第8章 灰の降る日
夜明けの色は、まだ定まっていなかった。
青とも白ともつかない光が、
ヴェネツィアの屋根の上で震えている。
わたし――ピッコロは、鐘楼の縁にいた。
水はもう引いた。
けれど街はまだ濡れている。
濡れた石は呼吸し、
その息が霧になって空へと昇っていく。
やがて、霧の中から細かい粒が降り始めた。
灰だった。
だがその灰は、火の名残ではなく、光の粉のように白かった。
降るたびに音がした。
チリ、チリ――。
金属とガラスのあいだで鳴るような、細い音。
世界が静かに再び動き出している。
◆
リヴィアは広場に立っていた。
仮面を外した顔を、灰の花びらが静かに撫でていく。
マルコが隣にいる。
手には、昨夜の瓶。
中はもう空だが、そのガラスが淡く光っていた。
「降ってる……。」
リヴィアが手のひらを上げる。
灰の粒が肌に触れる。
冷たくもなく、温かくもなく――ただ、確かな重さを持っていた。
「ガラスの粉だ。」
マルコが言う。
「屋根から剥がれた古い瓦が砕けて、
朝の光を飲み込んでるんだ。」
彼の肩にも灰が積もる。
それがゆっくりと形を変え、花のように開いた。
――灰の花。
「ねえ、マルコ。」
リヴィアが囁く。
「もしかして……これは街の祈り?」
「祈り?」
「燃えたものたちの。
灰になっても、残りたかった祈り。」
マルコは空を見上げる。
「なら、もう赦されてるな。」
鐘が鳴る。
一度。
音が灰の層を震わせ、街全体が光を返す。
その光の中に、リヴィアはひとつの影を見た。
白い仮面の女。
昨日、鏡の夜に見たあの姿。
だが、いまは仮面を外していた。
彼女の顔は、リヴィアに似ていた。
けれど、その瞳はもっと深く、海の底のような色をしていた。
「……あなたは?」
女は微笑み、両手で灰をすくい上げた。
指の間から光がこぼれる。
「わたしは、この街がかつて失くした“目”よ。」
声は風のように柔らかい。
「見ることを恐れた者たちのかわりに、
千の仮面が生まれた。
でも、いま――
その仮面は、もういらない。」
女は掌の灰を吹き上げた。
風がそれを運び、空へ舞い上がる。
その軌跡が、六つの光の輪を描いた。
わたしは鳴いた。六度。
輪が広がり、街を包み込む。
灰の降る音が止まり、
代わりに波の音が戻った。
風が街路を渡り、濡れた石に朝の匂いを運んでくる。
リヴィアの肩に、最後の灰の花が落ちた。
それは光を吸って、やわらかな白に変わる。
マルコがその花を指でなぞる。
「もう焼かなくていい。」
リヴィアは微笑んだ。
「ええ。街が自分で咲かせたから。」
灰は静かに積もり、水面に薄い膜を作った。
朝日がその上を滑る。
街全体が、一枚の赦しのガラスになっていた。
◆
ピッコロ――わたしは鐘楼の上で羽を震わせた。
下の街は静かに輝いている。
潮が引き、光が残った。
それはもう“燃えかす”ではなく、“記憶の形”だった。
――この街は、今日も沈む。
でも、沈むたびに、ひとつ何かを赦していく。
風が鳴り、鐘が応える。
六度。
その音が霧をほどき、朝の色が完全に街を覆った。
ヴェネツィアが、もう一度、
呼吸を始めた。
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