第6章 風のない朝

夜がほどけたあと、

ヴェネツィアの朝は呼吸を忘れていた。


波も、鐘も、風も――

どれも音を立てない。

街全体が、ひとつの大きな息を止めているようだった。


わたし――ピッコロは、

ムラーノの工房の屋根の縁にいた。

昨夜の潮が残した水たまりが、

空を映して光っている。

その水の鏡の中で、街は“逆さまの朝”を迎えていた。



マルコは炉の前に座っていた。

火は完全に消え、灰だけが白く冷えている。

灰の中には、昨夜の“灰の花”の欠片。

光はもう失われ、粉のように静まっていた。


「火が……つかない。」

マルコの声が灰の上に落ちる。


「湿ってるんじゃないわ。」

リヴィアが首を振る。

「風が止まってるの。」


彼女が窓を開けても、外は微動もしない。

潮の匂いも、波の音もない。

まるで、世界が息を止めたまま、

次の鼓動を忘れてしまったようだった。


リヴィアは机の上にガラス瓶を置く。

昨夜の光を閉じ込めた瓶だ。

中では、青と金がまだかすかに生きている。

微光が部屋の壁を撫で、

“mutatio”――変化、という文字を浮かび上がらせた。


「変化……。」マルコが呟く。

「置き換え、赦し。」リヴィアが続ける。

「灰の花って、ただの技法じゃなかったのかもしれない。

 ――仮面を焼いた灰なのよ。」


「仮面を?」

「そう。祭りのあと、燃やされた無数の顔。

 その灰を混ぜて、新しいガラスを作る。

 だから、あの光は“記憶の燃えかす”。」


マルコの表情が静かに動く。

「つまり……焼くたびに、街のどこかの記憶が消える。」


「赦しの代償、ね。」

リヴィアが微笑んだ。

その笑みは、悲しみとやさしさが溶けた色をしていた。


ピッコロ――わたしは屋根から中を覗き込む。

空気が重く、音の代わりに光だけが動いている。

まるで、世界が“書きかけのまま”止まってしまったようだ。


マルコは立ち上がり、

炉の奥に残る灰を掬い上げた。

手の中で灰が小さく光る。

「燃やすべきか……残すべきか……。」


リヴィアがその手を包む。

「赦しは、焼くことじゃないわ。

 受け取ること。」


その声は、沈黙の中に静かに溶けていった。



その瞬間、外の水面がかすかに揺れた。

最初の風。

ピッコロ――わたしの羽をかすめ、

窓を叩いた。


炉の中で灰が舞い上がる。

ひとひらの青い火が、ふっと灯った。


リヴィアが囁く。

「風が……街を思い出した。」


マルコが微笑む。

「火が……息を吹き返した。」


灰の花の破片が、

炉の中でゆっくりと光を取り戻していく。

それはもう、昨夜の光ではなかった。

冷たく、穏やかで、

まるで“赦し”そのものの色。


わたしは鳴いた。

風が返ってきた証として。

それは、静寂を破る小さな音だった。


その音が屋根を渡り、街の上に広がる。

遠くで、鐘が一度だけ鳴った。


“風のない朝”は、

ようやく呼吸を思い出したのだ。

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