第6話 存在・論

 

 【存在】

 

「次は、桜」を読み終えてから、作者がその中に仕掛けた精妙せいみょうなデザインに、私は時間をかけて気づき始めました。


 表面的な文章の構成や伏線を解き明かすだけでなく、キャラクターたちの間に存在する立場対立や愛憎あいぞうからみ合いが、私たちの中で生々しく、鮮やかに展開されます。

 

 身近にも彼らの影を見つけることができるからです。だからこそ、これらの登場人物は生きているのです。私たちの心の中で、生き続けているのです。


 作品を読み終えた後、物語の世界から離れて、現実の生活に戻っても、彼らの一言一行が、知らず知らずのうちに私たちに影響を与え始めるのです。


 これが「後を引く力」、「余韻よいん」です。

 

 まるで紙についたコーヒーの輪染わじみのように、

 まるでシャツについた汚れのように、

 拭き取って、洗い落とした後も、なお薄い痕跡こんせきを残す。


 あるいは、去年の散りゆく桜のように、

 多かれ少なかれ影響を与え、心をみだし、

 人に忘れさせないのです。


 あなたは思い出すでしょう。次にカップを置く時は、その場所に注意しようと。


 あなたは思い出すでしょう。次にその料理を召し上がる時は、ちゃんとナプキンを使おうと。


 あなたは思い出すでしょう。次に花見に行く時は、もっと早く計画を立てようと。


 あなたは思い出すでしょう。前回失敗した時、悔しさで流した涙を。


 あなたは思い出すでしょう。前回あの料理を味わった時、向かいに座った人がどれほど楽しそうに笑っていたかを。


 あなたは思い出すでしょう。前回失恋した時、胸に空いた穴がどれほど心許こころもとなく、無力だったかを。



 あなたは「存在」の定義をどうお考えでしょうか?


 それは、記憶の中の振り向きざまの微笑みでしょうか?


 それは、救命救急室で患者を蘇生そせいさせる奇跡でしょうか?


 それは、焼香焼香の際にたまたま飛んできた蝶でしょうか?


 それは、新生児が初めてあなたと目を合わせた瞬間でしょうか?


 それは、平野で規則正しく揺れる草の波でしょうか?


 それは、遥か宇宙で瞬く星々でしょうか?



 私にとって、私が聞いていること、見ていること、そして聞くことができないこと、見ることができないこと。

 

 その全てが「存在」です。

 

 

 では、「私」はどうでしょうか?

 私は「存在」しているのでしょうか?

 

 他人の目には、私はどのような「存在」として映っているのでしょうか?

 

 責任感のある編集者?

 頼りになる友人?

 共感を呼ぶ読者?

 

 可能な限りプロモーションの意図を隠そうとするエッセイ作者?


 それとも、道徳的どうとくてきな審判を恐れ、罪悪感から逃れ、社会経験を悪用する、極めて醜い大人でしょうか?


 時々、私は「ジェンセン」のように、人々に忘れ去られることを願います。


 時々、私は「バイリン」のように、一人で残ることを選ぶのを願います。


 もし、このような私でも、まだ「存在」していると言えるのでしょうか?


 罪を背負った私でも、一種の存在ですよね?


 なぜなら、永遠に誰かが覚えている。この女こそ、卑劣な小賢しい手段で、


 自分の読者の純粋な善意を踏みにじったのだと。

 許されないでしょう?


 どうか、この瞬間、この一篇での、存在に対する私の自己批判をお許しください。


 ***


「マンマン?」


 携帯の受話口から依玲イリンの声が聞こえてきた。


「うん?」


 マンマンはいつものように冷徹れいてつに応じた。


「大丈夫?」と依玲イリンは尋ねた。


「もう大丈夫よ、もう発散したから、ありがとう。」マンマンがこう言うなら、本当に大丈夫なのだろうと依玲イリンは思った。


「ごめんね、依玲イリン。あなたを売り飛ばしちゃったわ。」とマンマンが言った。


「おお、いい値段で売れたことを願うわ。」依玲イリンはすぐにマンマンが何を言っているのか察した。


「あなた、100ギフト分の価値、まあまあでしょう?」とマンマンは言った。


「へえ、それって台湾の最低月給に相当するんですよ。」依玲イリンは笑いをこらえながら言ったが、鼻からは息が漏れて、受話口からフッと吹き出す音が聞こえた。


 二人は受話器越しに、お互いのわだかまりが解けて笑い合った。

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