File9.二宮金次郎の撤去と、歩きスマホ時代のマルチタスクについて
事務所の床が、ミシリと悲鳴を上げた。 咲耶が青ざめた顔でデスクの下に潜り込もうとしているのも無理はない。今日のクライアントは、これまでの誰よりも物理的に「重い」相手だったからだ。
薪を背負い、本を読みながら歩く少年。 誰もが一度は小学校の校庭で目にしたことがあるだろう、勤勉の象徴。 銅像の付喪神、二宮金次郎氏である。
彼はその重厚な銅の体をソファに沈めると、硬い表情のまま重々しく口を開いた。
「私は、もう疲れました」
その声は金属特有の冷徹さとは裏腹に、深い疲労を帯びていた。
「明治、大正、昭和と、私は多くの子どもたちを見守ってきました。 寸暇を惜しんで学ぶ姿勢。貧しくとも心を高く持つ気概。私はそれを背中で語ってきたつもりです。 ですが今の時代、私は『危険人物』なのだそうです」
彼は手に持った石の本を悲しげに撫でた。
「歩きスマホ、というやつです。 前を見ずに歩くのは危険だ。子供が真似をして事故に遭ったらどうするんだ。そういった保護者からのクレームで、私は次々と撤去されています。 最近では、座って本を読む『座り金次郎』なる軟弱な像まで作られているとか」
彼はギリリと銅の拳を握りしめた。
「歩きながら読むからこそ意味があるのです。 足を動かし、身体を鍛えながら同時に頭脳も磨く。その『動』と『静』の融合こそが私のアイデンティティだったはずです。 座って読んでいては、ただの休憩ではありませんか」
咲耶がお茶を出しながら、同情たっぷりに頷く。
「確かに、座っちゃったら金次郎さんじゃないですよね。ただの薪を背負った読書好きの人ですもんね」
「九十九さん」
金次郎氏は縋るような目で私を見た。
「私はただの危険な教材なのでしょうか。現代の交通事情において、私のスタイルは害悪でしかないのでしょうか」
私は手元の資料に目を落とした。 そこには彼が撤去された学校のリストと、PTAからの要望書が添付されている。確かに現代日本の過密な都市環境において、彼の「歩き読み」はリスクが高い。 だが、コンサルタントとしての視点はそこにはない。
「オサキ」
私の呼びかけにオサキが心得たように頷き、一枚の地図をテーブルに広げた。
「金次郎さん。あなたのその能力は現代日本では『マナー違反』として処理されます。 ですが視点を変えれば、あなたは驚異的な『マルチタスク能力者』だ。 足場の悪い山道で薪という重量物を背負い、体幹を維持しながら難解な書物を読み解く集中力。これは並大抵の並列処理能力ではありません」
私は地図の一点を指差した。
「あなたにお勧めしたい世界があります。 魔法学園都市『グリモア』。 ここでは魔導書を読み上げることでのみ魔法が発動します。 しかし、ただ読むだけでは二流です。戦場において敵の攻撃を回避し、走り、位置取りを変えながら分厚い魔導書を正確に読み上げる『機動詠唱』こそが、最強の魔導師の条件なのです」
金次郎氏の銅の瞳が鈍く光った。
「走りながら、読む……のですか」
「ええ。この世界の魔導師たちは皆、足が止まってしまうのが弱点です。 読書に集中すると足が止まる。走ると読めなくなる。 ですが、あなたならどうですか?」
「造作もありません」 彼は即答した。 「百年以上、私はそうしてきましたから」
「ならばあなたは間違いなく、その世界で『賢者』になれます。 背負っている薪を『魔力タンク』に持ち替えれば、理論上あなたは無限に歩き続けながら最強の魔法を放ち続ける移動砲台になれるでしょう」
「ふ、ふふふ」
金次郎氏の口元から重厚な笑い声が漏れた。
「移動砲台、ですか。勤勉の象徴も変われば変わるものですね。 ですが悪くない。座って余生を過ごすより、歩き続けて朽ちるほうが私らしい」
数日後、事務所のモニターには異世界の戦場を悠然と歩く彼の姿が映し出されていた。
飛び交う火球や矢を視線も上げずに最小限の動きで回避し、手にした魔導書を朗々と読み上げている。 その背中からは莫大な魔力の光が噴き出していた。彼の周囲だけ敵が近寄れない「絶対結界」が築かれているのだ。
「やっぱり、かっこいいですねぇ」
咲耶がモニターを見ながらうっとりと溜息をつく。
「何かに夢中になってる男の人って素敵です」
「夢中になりすぎて、足元の段差で転ばないことを祈りますがね」
オサキが肩をすくめ、デスクの上に残された小さな石の欠片を拾い上げた。彼が去り際に置いていった今回の報酬だ。
「九十九さん、クライアントより『勤勉のしおり』を頂戴しました」
「効果は?」
「このしおりを挟んだ本の内容を、一瞬で脳内にインストールできるそうです。 ただし実際に理解して使いこなせるかは本人の努力次第ですが。まあ、一夜漬けには最強のアイテムですね」
「なるほど。徹夜続きの我々には悪くない福利厚生だ」
私はその薄い石片を読みかけの経営学書に挟んだ。
時代が変われば正しさも変わる。 だが、ひたむきに歩み続ける者の背中はいつの世も美しいものだ。
「さて、感傷に浸っている時間はない。咲耶さん、次のクライアントは?」
「あ、はい! 次は……ええっと、学校の備品つながりですね。 『人体模型』さんです。 理科室で女子生徒にキャーキャー言われていたあの頃の輝きをもう一度、だそうです」
やれやれ。 どうやら現代の学校は、あやかしにとって随分と住みにくい場所になってしまったらしい。 私は新しい茶葉を用意するよう、オサキに目で合図を送った。 次のコンサルティングも骨が折れそうだ。文字通りに。
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