第8章 灰の降る日

夜明けの色は、まだ定まっていなかった。

青とも白ともつかない光が、

ヴェネツィアの屋根の上で震えている。


わたし――ピッコロは、鐘楼の縁にいた。

水はもう引いた。

けれど街はまだ濡れている。

濡れた石は呼吸し、

その息が霧になって空へと昇っていく。


やがて、霧の中から細かい粒が降り始めた。

灰だった。

だがその灰は、火の名残ではなく、光の粉のように白かった。


降るたびに音がした。

チリ、チリ――。

金属とガラスのあいだで鳴るような、細い音。

世界が静かに再び動き出している。



リヴィアは広場に立っていた。

仮面を外した顔を、灰の花びらが静かに撫でていく。

マルコが隣にいる。

手には、昨夜の瓶。

中はもう空だが、そのガラスが淡く光っていた。


「降ってる……。」

リヴィアが手のひらを上げる。

灰の粒が肌に触れる。

冷たくもなく、温かくもなく――ただ、確かな重さを持っていた。


「ガラスの粉だ。」

マルコが言う。

「屋根から剥がれた古い瓦が砕けて、

 朝の光を飲み込んでるんだ。」


彼の肩にも灰が積もる。

それがゆっくりと形を変え、花のように開いた。


――灰の花。


「ねえ、マルコ。」

リヴィアが囁く。

「もしかして……これは街の祈り?」


「祈り?」


「燃えたものたちの。

 灰になっても、残りたかった祈り。」


マルコは空を見上げる。

「なら、もう赦されてるな。」


鐘が鳴る。

一度。

音が灰の層を震わせ、街全体が光を返す。


その光の中に、リヴィアはひとつの影を見た。

白い仮面の女。

昨日、鏡の夜に見たあの姿。


だが、いまは仮面を外していた。

彼女の顔は、リヴィアに似ていた。

けれど、その瞳はもっと深く、海の底のような色をしていた。


「……あなたは?」


女は微笑み、両手で灰をすくい上げた。

指の間から光がこぼれる。


「わたしは、この街がかつて失くした“目”よ。」

声は風のように柔らかい。

「見ることを恐れた者たちのかわりに、

 千の仮面が生まれた。

 でも、いま――

 その仮面は、もういらない。」


女は掌の灰を吹き上げた。

風がそれを運び、空へ舞い上がる。

その軌跡が、六つの光の輪を描いた。


わたしは鳴いた。六度。

輪が広がり、街を包み込む。


灰の降る音が止まり、

代わりに波の音が戻った。

風が街路を渡り、濡れた石に朝の匂いを運んでくる。


リヴィアの肩に、最後の灰の花が落ちた。

それは光を吸って、やわらかな白に変わる。


マルコがその花を指でなぞる。

「もう焼かなくていい。」

リヴィアは微笑んだ。

「ええ。街が自分で咲かせたから。」


灰は静かに積もり、水面に薄い膜を作った。

朝日がその上を滑る。


街全体が、一枚の赦しのガラスになっていた。



ピッコロ――わたしは鐘楼の上で羽を震わせた。

下の街は静かに輝いている。

潮が引き、光が残った。

それはもう“燃えかす”ではなく、“記憶の形”だった。


――この街は、今日も沈む。

 でも、沈むたびに、ひとつ何かを赦していく。


風が鳴り、鐘が応える。

六度。

その音が霧をほどき、朝の色が完全に街を覆った。


ヴェネツィアが、もう一度、

呼吸を始めた。

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