第9章 記憶を返す舟
朝の風が、まだ灰の匂いを運んでいた。
潮の満ち引きはゆるやかで、
街は一夜の眠りから目を覚ましたようだった。
わたし――ピッコロは、アルセナーレの屋根の上にいた。
下では、リヴィアとマルコが小さな舟の準備をしている。
舟の底には、昨夜、聖堂の前で拾った灰の花がひとつ。
もう光らない。
けれど、灰の中にはわずかに透き通る筋があった。
それは、記憶がまだ息をしている印のようだった。
「これを……海に返そう。」
マルコの声は穏やかだった。
「燃やさず、閉じ込めず。ただ、返す。」
リヴィアが頷いた。
彼女の目には、もう仮面の夜の影はなかった。
その瞳は、朝の光と同じ色をしていた。
舟がゆっくりと離岸する。
波が割れ、街の影が再び水に映る。
風が帆を揺らし、
運河の壁に波紋が踊った。
◆
わたしは帆柱の上で羽を休めた。
舟は、まるで時間を遡るように進む。
後ろには、鐘楼の影。
前には、ラグーナの薄い光。
「街は、まだ沈んでると思う?」
リヴィアの声が波に溶ける。
「沈むたびに、何かを思い出してる。
沈まなきゃ、見えないものがあるんだ。」
マルコが答える。
その言葉を聞いて、わたしは羽を少し震わせた。
沈むことは、忘れることではない。
沈むことは、記憶の底を撫でること。
この街は、そのやり方で生きている。
舟がサン・ジョルジョ島の灯台を過ぎたとき、
空が白く開いた。
リヴィアが灰の花を取り出す。
それは静かに崩れ、粉が風に舞った。
「もう……軽い。」
リヴィアが呟く。
マルコが手を添え、
二人は同時に花を海へ落とした。
灰の粒が、朝の光を受けて光った。
その瞬間、風が一陣吹く。
灰が波の上を渡り、
遠くの水平線へ吸い込まれていく。
その軌跡が、六つの光の線を描いた。
鐘が鳴る。
一度、二度、三度、四度、五度、六度。
最後の音が響いたとき、
海面がほんの少しだけ輝いた。
まるで、街そのものが
“ありがとう”と息を吐いたように。
◆
舟はゆっくりと戻っていく。
風が後ろから押していた。
リヴィアの髪がほどけ、マルコの指に絡む。
「ねえ、マルコ。
もしまた街が沈んでも、
きっとまた思い出すよね。」
「思い出すさ。
忘れたことも含めて。」
ふたりの声が波に溶けて消える。
わたしは鳴いた。
六度。
鐘の音と重なり、
街全体が静かに呼吸する。
鐘楼の影が海に伸びる。
その影が、灰の道を指していた。
そこが“記憶を返す”ための帰り道。
舟が遠ざかり、
街の輪郭が光に溶けていく。
わたしはその光の中で羽ばたいた。
潮風が柔らかく背を押す。
そして、
ヴェネツィアはもう一度、
静かに眠りはじめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます