第7章 水の記憶

夜がふたたび街を満たす。

鐘楼の影が溶け、運河がひとつの鏡に変わる。

水面が凪いでいるのに、街全体がわずかに揺れていた。

潮が最高位に達する夜――

ヴェネツィアがまるごと“記憶”になる時。


わたし――ピッコロは、

ドゥカーレ宮殿の屋根の上にいた。

下には、静かな光の海。

どの橋も、どの窓も、

水に逆さに映り、

もうひとつの街を作っていた。


風が止まり、鐘がひとつ鳴る。

その音が水面に落ち、波紋が街を渡る。

波紋が消えるとき、

鏡の中のヴェネツィアが、ほんのわずかに“ずれた”。

過去と現在が重なり、

街が古い夢を見はじめる。



クララとマルコは、

灰の花の瓶を舟に乗せていた。

灯はともしていない。

光は、瓶の中から滲み出している。

青く、冷たく、揺れるたびに形を変える。


「……街が、映してる。」

クララの声は波に吸われた。

「これはただの反射じゃない。

 水が、覚えてるの。」


舟はゆっくりと進む。

運河の両側の建物が、

まるでガラスのように透けていく。

壁の奥に、過去の人々の影。

仮面をつけた顔、

火を運ぶ手、

そして沈む鐘。


マルコが櫂を止める。

「見ろ、クララ。」

彼の指さす先――

サルーテ聖堂が、水の中に完全に映っていた。

鏡の中の鐘楼が鳴る。

音は逆向きに流れ、

上からではなく、下から響いてきた。


「……逆さの鐘。」

クララが呟く。

「時間が、戻ってる。」


瓶の中の光が強くなり、

舟の底を透かして海底を照らす。

そこには、

かつて燃え落ちた聖堂の土台。

石の間に、

割れたガラスと灰の層が眠っていた。


マルコがそっと手を伸ばす。

瓶を開けると、光が流れ出した。

青い糸のように水を伝い、

海底のガラスへと吸い込まれていく。


その瞬間、

水面が波打ち、

街の灯が一斉に揺れた。


わたしは空へ舞い上がり、

その全てを見下ろした。

街がひとつの巨大な鏡になり、

光と影が交錯している。

まるで、人々の記憶が

“水の記憶”として呼び戻されているかのようだった。


クララの髪が風に揺れた。

「マルコ、聞こえる?

 鐘の音が……逆に、上がってる。」


彼は頷く。

「誰かが呼んでいる。

 この光を、返してほしいと。」


光の柱がゆっくりと立ち上がり、

夜空へ届いた。

そこには、

ガラスでできたもうひとつの街――

沈まないヴェネツィアが映っていた。


瓶の中の光が完全に消えると、

水面の鏡も割れるように波立った。

潮が引き始め、

街が呼吸を取り戻す。


「……終わったの?」

クララの声。

マルコは小さく首を振った。

「いいや。まだ“返しきって”ない。」


わたしは鳴いた。

六度。

鐘と同じ数。

水面の鏡がそのたびに波紋を広げ、

灰の花の光が薄く空へ昇っていった。


その色は、

もう青ではなく――白だった。


赦しの色。

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