第3章 鏡の夜とマスクの街
夜のヴェネツィアは、音でできている。
鐘、足音、笑い声、仮面が擦れる微かな金属音。
そのすべてが、水面に落ちて、また浮かぶ。
わたし――ピッコロは、リアルト橋の欄干にいた。
下を流れる運河が、街の光をゆらゆらと反射している。
ひとつひとつの灯りが、人の心のように揺れていた。
カーニバルの夜。
街は息をひそめ、次の鼓動を待っている。
通りには仮面の群れ。
金、銀、黒、白――色の洪水。
孔雀の羽を冠にした女が笑い、
紙の花を子どもたちが投げる。
仮面をつけたまま人は誰とでも踊り、
名前を捨て、時間を忘れる。
この夜、街そのものが“ひとつの仮面”になる。
◆
リヴィアは仮面を手にしていた。
金箔と灰の粉を貼り合わせた薄い面。
火の明かりを映すと、まるで涙の跡のように光が揺れた。
彼女は工房の扉の前で、仮面を顔に当てる。
鏡の中に映った自分の瞳が、
ほんの少しだけ、知らない誰かのように見えた。
「似合ってる。」
声。マルコだった。
彼もまた黒い半面をつけていた。
その奥の瞳には、炉の赤がまだ残っている。
火と水がひとつの影に混ざって見えた。
「人が仮面をかぶるのは、忘れるため?」
リヴィアが問う。
マルコは少し笑って答えた。
「いや、思い出すためだ。」
ふたりは人の波に紛れ、サン・マルコ広場へ向かった。
街は仮面の海。
笑い声が波のように押し寄せ、
音が溢れて、夜が震える。
リヴィアはふと立ち止まる。
人々の間をすり抜けるように、
白い仮面の女が歩いていた。
裾が水を引きずり、手にはガラスの扇。
その仮面の下の唇が、
彼女と同じ形をしていた。
「リヴィア?」
マルコが呼ぶ。
だが、彼女は答えない。
白い仮面の女は振り返らず、
古い宮殿の方へと消えていった。
◆
宮殿の中は、光と音の渦。
水晶のシャンデリアがきらめき、
チェンバロが海の波のような音を立てる。
壁一面の鏡が、人々の仮面を何重にも映し出す。
わたしは天井の梁に止まり、下を覗いた。
百の仮面が笑い、千の影が踊る。
人間の笑いは、時々、祈りに似ている。
リヴィアとマルコもその中にいた。
鏡の中の二人は、ほんの少し遅れて動いていた。
まるで、鏡の中の時間が別の速度で流れているかのように。
白い仮面の女が、鏡の奥からこちらを見つめていた。
リヴィアが息をのむ。
仮面の奥の声が、空気を震わせた。
――“あなたの顔は、まだ赦されていない。”
音ではない。
冷たい水のような声。
リヴィアの仮面に、細いひびが走る。
マルコが彼女に手を伸ばす。
その瞬間、鏡の中の二人が逆にこちらを見返していた。
笑っている。
だが、その笑みは涙の形をしていた。
鏡の奥の世界で、仮面が一斉に割れる。
破片が宙に舞い、光と灰が混ざりあう。
リヴィアの頬にも一片が触れ、冷たい線を描いた。
わたしは羽ばたいた。
空気がざらりと鳴り、
宮殿全体が波に包まれたように揺れる。
運河の水面が鏡のように凪ぐ。
その表面に映っていたのは――
仮面のない街。
だが、そこにいる人々の顔は、
もう表情を忘れていた。
鐘が鳴る。
一度、二度、三度。
そのたびに光がひとつずつ消えていく。
リヴィアは鏡の破片を拾い上げた。
そこに映っていたのは、
仮面を外した彼女自身の顔――涙の跡がひと筋。
マルコがその肩に手を置く。
「行こう。朝になる。」
彼の声がわずかに震えていた。
外に出ると、街はもう静かだった。
仮面の群れは消え、
波紋だけが残っている。
空気の底で、灰の匂いがした。
わたしはその上を飛んだ。
羽先が灰に触れるたび、
微かな光が生まれた。
――祭りは終わった。
だが、街の仮面はまだ外されていない。
◆
遠くで鐘が六度鳴る。
その余韻の中で、わたしは思った。
人は仮面をつけることで、
自分の“赦されなさ”を確かめる。
赦しを待つために、仮面をつける。
この街は、
その赦しを、何百年も待ち続けているのだ。
夜の風が運河を撫で、
灰の粉が月に照らされてきらめいた。
水の上で揺れるその光は、
“灰の花”の種のようにも見えた。
――そして、街はまた沈黙した。
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