第4章 沈む聖堂の鐘
朝の水は、夜よりも重い。
光を抱えているぶんだけ、沈むのがゆっくりになる。
わたし――ピッコロは、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の丸屋根にいた。
潮が高く、階段の下の石畳はもう見えない。
人の声は遠く、ただ水と鐘だけが呼吸をしている。
鐘楼の影が水面を切る。
風の代わりに、波がゆっくりと街を撫でていった。
この街は、今日も少しだけ沈んでいる。
だが、それは滅びではなく、祈りのような沈み方だ。
◆
聖堂の下では、リヴィアが立っていた。
水に足首を浸し、両手に古いガラス片を持っている。
昨夜、鏡の宮殿で拾った破片だ。
朝の光にかざすと、そこには“沈む街”の影が映っていた。
「昨日の夜の光……まだ残ってる。」
リヴィアの声が水に溶ける。
マルコは岸辺で火を起こしていた。
灰の花の試作が眠る炉を、もう一度、温めようとしている。
湿った潮風の中、火がなかなかつかない。
「リヴィア、もう――」と彼が言いかけて、
自分で首を振る。
「……リヴィア、やめよう。水が上がる。」
「あと少しだけ。」
彼女は石壁に手を添えた。
壁の上には、古い文様。
潮に濡れて、ゆらりと光る。
それは彫刻ではなく、刻まれた言葉だった。
《Perdono》
――赦し。
リヴィアの指先が震える。
「この彫り……修復記録にはなかった。」
「火災のあと、誰かが刻んだんだろう。」
マルコが答える。
潮が彼の声を吸い取っていった。
鐘が一度鳴った。
低く、湿った音。
床の水が震え、光が波紋のように広がる。
「この鐘……昨夜と同じ音?」
「いや、少し違う。」マルコは耳を澄ます。
「中に、ひとつだけ割れた音がある。」
わたしは屋根から飛び降り、鐘の下の空気を掠めた。
金属の中に細い裂け目。
風がその傷を撫でて鳴らしている。
まるで街の心臓に、まだ癒えない傷があるようだった。
リヴィアがガラス片を胸に当てた。
水面の反射がその顔を照らす。
ガラスの中で、別の時代が揺らめく。
――炎。
――煙。
――崩れる天井。
――祈りの声。
彼女の目がその幻を追う。
「見えるの?」マルコが問う。
「ええ。誰かが鐘を鳴らしてる。水の中で。」
マルコの拳が固くなる。
「それは……父さんかもしれない。
火災の夜、最後まで鐘を鳴らし続けたって聞いた。」
リヴィアは頷いた。
「鐘は、まだ鳴ってる。
誰かが、あの夜を赦そうとしている。」
潮がもう膝の高さまで来ていた。
鐘の音が濁り、金属の響きが泡に変わる。
鐘楼がゆっくりと水の中に沈み始めた。
わたしは空へ舞い上がる。
下では聖堂がまるごと、水に飲まれようとしていた。
屋根の上の十字架が波に映り、二つに割れる。
その瞬間、風が街を横切った。
鐘が六度、鳴る。
一度ごとに、水面の光が消えていく。
それはまるで、街の記憶の層を剥がすようだった。
そして最後の音が響いたとき、
水の中で、灰の花の欠片が光った。
沈みながら咲く、赦しの花。
その光が波に溶けて、
街の影のひとつを優しく照らした。
◆
リヴィアは静かに呟く。
「火と水が出会う場所に、赦しが生まれるのね。」
マルコは濡れた手で額の汗を拭い、
その顔にかすかな笑みを浮かべた。
「……ああ。けれど、火が水に消される前に、
もう一度、花を咲かせたい。」
彼の声が、鐘の余韻に重なって消えた。
わたしは再び高く舞い上がり、
屋根の上の空を旋回する。
街が沈むたびに鳴る鐘の音を、
羽の中に記録しながら。
――ヴェネツィアは沈んでも、呼吸をやめない。
沈むことは、赦しのかたちのひとつなのだ。
潮が引きはじめ、
わたしの影が水面を渡った。
灰の光が、波に乗ってゆっくりと遠ざかっていく。
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