第7章 水の記憶
夜がふたたび街を満たす。
鐘楼の影が溶け、運河がひとつの鏡に変わる。
水面が凪いでいるのに、街全体がわずかに揺れていた。
潮が最高位に達する夜――
ヴェネツィアがまるごと“記憶”になる時。
わたし――ピッコロは、
ドゥカーレ宮殿の屋根の上にいた。
下には、静かな光の海。
どの橋も、どの窓も、
水に逆さに映り、
もうひとつの街を作っていた。
風が止まり、鐘がひとつ鳴る。
その音が水面に落ち、波紋が街を渡る。
波紋が消えるとき、
鏡の中のヴェネツィアが、ほんのわずかに“ずれた”。
過去と現在が重なり、
街が古い夢を見はじめる。
◆
クララとマルコは、
灰の花の瓶を舟に乗せていた。
灯はともしていない。
光は、瓶の中から滲み出している。
青く、冷たく、揺れるたびに形を変える。
「……街が、映してる。」
クララの声は波に吸われた。
「これはただの反射じゃない。
水が、覚えてるの。」
舟はゆっくりと進む。
運河の両側の建物が、
まるでガラスのように透けていく。
壁の奥に、過去の人々の影。
仮面をつけた顔、
火を運ぶ手、
そして沈む鐘。
マルコが櫂を止める。
「見ろ、クララ。」
彼の指さす先――
サルーテ聖堂が、水の中に完全に映っていた。
鏡の中の鐘楼が鳴る。
音は逆向きに流れ、
上からではなく、下から響いてきた。
「……逆さの鐘。」
クララが呟く。
「時間が、戻ってる。」
瓶の中の光が強くなり、
舟の底を透かして海底を照らす。
そこには、
かつて燃え落ちた聖堂の土台。
石の間に、
割れたガラスと灰の層が眠っていた。
マルコがそっと手を伸ばす。
瓶を開けると、光が流れ出した。
青い糸のように水を伝い、
海底のガラスへと吸い込まれていく。
その瞬間、
水面が波打ち、
街の灯が一斉に揺れた。
わたしは空へ舞い上がり、
その全てを見下ろした。
街がひとつの巨大な鏡になり、
光と影が交錯している。
まるで、人々の記憶が
“水の記憶”として呼び戻されているかのようだった。
クララの髪が風に揺れた。
「マルコ、聞こえる?
鐘の音が……逆に、上がってる。」
彼は頷く。
「誰かが呼んでいる。
この光を、返してほしいと。」
光の柱がゆっくりと立ち上がり、
夜空へ届いた。
そこには、
ガラスでできたもうひとつの街――
沈まないヴェネツィアが映っていた。
瓶の中の光が完全に消えると、
水面の鏡も割れるように波立った。
潮が引き始め、
街が呼吸を取り戻す。
「……終わったの?」
クララの声。
マルコは小さく首を振った。
「いいや。まだ“返しきって”ない。」
わたしは鳴いた。
六度。
鐘と同じ数。
水面の鏡がそのたびに波紋を広げ、
灰の花の光が薄く空へ昇っていった。
その色は、
もう青ではなく――白だった。
赦しの色。
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