第9章 記憶を返す舟

朝の風が、まだ灰の匂いを運んでいた。

潮の満ち引きはゆるやかで、

街は一夜の眠りから目を覚ましたようだった。


わたし――ピッコロは、アルセナーレの屋根の上にいた。

下では、リヴィアとマルコが小さな舟の準備をしている。


舟の底には、昨夜、聖堂の前で拾った灰の花がひとつ。

もう光らない。

けれど、灰の中にはわずかに透き通る筋があった。

それは、記憶がまだ息をしている印のようだった。


「これを……海に返そう。」

マルコの声は穏やかだった。

「燃やさず、閉じ込めず。ただ、返す。」


リヴィアが頷いた。

彼女の目には、もう仮面の夜の影はなかった。

その瞳は、朝の光と同じ色をしていた。


舟がゆっくりと離岸する。

波が割れ、街の影が再び水に映る。

風が帆を揺らし、

運河の壁に波紋が踊った。



わたしは帆柱の上で羽を休めた。

舟は、まるで時間を遡るように進む。

後ろには、鐘楼の影。

前には、ラグーナの薄い光。


「街は、まだ沈んでると思う?」

リヴィアの声が波に溶ける。


「沈むたびに、何かを思い出してる。

 沈まなきゃ、見えないものがあるんだ。」

マルコが答える。


その言葉を聞いて、わたしは羽を少し震わせた。

沈むことは、忘れることではない。

沈むことは、記憶の底を撫でること。

この街は、そのやり方で生きている。


舟がサン・ジョルジョ島の灯台を過ぎたとき、

空が白く開いた。

リヴィアが灰の花を取り出す。

それは静かに崩れ、粉が風に舞った。


「もう……軽い。」

リヴィアが呟く。

マルコが手を添え、

二人は同時に花を海へ落とした。


灰の粒が、朝の光を受けて光った。

その瞬間、風が一陣吹く。


灰が波の上を渡り、

遠くの水平線へ吸い込まれていく。

その軌跡が、六つの光の線を描いた。


鐘が鳴る。

一度、二度、三度、四度、五度、六度。

最後の音が響いたとき、

海面がほんの少しだけ輝いた。

まるで、街そのものが

“ありがとう”と息を吐いたように。



舟はゆっくりと戻っていく。

風が後ろから押していた。

リヴィアの髪がほどけ、マルコの指に絡む。


「ねえ、マルコ。

 もしまた街が沈んでも、

 きっとまた思い出すよね。」


「思い出すさ。

 忘れたことも含めて。」


ふたりの声が波に溶けて消える。


わたしは鳴いた。

六度。

鐘の音と重なり、

街全体が静かに呼吸する。


鐘楼の影が海に伸びる。

その影が、灰の道を指していた。

そこが“記憶を返す”ための帰り道。


舟が遠ざかり、

街の輪郭が光に溶けていく。


わたしはその光の中で羽ばたいた。

潮風が柔らかく背を押す。


そして、

ヴェネツィアはもう一度、

静かに眠りはじめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る