第二卷:1の先で交わる気持ち

第7話:朝の光と、三つの気持ち。

幸いこの数日、綾音はときどき甘えてくる程度で、大きな問題は起こさなかった。

一真もすぐに、彼女がそばにいる生活に慣れてしまった。

開校日前日には、一緒に食材や調味料を買いに行ったほどだ。

綾音は、一真が笑いながら材料を選んでいるのを見て、かなり驚いていた。

開校日の朝、一真はいつもより早く起きて朝ごはんの準備を始めた。

料理が好きな彼は、こういう機会を逃すはずがない。昨晩、布団に入ったときからすでに「何を作ろうか」考えていたくらいだ。

「よし、これでいこう。」

冷蔵庫を開けて、手早く材料を取り出す。

綾音の食べる量が分からないので、足りなければすぐ作り足せる、簡単なものにした。

一真は綾音の部屋の前に立ち、軽くノックする。

「起きて。今日は入学式だよ。」

数秒後、ゆっくり扉が開いた。

「……そんなに早く起きたの?」

眠そうな声に、一真は思わず笑ってしまう。

「顔洗って、歯磨きしておいで。」

「真尋と同じだね……」

綾音の仕草が妹と重なり、つい笑ってしまったのだ。

もちろん綾音は妹ではないし、完全に同じ距離にはなれない。ただ、ほかの人より拒否感がないのは確かだった。

朝食を済ませ、二人は学校へ向かう。家から距離があるため、念のため早めに出た。

「……眠い。」

いくら食べて、顔を洗っても、綾音の表情は眠気満載だった。

「今日だけだよ。明日からはそんなに早くない。」

「そう……なら我慢する……」

「一真くん。」

綾音が急に彼の手を掴んだ。

「ん?どうしたの?」

振り返ると、綾音が少し照れた顔で見上げてくる。

しかし一真の表情はまったく動じない。

「歩くの早い……」

そう言うと、当たり前のように腕にしがみついてくる。

一真は自分の腕を見下ろし、少しだけ考えるような顔をした。

「ちぇっ……反応薄い。」

「じゃあ、もう少しゆっくり歩く。」

一真はそっと綾音の手を外し、ほんの少し距離を取った。

入学式の前に、生徒たちは教室に集められ、学校生活の説明が行われる。

クラス分けの名簿は校舎入口の廊下に貼り出されていた。

「俺、A組だ。」

成績順になっているのだろうと、一真はすぐ気づく。

「出席番号は……16番。」

クラスは32人。つまり一真は男子の筆頭ということになる。

「え〜……私はC組……」

綾音は彼の背中に寄りかかりながら、背伸びして名簿を覗いた。

まだ登校している生徒が少なく、周りに人の気配がほとんどない。

だから一真も、彼女の距離の近さを特に咎めなかった。

「式が終わったら、外で合流しよう。」

そう言って自分のクラスへ向かおうとした瞬間、また綾音に袖を引かれる。

「見て、全部右側だよ。」

一年生の教室は右半分に固まっているらしい。

「じゃあ一緒に行こ――!」

かなりのスピードで腕を引っ張られ、そのまま校舎の奥へと連れていかれた。

「ここでいい! C組だから!」

教室前に到着すると、ようやく手を放す。

一真がA組へ向かおうとした、その刹那――

綾音が彼の顔を両手で挟んだ。

「Kiss Goodbye!」

まっすぐ、とんでもなく真剣な目だった。

一真は眉をひそめ、指で綾音の額を軽く弾く。

「授業始まるよ。」

そのまま綾音を置き去りにして歩いていった。

綾音は額を押さえながら、しばらく呆然。

教室には少しずつ生徒が増え、最後に担任が入ってきた。

眼鏡をかけ、表情の固い教師――

教室が一瞬で静まり返るタイプだ。

「みなさん、今日から一年間よろしくお願いします。」

その様子に、一真は心の中で呟く。

(……話しづらそうなタイプだな。)

「では、初日なので軽く自己紹介を。出席番号順に――1番から。」

眠気がピークの一真は、こっそりあくびをして視界を澄ませた。

すると――

(……ん?)

壇上に立った女子の姿に、一真は思わず目を丸くした。

「同じクラスだったのか。」

自分の番号だけ見て満足していたせいで、ほかの名前を全く確認していなかった。

「はじめまして。吉城千夏子です。」

千夏子は穏やかな笑みを浮かべる。

実家の喫茶店の話をし、「趣味は……寝ること!」と小さく笑った。

家で見たあの──

虫を握って満面の笑みを見せてきた少女と、目の前の柔らかな雰囲気がまるで一致しない。

(……こんな顔もするんだ。)

思わず笑いそうになり、一真は窓の外へ視線をそらした。

クラスメイトの紹介が淡々と進み、ついに一真の番が来た。

黒板に名前を書き、簡潔に言う。

「日比野一真です。人付き合いはあまり得意じゃないので……

できれば平和に過ごせたらと思います。

料理が好きで、人の多い場所は苦手です。よろしくお願いします。」

淡々としているのに、不思議と説得力があった。

席に戻る途中、数人の視線を感じたそのとき――

ポケットが震えた。

(やっぱり……)

スマホを小さく開く。

「消えたかと思ったんだけど!?

昨日から連絡なしってどういうこと!」

紗良の怒りマークだらけのメッセージ。

一真は小さく笑った。

彼女がどんな顔で打ったのか、簡単に想像できるからだ。

一方その頃――

「この人、連絡もしてこないわけ!?」

紗良は半ば怒鳴るように画面を睨んでいた。

昨日「ちょっと買い物してくる」と言われてから一切連絡なし。

荷造りがなければ、夜に電話して文句を言っていたところだ。

「午後まで既読つかないなら電話する!」

怒りスタンプを連打して、ようやくスマホをしまった。

「紗良、式終わったらご飯行かない?」

隣に座る葵が声をかける。

葵とは中学からの友達。

顔見知りがいるだけでもだいぶ楽だ。

でも――

一真のクラスに、知り合いはいるのだろうか。

もし、

千夏子と同じクラスだったら?

もし、

彼女が一真の性格を嫌がったら?

もし、

すでに仲良かったら……?

考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。

紗良は思わずメッセージを打った。

「同じクラスに、中学の知り合いいる?」

送る前に、ふと指が止まる。

そして――消した。

そのあとに続けようとしていた言葉。

「休みの日、どこか行かない?」

……そんな理由、どこにもない。

紗良は窓の外を見つめ、小さく息を吐いた。

「私、何やってるんだろ……」

「呼ばれてるよ?」

葵に肩を軽く叩かれ、紗良は慌てて前を向く。

「ご、ごめん!聞いてなかった!」

「で、どう?ご飯行く?」

葵は呆れながらも笑っている。

「行く!行くよ!」

その瞬間、ふっとひらめいた。

「ねえ、千夏子ちゃんも誘わない?どうかな?」

葵は少し考え、うんと頷いた。

「いいと思うよ。聞いてみる。」


紗良は胸の奥がぎゅっとなるのを感じながら、スマホを握りしめた。


「……ちゃんと、確かめなきゃ。」

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