File8.山彦(やまびこ)の自己不在と、完全なる「複写」の価値について

「もう、やめてくださいよぉ!」

(もう、やめてくださいよぉ!)


「私の真似ばっかりして! 馬鹿にしてるんですか!?」

(私の真似ばっかりして! 馬鹿にしてるんですか!?)


事務所に咲耶の金切り声が二重で響き渡っていた。 鏡合わせのように同じ言葉、同じトーン、同じタイミング。 まるで壊れたスピーカーがそこに置かれているようだ。


「騒がしいですね」


俺は読みかけの決算書を閉じた。


「咲耶さん。そのクライアントはあなたを馬鹿にしているわけではありません。それが彼の『存在証明』なのです」


ソファに座っているのは、登山用のパーカーを目深に被った小柄な少年だった。 顔は影になってよく見えないが、膝の上で固く握りしめられた手が彼の緊張を物語っている。 今回のクライアント、『山彦(やまびこ)』だ。


「申し訳、ありません」


彼が口を開くと、その声は少しだけ遅れて事務所の壁全体から反響するように聞こえた。


「僕には自分の言葉がないんです。誰かの言葉を反射することしかできないんです」




彼は深くうつむいたまま語り始めた。 かつて山々が静寂に包まれていた頃、彼の仕事は旅人の孤独を癒やすことだった。 「おーい」と呼べば、「おーい」と返す。 ただそれだけで、人は山の中に自分以外の存在を感じ、安堵した。


だが、現代の山はノイズで溢れている。 観光客の騒ぎ声、車のエンジン音、工事の重機音。 彼はそれら全てを無差別に反射し、増幅させてしまう。


「『うるさい』と怒られました」


彼の声が震える。


「キャンプに来たカップルの喧嘩をそのまま繰り返してしまい、さらに悪化させてしまったこともあります。 僕はただの『騒音発生装置』です。 自分の中に確固たる『核』がなく、ただ周囲の音を垂れ流すだけの空っぽな存在なんです」


現代社会において「自分の意見を持たない者」は軽視される。 オリジナリティがもてはやされる時代、ただの模倣は価値を持たない。 彼はその「空虚さ」に耐えられなくなっていた。


「異世界へ行って……誰にも迷惑をかけない、音のない世界で消えてしまいたい」


「かわいそうですぅ」

(かわいそうですぅ)


咲耶がハンカチで鼻をかむ。

山彦が悲しげにそれを繰り返す。その意図せぬ反射が、さらに場の空気を重くした。


「監査結果を伝えます」


俺は立ち上がり、彼の前に立った。


「あなたの悩みは『自分がない』ことですね? ですがコンサルタントの視点から言えば、あなたのその能力は『ただの反射』ではない」


俺はオサキに合図をした。 オサキが分厚い古書を数冊、デスクの上に積み上げる。


「咲耶さんの言葉を繰り返した時、あなたは彼女の声色、息遣い、感情の揺らぎまで完全に再現していました。 それは単なる模倣ではない。『完全なるアーカイブ』です」


俺は彼に一つの提案をした。


「音のない世界に行く必要はありません。 逆に、『声こそが唯一の歴史となる世界』へ行きなさい」


オサキが空中に投影したのは、巨大な図書館のような都市だった。 だが、その本棚には一冊の本もない。


「世界名『オーラル・ヒストリア』。 この世界では特殊な磁場の影響で、インクも紙も数日で風化して消えてしまいます。 文字による記録が不可能なこの世界で、人々は『口伝』だけで歴史や技術を継承してきました」


だが、口伝えは変化する。 伝言ゲームのように真実は時と共に歪み、失われていく。 それがこの世界の発展を阻害する最大の要因(ボトルネック)だった。


「彼らが必要としているのは天才的な作家でも、雄弁な演説家でもない。 聞いた言葉を一言一句、感情の機微に至るまで永遠に劣化させずに語り継ぐことができる、『生きたレコーダー』です」


山彦の少年が顔を上げた。


「僕が……歴史を、守る……?」


「ええ。あなたの『空っぽ』な器は、真実を混ぜ物なしに保存するための最高の資質です。 あなたはそこで王の遺言を、賢者の発見を、愛の告白を、永遠に響かせ続ける『永劫の語り部』となるでしょう」


「僕のままでいいんですか。 自分の言葉なんてなくても……誰かの言葉を繰り返すだけで役に立てるんですか」


「オリジナリティだけが価値ではありません。 真実をありのままに伝える誠実さ。それは何よりも得難い才能です」


少年の瞳から涙がこぼれた。


「ありがとう、ございます」 「ありがとう、ございます」


その反射音は事務所の空気を優しく震わせた。 それはもう騒音などではなかった。




転生ゲートの前。 少年はパーカーのフードを外し、晴れやかな笑顔を見せた。


「行ってきます。あっちの世界の全ての言葉を、僕が守ってみせます」


彼が光の中へ消えた後、モニターには大勢の学者や子供たちに囲まれ、朗々と古い物語を語る彼の姿が映し出された。 人々はその正確無比な語りに熱心に耳を傾けている。


「ふふっ。素敵なお仕事ですね」


咲耶が微笑む。


「誰かの言葉を大切にするって、素敵なことです」


「ええ。まあ、私の小言も反響して倍に聞こえるのは御免ですが」


オサキが肩をすくめ、俺に報酬を手渡した。 彼が座っていたソファに残されていた小さな鈴だ。


「九十九さん、今回の報酬です。 クライアントより『真実の反響鈴』を頂戴しました」


「効果は?」


「この鈴を鳴らすと、その場に残った『過去の会話』を一度だけ再生できるそうです。 『言った、言わない』の水掛け論になった時や、犯人の自白を聞き逃した時に決定的な証拠となりますね」


「なるほど。ボイスレコーダーの超上位互換か。 言質を取るのが仕事の我々には最高の武器だな」


俺は鈴をポケットに入れた。 言葉は一度発すれば消えてしまう。 だが、それを拾い上げ繋いでいく者がいれば、想いは永遠に残る。


俺はふと咲耶を見た。


「咲耶さん。先ほど私の指示を『はい』と返事しましたね?」


「え? は、はい」


「その返事、しっかりとこの鈴に録音しておきましたから。 『残業も厭いません』というあなたの心の声と共に」


「えぇぇぇっ!? そ、そんなこと言ってませんよぉ!?」


「言いましたよ。私の耳にはそう聞こえました」


「悪徳コンサルタントぉぉぉ!」


事務所に響く悲鳴(と、それを楽しむオサキの忍び笑い)。 賑やかな日常が今日も続いていく。


「さて、仕事だ。 次の理不尽が待っている」

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