第6章 風のない朝
夜がほどけたあと、
ヴェネツィアの朝は呼吸を忘れていた。
波も、鐘も、風も――
どれも音を立てない。
街全体が、ひとつの大きな息を止めているようだった。
わたし――ピッコロは、
ムラーノの工房の屋根の縁にいた。
昨夜の潮が残した水たまりが、
空を映して光っている。
その水の鏡の中で、街は“逆さまの朝”を迎えていた。
◆
マルコは炉の前に座っていた。
火は完全に消え、灰だけが白く冷えている。
灰の中には、昨夜の“灰の花”の欠片。
光はもう失われ、粉のように静まっていた。
「火が……つかない。」
マルコの声が灰の上に落ちる。
「湿ってるんじゃないわ。」
リヴィアが首を振る。
「風が止まってるの。」
彼女が窓を開けても、外は微動もしない。
潮の匂いも、波の音もない。
まるで、世界が息を止めたまま、
次の鼓動を忘れてしまったようだった。
リヴィアは机の上にガラス瓶を置く。
昨夜の光を閉じ込めた瓶だ。
中では、青と金がまだかすかに生きている。
微光が部屋の壁を撫で、
“mutatio”――変化、という文字を浮かび上がらせた。
「変化……。」マルコが呟く。
「置き換え、赦し。」リヴィアが続ける。
「灰の花って、ただの技法じゃなかったのかもしれない。
――仮面を焼いた灰なのよ。」
「仮面を?」
「そう。祭りのあと、燃やされた無数の顔。
その灰を混ぜて、新しいガラスを作る。
だから、あの光は“記憶の燃えかす”。」
マルコの表情が静かに動く。
「つまり……焼くたびに、街のどこかの記憶が消える。」
「赦しの代償、ね。」
リヴィアが微笑んだ。
その笑みは、悲しみとやさしさが溶けた色をしていた。
ピッコロ――わたしは屋根から中を覗き込む。
空気が重く、音の代わりに光だけが動いている。
まるで、世界が“書きかけのまま”止まってしまったようだ。
マルコは立ち上がり、
炉の奥に残る灰を掬い上げた。
手の中で灰が小さく光る。
「燃やすべきか……残すべきか……。」
リヴィアがその手を包む。
「赦しは、焼くことじゃないわ。
受け取ること。」
その声は、沈黙の中に静かに溶けていった。
◆
その瞬間、外の水面がかすかに揺れた。
最初の風。
ピッコロ――わたしの羽をかすめ、
窓を叩いた。
炉の中で灰が舞い上がる。
ひとひらの青い火が、ふっと灯った。
リヴィアが囁く。
「風が……街を思い出した。」
マルコが微笑む。
「火が……息を吹き返した。」
灰の花の破片が、
炉の中でゆっくりと光を取り戻していく。
それはもう、昨夜の光ではなかった。
冷たく、穏やかで、
まるで“赦し”そのものの色。
わたしは鳴いた。
風が返ってきた証として。
それは、静寂を破る小さな音だった。
その音が屋根を渡り、街の上に広がる。
遠くで、鐘が一度だけ鳴った。
“風のない朝”は、
ようやく呼吸を思い出したのだ。
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