第2話「誰も信じられない」
五時間目、現代文。
皐月は、教科書の文字を目で追っている。目で追っているだけだ。一文字も、頭に入らない。
机の下、膝の上に置いたスマホ。
画面には、あのスレッド。
レス数は、千五百件を超えていた。
スクロールする。指が、冷たい。
『スレ主絶対いい子だよ』『応援してる』『今日の放課後が楽しみ』『氷室先輩、優しく受け止めてあげて』
温かい言葉ばかり。
でも、その中に。
一件だけ、異質な書き込みがあった。
『お前が誰か、もうわかってる』
投稿時刻は、一時間前。
レス番号は1347。
皐月は、息を呑んだ。
誰?
誰が書いた?
何がわかってる?
スマホを握る手に、汗が滲む。
「春川さん」
顔を上げる。教師が、こちらを見ている。
「次の段落、読んでくれる?」
「……はい」
声が、震える。
教科書を開く。どこを読めばいいのかわからない。隣の席の生徒が、小声で場所を教えてくれる。
ありがとう、と呟く。
読む。たどたどしく。
クラスメイトたちは、誰も皐月を見ていない。それぞれスマホをこっそり見ている。
画面には、きっと、あの掲示板。
チャイムが鳴る。
六時間目。
終われば、放課後。
告白の、時間。
皐月は、スマホを机の中にしまった。
もう見ない。
見ても、何も変わらない。
ただ、怖くなるだけ。
授業が始まる。
化学。元素記号。周期表。
黒板の文字が、踊っている。
廊下が、騒がしい。
「スレ主、誰だと思う?」
「絶対2年だよ、氷室先輩と同じフロアだし」
「いや、1年かもしれない。憧れの先輩的な」
「3年の可能性もあるでしょ、同級生として」
皐月は、耳を塞ぎたくなった。
でも、塞げない。
教室の空気が、ざわついている。
隣の席の女子が、後ろの席の男子と小声で話している。
「スレ主探し、みんな本気だよね」
「うん、もはやゲームみたいになってる」
「でも、誰だろうね」
「さあ。でも、恋愛経験ありそうな子だよね」
「だよね。告白なんて、普通の子にはできないもん」
皐月は、ペンを握る。
ノートに、意味のない線を引く。
普通の子には、できない。
その言葉が、胸に刺さる。
私は、普通じゃないの?
それとも、普通以下?
チャイムが鳴った。
六時間目、終了。
放課後。
教室が、一斉に動き出す。
「ねえ、行こう!」
「どこで告白するんだろう」
「掲示板には書いてなかったよね」
「とりあえず氷室先輩の教室近くで待機しよう」
生徒たちが、ぞろぞろと教室を出ていく。
皐月は、席を立たない。
立てない。
足が、動かない。
教室が、空になる。
一人になる。
静寂。
時計の秒針の音だけが、耳に響く。
スマホを取り出す。
掲示板を開く。
最新のレス。
『今、3年の廊下にいる。人だかりがやばい』『氷室先輩の教室前、超混んでる』『スレ主、どこにいるの?』
そして、また、あの書き込み。
『お前が誰か、もうわかってる。でも言わない。楽しみにしてる』
同じ人物。
誰?
皐月は、スマホをポケットにしまった。
立ち上がる。
教室を出る。
廊下。
人はまばら。ほとんどの生徒が、三階へ向かったのだろう。
皐月は、反対方向へ歩く。
階段を下りる。
一階。
トイレに入る。
鏡を見る。
青白い顔。
目の下にクマ。
髪は乱れている。
最悪だ。
こんな顔で、告白なんて。
できるわけがない。
水で顔を洗う。
冷たい。
少しだけ、落ち着く。
トイレを出る。
廊下に、人影。
二人の女子生徒が、立ち話をしている。
「ねえ、スレ主って誰だと思う?」
「わかんない。でも、可愛い子だといいな」
「氷室先輩と釣り合う子って、限られるよね」
「そうそう。暗い子とか、友達いない子とか、ありえないでしょ」
笑い声。
「あー、でも、そういう子が勘違いして告白とか、ウケるね」
「やめなよ、可哀想じゃん」
「まあね。でも、ありえないよね」
皐月は、その場に立ち尽くした。
二人は、皐月に気づいていない。
話を続けながら、階段を上っていく。
暗い子。
友達いない子。
ありえない。
皐月は、壁に背を預けた。
膝から、力が抜ける。
笑いたいのか、泣きたいのか、わからない。
ただ、胸が、痛い。
そのとき。
階段から、足音。
誰かが、下りてくる。
皐月は、顔を上げた。
そこに、氷室先輩がいた。
時間が、止まる。
氷室蒼。
三年A組。生徒会副会長。
穏やかな笑顔。柔らかい雰囲気。
彼は、皐月に気づく。
歩み寄る。
「やあ」
声が、優しい。
皐月は、硬直した。
「あの、えっと」
言葉が、出ない。
氷室先輩は、微笑んだ。
「掲示板、見たよ」
心臓が、止まった。
「え」
「今日、誰かが告白するんだって。すごいよね、勇気があって」
皐月は、呼吸を忘れた。
バレた?
バレてる?
それとも——
氷室先輩は、皐月の横を通り過ぎる。
「僕も、楽しみにしてる」
そう言って、階段を下りていった。
皐月は、その場に立ち尽くす。
足が、震える。
今の、何?
ただの世間話?
それとも、遠回しに——
わからない。
何もわからない。
皐月は、階段を上った。
二階。
三階。
三年生のフロア。
廊下は、人でごった返していた。
「氷室先輩、まだ教室にいるの?」
「出てきたら教えて!」
「スレ主、どこー!」
皐月は、人混みに紛れる。
誰も、皐月を見ない。
誰も、皐月に気づかない。
それが、少しだけ、安心する。
でも、同時に、惨めになる。
氷室先輩の教室前。
人だかり。
その中心に、氷室先輩がいる。
彼は、困ったように笑っている。
「みんな、どうしたの?」
「スレ主、待ってるんでしょ?」
「応援してるよ!」
氷室先輩は、苦笑する。
「ありがとう。でも、まだ誰が告白してくれるのか、わからないんだ」
そのとき。
一人の女子生徒が、氷室先輩に近づいた。
「あの、氷室先輩」
声が、震えている。
周囲が、静まり返る。
女子生徒は、俯いている。
「私、実は——」
皐月の心臓が、跳ねた。
まさか。
この子が、スレ主?
氷室先輩は、優しく微笑んだ。
「君が、スレ主?」
女子生徒は、頷く。
周囲が、どよめいた。
「マジで!?」
「あの子だったんだ!」
「可愛い!」
皐月は、その場から動けなかった。
氷室先輩は、女子生徒に向き直る。
「ありがとう。勇気を出してくれて」
女子生徒は、顔を上げた。
目に涙が滲んでいる。
「私、ずっと先輩のことが——」
氷室先輩は、首を横に振った。
「ごめん。君じゃないんだ」
女子生徒が、固まる。
周囲も、静まり返る。
「え?」
「掲示板のスレ主、君じゃないよね」
女子生徒は、唇を噛んだ。
「……そうです」
「だよね。スレ主は、まだ名乗り出ていない」
氷室先輩は、周囲を見渡す。
「スレ主、どこにいるのかな」
皐月は、息を呑んだ。
彼の視線が、一瞬、こちらに向く。
でも、すぐに外れる。
皐月を、認識していない。
当然だ。
皐月は、彼にとって、誰でもない。
女子生徒は、泣きながら走り去った。
周囲が、ざわつく。
「あの子、違ったんだ」
「じゃあ、スレ主は誰?」
「まだどこかにいるってこと?」
皐月は、人混みを抜ける。
階段を下りる。
廊下を走る。
トイレに駆け込む。
個室に入る。
鍵をかける。
便座に座り込む。
スマホを取り出す。
掲示板を開く。
最新のレス。
『今、3年の廊下で一人の子が名乗り出たけど、違ったらしい』『スレ主、マジで誰?』『早く出てきて!』
そして、また、あの書き込み。
『お前が誰か、もうわかってる。逃げるなよ』
皐月は、スマホを握りしめた。
手が、震える。
涙が、出そうになる。
でも、泣けない。
泣いたら、終わりな気がする。
そのとき。
個室の外から、声。
「ねえ、スレ主ってさ」
「うん?」
「どんな子だと思う?」
「わかんない。でも、可愛い子だといいな」
「氷室先輩に釣り合う子、限られるよね」
「そうそう」
笑い声。
皐月は、耳を塞いだ。
でも、声は止まらない。
「春川さんとか、ありえないよねー」
心臓が、止まった。
「え、誰?」
「ほら、2-Cの、いつも一人でいる子」
「ああ、あの暗い子」
「そうそう。あの子が恋愛とか、マジで無理でしょ」
「ウケるー」
笑い声。
そして、足音が遠ざかる。
静寂。
皐月は、膝を抱えた。
震える。
息が、できない。
胸が、痛い。
ありえない。
無理。
暗い子。
その言葉が、頭の中でリフレインする。
皐月は、スマホを見た。
画面には、あのスレッド。
千五百件を超える応援。
でも、誰も、皐月を応援していない。
誰も、皐月がスレ主だとは思っていない。
だって、ありえないから。
皐月は、顔を上げた。
個室の天井を見上げる。
蛍光灯の光が、眩しい。
そして、決めた。
告白、やめよう。
このまま、匿名のまま、消えよう。
誰も、困らない。
誰も、傷つかない。
それが、一番いい。
皐月は、立ち上がった。
トイレを出る。
廊下。
夕日が差し込んでいる。
校舎が、オレンジ色に染まっている。
綺麗だ。
でも、胸は、冷たい。
校門へ向かう。
そのとき。
背後から、声。
「待って」
振り返る。
そこに、氷室先輩がいた。
「君、2-Cの——」
皐月は、息を呑んだ。
氷室先輩は、歩み寄る。
「春川さん、だよね」
名前を、呼ばれた。
初めて。
彼に。
「あの、はい」
声が、震える。
氷室先輩は、微笑んだ。
「掲示板、見てる?」
「え、あ、はい」
「今日、誰かが告白してくれるんだって」
「……はい」
「君は、スレ主じゃないよね?」
心臓が、止まった。
「え」
氷室先輩は、優しく笑う。
「ごめん、変なこと聞いて。ただ、もしスレ主だったら、逃げないでほしいなって」
そう言って、彼は去っていった。
皐月は、その場に立ち尽くす。
夕日が、眩しい。
涙が、滲む。
逃げないで。
その言葉が、胸に響く。
でも、逃げたい。
逃げたくて、仕方ない。
皐月は、校門を出た。
家路につく。
スマホを取り出す。
掲示板を開く。
最新のレス。
『結局、スレ主出てこなかったね』『明日かな?』『待ってるよ、スレ主』
そして、あの書き込み。
『お前が誰か、もうわかってる。明日、待ってる』
皐月は、スマホを握りしめた。
そして、気づいた。
さっきの氷室先輩の言葉。
「君は、スレ主じゃないよね?」
あれは、質問?
それとも、確認?
もしかして、彼は——
皐月は、立ち止まった。
振り返る。
校舎が、夕日に染まっている。
もう一度、行くべきか。
それとも、このまま——
答えは、出ない。
ただ、胸の奥が、ざわついている。
安堵と、嫉妬と、恐怖と、期待と。
全部が混ざって、皐月を苦しめる。
家に着く。
部屋に入る。
ベッドに倒れ込む。
スマホを握りしめたまま、目を閉じる。
でも、眠れない。
頭の中で、氷室先輩の声がリフレインする。
「逃げないでほしいな」
そして、あの書き込み。
『お前が誰か、もうわかってる』
誰?
誰が書いた?
氷室先輩?
それとも、別の誰か?
答えは、わからない。
ただ、明日が、怖い。
でも、同時に、少しだけ、期待してしまっている自分がいる。
矛盾した感情が、皐月を引き裂く。
そして、夜は更けていく。
(第2話 終)
次回予告:第3話「匿名の味方」
掲示板に、新しいスレッドが立った。
『スレ主へ』
投稿者のハンドルネームは、"観測者"。
「君は一人じゃないよ、なんて言葉は信じられないよね。でも今回だけは、僕が君の味方だ」
皐月の心を、えぐるような的確さ。
そして、観測者はリアルタイムで語りかけてくる。
「今、体育館の入口にいるでしょ。深呼吸して」
誰?
誰が、見ている?
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