第6話:はじまりの予感
静かで、どこか沈んだピアノの音が家の中に流れていた。
無気力な少女が、力の入っていない指先で鍵盤をなぞるように叩いている。
「モーツァルトって、そんな弾き方じゃなかったはずだけど。」
背後から聞こえたのは、落ち着いた男の声だった。
「……姐、帰ってたんだ。」
紗良は振り返らず、機械のように鍵盤を押し続ける。
「どうしたの?」
彼は紗良の頭にそっと手を置いた。
「もうすぐ……始業式。」
紗良は小さな声で答えた。
「始まるの、嫌なの?」
「友達も同じ学校なんだろ?」
そう続けられたが、紗良は俯いたまま返事をしなかった。
「……あぁ、外で暮らすの、ママが許してくれないんだな?」
紗良は首を横に振ったかと思えば、すぐにこくりと縦に振った。
「それだけじゃ、ないの。」
ちらりと彼を見上げ、すぐにまたピアノへ視線を落とす。
「ふーん。」
彼は紗良の頭をそっと揺らした。
「ねぇ……姐。」
紗良はその手を軽く押しのけた。
「悪い悪い、ちょっと目ぇ覚まさせようと思って。」
「ほら。」
彼は紗良の身体を自分の方へ向けるように軽く回した。
正面から向けられた眼差しは、驚くほど優しい。
「言いたいこと、あるんだろ?」
紗良は横を向いた。
しばらく迷った末に、ようやく彼を見つめ返す。
「ほんとは……丘上(おかうえ)に、行きたかったの。」
今にも泣き出しそうな声に、彼の胸が小さく痛んだ。
「もしかして、あの一真って子に何かされた?」
紗良は慌てて首を振る。
「違う。……一真くんと、同じ学校に行きたかっただけ。」
「なら、スマホあるだろ?」
彼は小さく笑った。
「会いたかったら、メッセージ送ればいいんだよ。」
しかし紗良は苦しそうな顔をして、言葉を失った。
「なぁ、会えない時間にも……いいところがあるんだぜ。」
紗良は首をかしげる。
「久しぶりに顔合わせたらさ、それだけでめっちゃ嬉しいだろ?」
その言葉に、紗良はようやく顔を上げた。
「それに、メッセージとか電話とかってさ、習慣になるんだよ。」
「習慣……?」
「たとえば、毎晩七時に誰かが話しかけてくれる。
それがない日が来たら、……なんか変だって思うだろ?」
紗良は目をぱちぱちさせて、考え込んだ。
「……あっ。そういうことか。」
彼は柔らかく笑った。
「だから、そんなに不安にならなくていいんだよ。」
そう言って、彼はピアノへ視線を移す。
「久しぶりに一緒に弾こうか。」
「……うん!」
⸻
浴室にはやわらかな湯気が満ちていて、
温かいお湯が身体を包むたび、心の力もふっと抜けていく。
「お風呂って……ほんと気持ちいい……」
千夏子は指先で湯面を軽く弾き、小さく広がる波紋をぼんやりと眺めた。
そのとき、扉の向こうから母の声がした。
「小千〜?」
「なに〜?」
千夏子は少し大きめの声で返す。
「あとで明日の仕込み、手伝ってよー!」
「はーい。」
返事をすると、彼女はもう一度ゆっくり息を吐き、
ぷくぷくと水の中に気泡を浮かべた。
……なんだか、いろいろ疲れたな。
髪を乾かし、部屋着に着替えて一階へ降りると、
母が厨房で火加減を見ていた。
「小千、これスライスしといて。」
まな板の上には火腿と野菜が山のように重なっている。
「……多い。」
小さく眉をしかめながらも、千夏子は包丁を手に取った。
「ねえ、小千。」
「ん? なに?」
手を止めると、母がこちらを見た。
「最近、疲れてるでしょ。
スタッフいるのに、手伝ってばっかじゃない。」
千夏子は一瞬だけ目を伏せ、小さく笑って返す。
「大丈夫。疲れてないよ。」
「ほんとに、うちの小千は気が利くんだから。」
母はやさしく笑い、続ける。
「しんどかったら言いなさいよ。ただの親子なんだし。」
その言葉を聞いた瞬間、
一真に言われた言葉がふと胸に浮かぶ。
――「無理して“良い子”にならなくてもいいんじゃない?」
「ねえ、ママ。」
「なに?」
「私……礼儀正しいって、思う?」
母は少し驚いたように目を瞬き、すぐに笑顔を向けた。
「思うわよ。あんた、誰にでも丁寧じゃない。」
「そっか……。ううん、なんでもない。」
千夏子はまた包丁を動かし始め、
淡々と野菜の音だけが静かに響いた。
⸻
翌朝。
いつも通り、千夏子は喫茶店の茶葉を煮出しながら、
ふと昨日のことを思い出していた。
(……ほんとに、無理しなくてもいいのかな。)
自分に問いかけても、答えはまだ曖昧だ。
「小千ー!」
「あ、ごめん。聞こえなかった。」
振り返ると、少し低めの声の友達が立っていた。
「今日、早く来たんでしょ?」
「うん。おばさんが“早く来ていいよ”って言うからさ。
……あ、手伝おうか?」
「えっと……じゃあ、このタンク持ってくれる?」
「任せて!」
ふたりで準備が終わる頃、
別の友達が座席を確保してくれていて、
そのまま一緒に腰を下ろした。
「で、今日どこ行くんだっけ?」
「前に言ったじゃん。
“友達、ひとり紹介したい”って。」
「……あぁ、あの“お兄さんがめっちゃイケメン”って言ってた子?」
「そうそう、小野……あれ?なんだっけ?紗……紗良?」
「小野紗良ちゃん?」
「それそれ!」
⸻
そのころ紗良は、まだ布団に沈んでいた。
ドンドン、と部屋の扉が遠慮なく叩かれる。
「……ねえ、紗良ー?」
「……お兄……?」
眠たげに扉を開けると、
女装姿の“姉”――いや、“兄”が立っていた。
「ほら、起きて。
小葵から、そろそろ電話くるって。」
「……まだ九時じゃん……」
「十時。」
「んぁ……」
ぐしゃぐしゃの髪のまま、紗良は洗面所へ向かった。
(絶対、小葵……今日もなんか企んでる……)
⸻
昼過ぎ。
家のチャイムが鳴った。
「来た!」
紗良は慌てて玄関に走り、扉を開ける。
「じゃじゃーん!!」
満面の笑みの葵が腕を広げ、
その後ろに、おとなしく礼儀正しい千夏子が立っていた。
「はじめまして! 吉城千夏子です。よろしくお願いします!」
……挨拶が完璧すぎて、紗良は一瞬フリーズした。
「え、えっと……小野紗良です。よろしく……お願いします……!」
自分でも驚くほど丁寧になってしまい、思わず背筋が伸びる。
「ねえ、あの……紗良のお兄さんは?」
「出たな、水田葵! 絶対それが目的でしょ!」
「違うよぉ〜? ほら、小千も興味あるって言ってたし!」
「い、言ってない! 言ってないから!!」
そこへ、すっと
“休憩スタイルの姉”が通り過ぎた。
「いらっしゃーい。」
「え……お姉……さん?」
「うん、うちの“姉”。
でも本名は……兄、小野英太。」
千夏子と葵、同時に石像になる。
「ぷっ……!……ご、ごめんっ……!」
千夏子は思わず吹き出し、すぐに頭を下げた。
「こんな家、初めて……!」
「うん……まあ……慣れると普通……」
紗良も照れ笑いするしかなかった。
⸻
その後、みんなで文房具店へ行き、
日差しが強かったので早々に千夏子の家の喫茶店へ。
飲み物を頼んで少し落ち着くと、葵が唐突に聞いた。
「ねえ、小千。高校どこなの?」
「丘上高校だよ?」
コップを持ったまま、紗良の目が大きく見開かれた。
「……え? え、丘上?」
「あ、紗良ちゃんも受けたんでしょ?
点数ちょっと足りなかったけど。」
「ちょ、ちょっと! 葵!!」
飲み物が気管に入りそうになりながら、紗良は咳き込む。
「もし紗良ちゃんが受かってたら……
同じクラスだったかもしれないね。」
千夏子はやわらかい笑みでそう言い、
ハンカチを渡した。
「ありがと……」
(……丘上……ってことは……)
(千夏子ちゃんと……一真、同じ学校……)
「でも、ほら!」
紗良は気を取り直して笑った。
「前苑と丘上、けっこう近いし。
放課後、ふつうに会えるよね!」
「もちろん。すぐ仲良くなれそうだし。」
葵がニヤッとしながら言う。
「ね? 三人で一緒に帰ったりできるじゃん。」
千夏子と紗良は目を合わせて、
ふわりと同じ笑顔になった。
「うん、きっと仲良くなれる。」
「うん。」
ふたりの声が重なった。
まるで約束のように――。
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