第5章 ガラスの舟
夜の水は、空よりも深い。
月が沈み、風が止まると、
波の下から街の鼓動が聞こえてくる。
わたし――ピッコロは、
ラグーナの上を滑る小さな舟の上にいた。
舟にはマルコとリヴィア。
灯を消して、櫂をゆっくりと漕いでいる。
水面には仮面がいくつも流れていた。
金、白、黒、そして灰色。
祭りの残り火のように。
それらは水に沈みきらず、
まるで街がまだ夢を見ているように、波の上を漂っている。
リヴィアが指先で水をすくう。
「見て。光ってる。」
潮の中で粉のような光が舞い上がる。
ガラスの粒だ。
灰の花の破片が、海の底から呼吸するように浮かび上がっていた。
「灰の花の種……?」
マルコの声が低く響く。
「父さんが言ってた。
“ガラスは死なない。
砕けても、水の底で呼吸してる”って。」
リヴィアは静かに頷いた。
「修復するより、生きてるのね。」
彼女の声は、潮風と同じ透明さで揺れた。
わたしは櫂の先に止まり、夜気を感じた。
遠くのムラーノ島は黒い影。
かつて火が踊っていた工房の煙突が、
今は冷たい指のように空を指している。
「行こう。」
マルコが櫂を押す。
舟が音もなく進む。
風はないのに、水だけが動いている。
それは、街そのものの意志のようだった。
◆
ムラーノ島は眠っていた。
かつて火が踊っていた工房は、
今は瓦礫と冷えた煙突だけ。
床には灰の花の欠片が散らばり、
その一つひとつが、まるで星の抜け殻のように光っている。
リヴィアが灯をともして床を照らした。
焦げた煉瓦の間に、
ひとつだけ、炉の心臓が残っていた。
黒い石の穴の奥から、
青白い光がわずかに漏れている。
「……まだ生きてる。」
マルコが膝をつく。
「火じゃない。これは、記憶の光だ。」
彼が手を伸ばすと、光が脈打つ。
まるで、呼吸しているように。
灰ではなく、心臓のようだった。
リヴィアはその光をガラス瓶に閉じ込める。
「これが“灰の花”の核かもしれない。」
瓶の中で光が花弁のように開く。
波の反射がそのまま形になったような、美しい揺らぎ。
外では潮が満ちはじめていた。
足元に水が入る。
炉の破片が揺れ、過去の熱が音を立てる。
「急ごう。」
マルコが瓶を抱えて舟へ戻る。
リヴィアが振り向いたとき、
廃炉の奥に“誰か”が立っていた。
金の仮面。
火の明滅のような影。
その姿は、人でも幻でもなく――街そのものの化身のように見えた。
「花を返せ。
街がそれを求めている。」
声は、金属の中を通る風の音のようだった。
マルコが叫ぶ。
「誰だ!」
だが、影はもう水の中に溶けていた。
瓶の中の光が震える。
青から金、そして赤へと変わる。
リヴィアの手の中で、まるで街が息を吹き返すようだった。
わたしは羽ばたいた。
上昇気流の代わりに、光の柱が身体を押し上げる。
下を見ると、ラグーナの水が鏡のように静まり、
その中で光が流れていく。
街が、記憶を取り戻そうとしている。
沈むことで、もう一度、浮かび上がるために。
舟が再び動き出す。
夜明け前の空の下、鐘が一度だけ鳴った。
その音が水面を渡り、遠くの鐘楼に届く。
リヴィアが小さく呟いた。
「赦しは……まだ途中ね。」
わたしは鳴いた。
短く、一度。
潮の音に混ざって消える。
――灰の花は、まだ咲ききっていなかった。
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