第4章 沈む聖堂の鐘

朝の水は、夜よりも重い。

光を抱えているぶんだけ、沈むのがゆっくりになる。


わたし――ピッコロは、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の丸屋根にいた。

潮が高く、階段の下の石畳はもう見えない。

人の声は遠く、ただ水と鐘だけが呼吸をしている。


鐘楼の影が水面を切る。

風の代わりに、波がゆっくりと街を撫でていった。

この街は、今日も少しだけ沈んでいる。

だが、それは滅びではなく、祈りのような沈み方だ。



聖堂の下では、リヴィアが立っていた。

水に足首を浸し、両手に古いガラス片を持っている。

昨夜、鏡の宮殿で拾った破片だ。

朝の光にかざすと、そこには“沈む街”の影が映っていた。


「昨日の夜の光……まだ残ってる。」

リヴィアの声が水に溶ける。


マルコは岸辺で火を起こしていた。

灰の花の試作が眠る炉を、もう一度、温めようとしている。

湿った潮風の中、火がなかなかつかない。


「リヴィア、もう――」と彼が言いかけて、

自分で首を振る。

「……リヴィア、やめよう。水が上がる。」

「あと少しだけ。」

彼女は石壁に手を添えた。


壁の上には、古い文様。

潮に濡れて、ゆらりと光る。

それは彫刻ではなく、刻まれた言葉だった。


《Perdono》

――赦し。


リヴィアの指先が震える。

「この彫り……修復記録にはなかった。」

「火災のあと、誰かが刻んだんだろう。」

マルコが答える。

潮が彼の声を吸い取っていった。


鐘が一度鳴った。

低く、湿った音。

床の水が震え、光が波紋のように広がる。


「この鐘……昨夜と同じ音?」

「いや、少し違う。」マルコは耳を澄ます。

「中に、ひとつだけ割れた音がある。」


わたしは屋根から飛び降り、鐘の下の空気を掠めた。

金属の中に細い裂け目。

風がその傷を撫でて鳴らしている。

まるで街の心臓に、まだ癒えない傷があるようだった。


リヴィアがガラス片を胸に当てた。

水面の反射がその顔を照らす。

ガラスの中で、別の時代が揺らめく。


――炎。

――煙。

――崩れる天井。

――祈りの声。


彼女の目がその幻を追う。

「見えるの?」マルコが問う。

「ええ。誰かが鐘を鳴らしてる。水の中で。」


マルコの拳が固くなる。

「それは……父さんかもしれない。

 火災の夜、最後まで鐘を鳴らし続けたって聞いた。」


リヴィアは頷いた。

「鐘は、まだ鳴ってる。

 誰かが、あの夜を赦そうとしている。」


潮がもう膝の高さまで来ていた。

鐘の音が濁り、金属の響きが泡に変わる。

鐘楼がゆっくりと水の中に沈み始めた。


わたしは空へ舞い上がる。

下では聖堂がまるごと、水に飲まれようとしていた。

屋根の上の十字架が波に映り、二つに割れる。


その瞬間、風が街を横切った。

鐘が六度、鳴る。

一度ごとに、水面の光が消えていく。

それはまるで、街の記憶の層を剥がすようだった。


そして最後の音が響いたとき、

水の中で、灰の花の欠片が光った。

沈みながら咲く、赦しの花。

その光が波に溶けて、

街の影のひとつを優しく照らした。



リヴィアは静かに呟く。

「火と水が出会う場所に、赦しが生まれるのね。」


マルコは濡れた手で額の汗を拭い、

その顔にかすかな笑みを浮かべた。

「……ああ。けれど、火が水に消される前に、

 もう一度、花を咲かせたい。」


彼の声が、鐘の余韻に重なって消えた。


わたしは再び高く舞い上がり、

屋根の上の空を旋回する。

街が沈むたびに鳴る鐘の音を、

羽の中に記録しながら。


――ヴェネツィアは沈んでも、呼吸をやめない。

 沈むことは、赦しのかたちのひとつなのだ。


潮が引きはじめ、

わたしの影が水面を渡った。

灰の光が、波に乗ってゆっくりと遠ざかっていく。

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