨らませ、千夏子がくすっと笑う。
「一真くん、藤堂さんって“思ったこと全部言っちゃうタイプ”って言ってたよ。」
棠は一瞬で「同士がいた」という顔になる。
それに気づいた千夏子がふっと微笑んだその時――
後ろの千夏子の友達が呼ぶ声がした。
「お友だち待ってるよ。行ってあげなよ。」
棠が言う。
「あ、ごめん!購買部行くんだった!」
千夏子は振り返って頭を下げる。
「私たちもあとで行くよ~」綾音が言う。
「じゃあ——」
言いかけた綾音の口を棠が速攻で塞いだ。
「あとで追いつくから!先に行ってて!」
棠が言う前に、千夏子が一歩戻って微笑む。
「よかったら……一緒に行かない?」
その言い方がどこか自然で、棠は少し驚いた。
「じゃ、お弁当取ってくるね!」
綾音はスキップしながら教室へ。
棠は「まあ……初対面だから何も言えないし」と小さく息をつく。
「藤堂さんって……すごく明るいね。」
千夏子がぽつり。
「うん。治らないレベルのね。」棠は肩をすくめる。
「でも——」
少し声を強くして続けた。
「一真がいなかったら、今の綾音じゃないよ。」
その言葉に千夏子は目を瞬く。
棠は微笑む。
「“好きな人”じゃないと私に紹介しないって、あの子言ってた。」
一瞬、千夏子の胸が温かくなる。
「そっか……」
返す言葉が見つからず、小さく呟く。
「よろしくね。」棠が軽く会釈する。
その瞬間、綾音が「いったぁぁ!」と頭を押さえながら走ってきた。
「また一真にデコピンされたの?」
棠が笑いながら言う。
「うん……ひどい……。」
綾音は涙目。
二人は思わず笑い合った。
「え?なんで二人とも笑ってんの?」
綾音が不思議そうに見つめる。
棠は横目で千夏子を見て、答えた。
「だって、綾音……デコピンされてたから。」
三人の距離が、ふわっと縮まった瞬間だった。
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