第3章 鏡の夜とマスクの街

夜のヴェネツィアは、音でできている。

鐘、足音、笑い声、仮面が擦れる微かな金属音。

そのすべてが、水面に落ちて、また浮かぶ。


わたし――ピッコロは、リアルト橋の欄干にいた。

下を流れる運河が、街の光をゆらゆらと反射している。

ひとつひとつの灯りが、人の心のように揺れていた。


カーニバルの夜。

街は息をひそめ、次の鼓動を待っている。


通りには仮面の群れ。

金、銀、黒、白――色の洪水。

孔雀の羽を冠にした女が笑い、

紙の花を子どもたちが投げる。

仮面をつけたまま人は誰とでも踊り、

名前を捨て、時間を忘れる。


この夜、街そのものが“ひとつの仮面”になる。



リヴィアは仮面を手にしていた。

金箔と灰の粉を貼り合わせた薄い面。

火の明かりを映すと、まるで涙の跡のように光が揺れた。


彼女は工房の扉の前で、仮面を顔に当てる。

鏡の中に映った自分の瞳が、

ほんの少しだけ、知らない誰かのように見えた。


「似合ってる。」

声。マルコだった。


彼もまた黒い半面をつけていた。

その奥の瞳には、炉の赤がまだ残っている。

火と水がひとつの影に混ざって見えた。


「人が仮面をかぶるのは、忘れるため?」

リヴィアが問う。

マルコは少し笑って答えた。

「いや、思い出すためだ。」


ふたりは人の波に紛れ、サン・マルコ広場へ向かった。

街は仮面の海。

笑い声が波のように押し寄せ、

音が溢れて、夜が震える。


リヴィアはふと立ち止まる。

人々の間をすり抜けるように、

白い仮面の女が歩いていた。

裾が水を引きずり、手にはガラスの扇。


その仮面の下の唇が、

彼女と同じ形をしていた。


「リヴィア?」

マルコが呼ぶ。

だが、彼女は答えない。

白い仮面の女は振り返らず、

古い宮殿の方へと消えていった。



宮殿の中は、光と音の渦。

水晶のシャンデリアがきらめき、

チェンバロが海の波のような音を立てる。

壁一面の鏡が、人々の仮面を何重にも映し出す。


わたしは天井の梁に止まり、下を覗いた。

百の仮面が笑い、千の影が踊る。

人間の笑いは、時々、祈りに似ている。


リヴィアとマルコもその中にいた。

鏡の中の二人は、ほんの少し遅れて動いていた。

まるで、鏡の中の時間が別の速度で流れているかのように。


白い仮面の女が、鏡の奥からこちらを見つめていた。

リヴィアが息をのむ。

仮面の奥の声が、空気を震わせた。


――“あなたの顔は、まだ赦されていない。”


音ではない。

冷たい水のような声。

リヴィアの仮面に、細いひびが走る。


マルコが彼女に手を伸ばす。

その瞬間、鏡の中の二人が逆にこちらを見返していた。

笑っている。

だが、その笑みは涙の形をしていた。


鏡の奥の世界で、仮面が一斉に割れる。

破片が宙に舞い、光と灰が混ざりあう。

リヴィアの頬にも一片が触れ、冷たい線を描いた。


わたしは羽ばたいた。

空気がざらりと鳴り、

宮殿全体が波に包まれたように揺れる。


運河の水面が鏡のように凪ぐ。

その表面に映っていたのは――

仮面のない街。

だが、そこにいる人々の顔は、

もう表情を忘れていた。


鐘が鳴る。

一度、二度、三度。

そのたびに光がひとつずつ消えていく。


リヴィアは鏡の破片を拾い上げた。

そこに映っていたのは、

仮面を外した彼女自身の顔――涙の跡がひと筋。


マルコがその肩に手を置く。

「行こう。朝になる。」

彼の声がわずかに震えていた。


外に出ると、街はもう静かだった。

仮面の群れは消え、

波紋だけが残っている。

空気の底で、灰の匂いがした。


わたしはその上を飛んだ。

羽先が灰に触れるたび、

微かな光が生まれた。


――祭りは終わった。

だが、街の仮面はまだ外されていない。



遠くで鐘が六度鳴る。

その余韻の中で、わたしは思った。


人は仮面をつけることで、

自分の“赦されなさ”を確かめる。

赦しを待つために、仮面をつける。


この街は、

その赦しを、何百年も待ち続けているのだ。


夜の風が運河を撫で、

灰の粉が月に照らされてきらめいた。

水の上で揺れるその光は、

“灰の花”の種のようにも見えた。


――そして、街はまた沈黙した。

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