第18話 三つの声

 祭典から三日が経った。城は、もはや城ではなくなっていた。帝国の護衛たちが廊下を行き交い、書類を運び、部屋という部屋を調査していく。エーベルハルト公爵が、レオナールの全財産と記録を押収するよう命じたのだ。書斎からは山のような帳簿が運び出され、寝室からは無数の肖像画が剥がされ、地下室からは薬品と実験道具が発見された。すべてが、証拠となった。


 城の一室で、エーベルハルト公爵は執務を執っていた。机の上には調査報告書が積み上げられ、部下の一人が新しい報告書を持って入ってきた。


「公爵閣下、鉱山の調査が完了しました。帳簿の記録と一致しています。実験施設の痕跡、薬物の残留、そして……十三名の遺体を発見しました」


 公爵は目を閉じた。「身元は?」


「現在、確認作業中です。ですが、おそらく帳簿に記載された『実験体』と一致するかと」


「……そうか。他には?」


「密売ルートの関係者、三十二名を拘束しました。全員が、侯爵との関係を認めています」


 部下は別の書類を差し出した。「それと、カーライル男爵領で焼失した村について。生存者の一人が、火を放った人物の特徴を証言しました。『侯爵の執事に似ていた』と」


 公爵は眉をひそめた。「ジュリアン・ヴェルトか」


「おそらく。ですが、彼は祭典の夜から行方不明です」


「探せ。帝国全土に手配しろ」


 部下は退出し、公爵は一人残された。彼は窓の外を見た。城下町が見える。人々はいつも通り働いているが、その表情は暗かった。祭典の夜以来、この領地全体が重苦しい空気に包まれていた。自分たちが信じていたものが嘘だったと知った人々の喪失感は、計り知れない。


 公爵は深くため息をついた。実は、彼は半年前からレオナールを疑い始め、密かに調査を進めていた。カーライル男爵領での不自然な村の焼失、東の村での疫病の奇妙なタイミング、そしてあまりにも順調すぎるルクレティア公領の繁栄。帝国の諜報員を使い、商人たちに接触し、密売ルートを探った。そして祭典に参加したのは、決定的な証拠を得るためだった。リオという少年が帳簿を持って現れたのは想定外だったが、事前に根回しをしていた取引相手たちが証言したのは、公爵が「真実を話せば罪を軽くする」と約束していたからだった。


 公爵は机の上の報告書を見た。これだけの証拠があれば、もう言い逃れはできない。レオナール・リリウスは、確実に処刑される。だが、公爵の心は晴れなかった。なぜなら、この事件は帝国全体にとって恥だったからだ。帝国が称賛していた模範的領主が、実は極悪人だった。それは、帝国の統治能力そのものへの疑問を生む。



 地下牢では、レオナールが鎖に繋がれていた。湿った石の床に座り込み、壁に背を預けている。三日間、彼はほとんど動いていなかった。食事もほとんど口にしていなかった。ただ、虚ろな目で天井を見つめているだけだった。


 足音が近づいてきた。扉が開き、エーベルハルト公爵が入ってきた。レオナールは顔を上げた。その顔は、もう化粧の痕跡もない。痩せこけ、髭が伸び、目の下には深い隈ができている。三日前の美しい侯爵の面影はどこにもなかった。


「やあ、公爵」レオナールは、かすれた声を絞り出した。どこか皮肉な響きがある。「わざわざ、こんな場所まで」


「最後に、いくつか確認したいことがある。答えてもらおう」


「答える義務はないがね」レオナールは口元に笑みを浮かべた。だが、それは笑顔ではなかった。ただの皮肉な歪みだった。「まあ、暇だ。話し相手になってやろう」


 公爵は懐から紙を取り出した。「この名簿に記された者たち。彼らは、お前の命令で殺されたのか?」


 レオナールはその紙を見た。そこには数十の名前が並んでいた。鉱山で死んだ子供たち、疫病で死んだ村人たち、暗殺された商人たち。すべて、レオナールが関わった死者たちだった。


「さあな」レオナールは目を逸らした。「覚えていない」


「覚えていない?」


「ああ。あまりにも多すぎてね。いちいち、名前なんて覚えていられない」その声は淡々としていた。まるで、虫を踏み潰したことを聞かれているかのように。


「お前は……何も感じないのか?罪悪感も、後悔も」


「ああ、それなら、ない」レオナールは乾いた、空虚な笑いを漏らした。「なぜなら、俺は正しかったからだ」


「正しかった……?」


「ああ」レオナールは身を乗り出した。鎖が音を立てる。「この領地を見ろ。五年前、ここは貧困に喘いでいた。だが今は、帝国屈指の繁栄を誇っている」


「それは、犠牲の上に……」


「当たり前だ」レオナールは遮った。「繁栄には、犠牲が伴う。それが、世の理だ。お前だって、そうだろう? 公爵。お前の地位も、誰かの犠牲の上にある」


「私は……」


「綺麗事を言うな!」レオナールの声が、突然大きくなった。それは、もう人間の声ではなかった。喉の奥から絞り出される、獣のような咆哮だった。「帝国そのものが、征服と搾取の上に成り立っている! お前たち貴族は、平民から税を搾り取り、その金で贅沢をしている! 俺がやったことと、何が違う! 答えろ! 何が違うんだ!」


 公爵は答えなかった。レオナールは立ち上がった。鎖が体を引き留める。だが、彼は構わず前に進もうとし、鎖が肉に食い込んで血が滲んだ。


「違いがあるとすれば、俺の方が効率的だったということだ!」その声は、もはや言葉ではなく、ただの叫びだった。「俺は無駄を省いた! 選別した! 計算した! 孤児、浮浪者、病人! 社会のゴミどもだ! あいつらを使って、有益な薬を作った! あいつらの死には意味があったんだ! 俺が意味を与えたんだ!」


 レオナールは壁を殴った。拳が血まみれになる。「俺は神になろうとした! 生と死を司る、絶対的な存在に! そして、俺は成功していた! あの餓鬼が現れるまでは! リオ・サーランめ! あの糞餓鬼! あのゴミが! 俺の完璧な世界を! 俺の美しい世界を!」


 レオナールは吠えた。それは、もう言葉にならない咆哮だった。唾が飛び散り、目は血走り、全身が震えている。公爵は、黙ってその様子を見ていた。やがて、レオナールの声が枯れた。喉が潰れたように、声が出なくなった。彼は床に崩れ落ちた。


 しばらく、沈黙が続いた。レオナールの荒い息遣いだけが、地下牢に響いていた。そして、彼は顔を上げた。その顔は、さっきまでとは別人のように見えた。目には、もう狂気の光はなかった。あるのは、ただの恐怖だった。


「……公爵」レオナールの声は、か細かった。まるで、子供のように。「頼む……」


 彼は床を這って、公爵の足元に近づいた。鎖が引っ張られ、首に食い込む。だが、構わず這い続けた。「頼むから……殺さないでくれ……」


 公爵は、一歩後ずさった。レオナールは、さらに這い寄った。「俺は……俺は何も悪いことしてない……」


 その声は、震えていた。「公爵、考えてみてくれ。あいつら、鉱山の餓鬼どもだ。どうせ野垂れ死にする運命だったんだ。だが、俺が使ってやった。価値を与えてやった。あいつらにとって、それは幸せだったんだ。死ぬ前に、何かの役に立てたんだから」


 レオナールは、公爵のズボンの裾を掴んだ。「疫病で死んだ村人どもも同じだ。どうせ、いつかは死ぬ。早いか遅いかの違いだけだ。それに、あいつらの死のおかげで、俺は特効薬を作れた。何百人も救った。差し引きすれば、俺は善人だ。そうだろう?」


 彼の目から、涙が溢れた。だが、それは悔恨の涙ではなかった。ただの、恐怖の涙だった。「公爵、あんたは賢い男だ。分かるだろう? 社会には、必要な犠牲がある。ゴミを掃除することで、社会は清潔になる。俺は、掃除屋だったんだ」


 レオナールは、公爵の足元まで這った。そして、その靴に顔を近づけた。「頼む……命だけは……俺は、まだやれる。あんたに協力できる。俺のネットワークを使えば、あんたの敵を消せる。あんたの領地に、上質な女を供給できる。若い娘だ。処女だ。いくらでも用意する」


 レオナールは、公爵の靴を舐めた。革の味が、舌に広がる。だが、構わず舐め続けた。「あんたの領地にも、邪魔者がいるだろう? 浮浪児、乞食、病人。俺が片付ける。綺麗に処分する。そして、その過程で利益を生む。薬の実験に使ってもいい。人身売買してもいい。あんたと山分けだ」


 公爵は、足を引いた。だが、レオナールはしがみついた。「待ってくれ! まだある! まだ提案がある! 皇帝だ! あの老いぼれを引きずり下ろせる! 俺には情報がある! あいつの醜聞を! 愛人のことを! 隠し子のことを! 全部知ってる! それを使えば、あんたが皇帝になれる! 俺が手伝う! だから!」


 レオナールの声は、もはや人間のものではなかった。喉が潰れ、かすれ、犬の鳴き声のようだった。「殺さないでくれ……お願いだ……死にたくない……痛いのは嫌だ……断頭台なんて……血が……首が……」


 彼は床に顔をこすりつけた。石の冷たさが、頬に染みる。「俺は、まだこの世界にいたい……美味い酒を飲みたい……柔らかいベッドで眠りたい……女を抱きたい……金を数えたい……権力を振るいたい……」


 レオナールは、自分の手を見た。震えている、汚れた手。「俺は、まだ何もかも手に入れてない……もっと欲しい……もっと……城も、領地も、金も、女も、全部……全部欲しいんだ……」


 彼は、公爵を見上げた。その目には、もう理性のかけらもなかった。あるのは、ただの獣の欲望だった。「頼む……命だけは……俺を生かしてくれ……何でもする……本当に、何でも……あんたの犬になる……靴を舐める……糞を食う……何でもする……だから……」


 公爵は、レオナールの手を振り払った。レオナールは床に倒れた。そして、床に顔をこすりつけながら、泣き続けた。「お願いだ……お願い……殺さないで……痛いのは嫌だ……怖い……怖いんだ……」


 その声は、もう言葉になっていなかった。ただの、動物的な鳴き声だった。公爵は、その姿を見下ろした。かつて帝国が称賛した美しい侯爵は、もうどこにもいなかった。そこにいるのは、ただの、惨めな男だった。


「レオナール・リリウス」公爵の声は、冷たかった。「お前の裁判は、明日だ」


「いやだ……いやだ……」レオナールは床を掴んだ。爪が割れ、血が滲む。「殺さないでくれ……お願いだ……何でもする……何でも……」


 公爵は、扉に向かって歩いた。レオナールは、その後を追おうとした。だが、鎖が彼を引き留めた。「待ってくれ! まだ話が! 俺は! 俺は美しいんだ! みんな、俺を愛していたんだ! 嘘じゃない! 本当なんだ!」


 扉が閉まった。レオナールは、一人残された。彼は床に突っ伏した。そして、声を限りに泣き叫んだ。だが、その声は誰にも届かなかった。ただ、地下牢の石壁に吸い込まれ、消えていくだけだった。



 その夜、リオは礼拝堂にいた。アントニウス神父と共に、祈りを捧げていた。祭壇の前で、二人は跪いている。蝋燭の光が、静かに揺れていた。


「神よ」アントニウスが祈る。「どうか、失われた魂に安らぎを」


 リオも、同じ言葉を繰り返した。祈りが終わると、二人は立ち上がった。


「リオ」アントニウスが声をかけた。「明日、裁判がある。お前も、証人として呼ばれている」


「はい、分かってます」リオは真っ直ぐアントニウスを見た。「俺は、もう逃げません。みんなのために、最後まで戦います」


 アントニウスは優しく微笑んだ。「お前は、強くなったな。いや、お前自身の強さだ」


 老神官は窓の外を見た。夜空に、星が輝いている。「明日、すべてが終わる。そして、新しい何かが始まる。お前は、その始まりを見届ける者の一人だ」


 リオは窓の外を見た。星が、美しかった。トビアスも、フィンも、みんな、あの星のどこかで見ているだろうか。「明日、ちゃんと話します。みんなのこと。あの男がやったこと。全部」


 星は何も答えない。ただ、静かに輝いているだけだった。だが、リオには、それが答えのように思えた。


(第18章 終)


――――――

# 白百合侯の帳簿(リリウス・レジャー)


## 第19章 崩落


 翌朝、広場には再び群衆が集まっていた。だが、四日前の祭典の時とは、空気がまるで違っていた。あの時の浮かれた雰囲気は消え、重く、冷たい沈黙が広場を支配していた。人々の顔には、怒りと悲しみと、そして何かを確かめたいという切実な思いが浮かんでいた。


 広場の中央には、仮設の法廷が設けられていた。高台には、エーベルハルト公爵を中心とした帝国の高官たちが座り、その前には証人席と被告席が設置されている。被告席には、木製の檻が置かれていた。まるで、獣を入れるかのような、頑丈な檻だった。


 鐘が鳴った。群衆が、一斉に声を潜めた。護衛たちが現れ、その中央に一人の男が引きずられてきた。レオナール・リリウスだった。彼はもはや、白百合侯の面影を残していなかった。髪は乱れ、髭は伸び放題で、服はぼろぼろに汚れている。手足には鎖が巻かれ、一歩進むたびに鎖が音を立てた。群衆は、その姿を見て息を呑んだ。かつて神のように崇拝していた男が、こんなにも惨めな姿になっているとは。


 レオナールは檻に押し込められた。彼は、ぼんやりとした目で群衆を見回した。そこには、かつて自分を愛していた人々がいた。だが、今その目に映るのは、冷たい憎悪だけだった。レオナールは、檻の格子に手をかけた。そして、小さく呟いた。「なぜ……」だが、その声は誰にも届かなかった。


 公爵が立ち上がった。「これより、レオナール・リリウスの裁判を開廷する」その声は、広場全体に響いた。「被告は、薬物密売、人身売買、殺人、疫病の意図的流布、その他諸々の罪で告発されている。まず、検察側の証拠を提示する」


 書記官が、分厚い帳簿を掲げた。あの黒い革表紙の帳簿だった。「これは、被告自身が記した帳簿である。ここには、被告の犯した全ての罪が、詳細に記録されている」公爵は、帳簿のいくつかのページを読み上げた。薬物の取引記録、人身売買の帳簿、疫病流布の計画書。一つ一つが読み上げられるたびに、群衆の怒りが高まっていった。


「次に、証人を呼ぶ」公爵が言った。「リオ・サーラン、前へ」


 リオは、群衆の中から歩み出た。彼は清潔な服を着ていたが、その痩せた体と傷だらけの手は、彼が経験してきた苦難を物語っていた。リオは、証人席に立った。そして、レオナールを見た。レオナールも、リオを見返した。二人の視線が、ぶつかった。


「リオ・サーラン」公爵が尋ねた。「お前は、被告の命令で鉱山に送られたのか?」


「はい」リオの声は、静かだったが、確かだった。「俺は、十歳の時に鉱山に送られました。そこで、俺は多くの子供たちと一緒に働きました」


「そこで、何があった?」


「薬物の実験です」リオは、言葉を続けた。「監督官が、定期的に子供たちに薬を注射しました。それは、治療薬ではありませんでした。実験用の薬でした」


「どうして、それが分かる?」


「友達が死んだからです」リオの声が、わずかに震えた。「トビアスという子がいました。十歳でした。薬を打たれた次の日、痙攣して、泡を吹いて、死にました。俺の腕の中で」


 群衆が、ざわめいた。リオは続けた。「フィンという子もいました。十四歳でした。薬に依存させられて、薬がないと何もできなくなりました。最後に会った時、フィンは言いました。『俺はもうダメだ。でも、お前は逃げろ』と」


 リオの目から、涙が一筋流れた。だが、彼は声を震わせなかった。「他にも、たくさんの子供たちが死にました。エリック、マーク、サラ、ジェイク。みんな、名前がありました。みんな、生きたかった。でも、この男が殺しました」


 リオは、レオナールを指差した。「この男は、俺たちを人間だと思っていませんでした。ただの道具でした。使い捨ての、実験用の、ゴミでした。でも、違います。俺たちは人間でした。生きる権利がありました」


 リオは、檻の前まで歩いた。そして、レオナールを真っ直ぐ見た。「あんたは、俺たちから全てを奪いました。命も、未来も、尊厳も。でも、一つだけ奪えなかったものがあります」


「何だ?」レオナールは、かすれた声で聞いた。


「真実です」リオは答えた。「俺は、真実を明らかにしました。あんたの嘘を、暴きました。それが、俺たちの勝利です」


 レオナールは、何も言えなかった。ただ、うつむいた。群衆は、リオの証言を聞いて、涙を流していた。公爵は頷いた。「証言、確かに聞いた。次の証人を呼ぶ」


 次々と、証人が呼ばれた。鉱山で働いていた子供たちの親。疫病で家族を失った村人。密売に関わらされた商人。セリーヌ・アイレの隣人。マルセル神父を知る聖職者たち。一人、また一人。彼らは、レオナールの罪を証言した。その証言は、積み重なり、動かぬ証拠となった。


 やがて、すべての証言が終わった。公爵は、レオナールを見た。「被告、何か言うことはあるか?」


 レオナールは、ゆっくりと顔を上げた。その目は、もう焦点が合っていなかった。彼は口を開いた。「俺は……」声が、かすれた。「俺は……正しかった……」


 群衆が、ざわめいた。レオナールは続けた。「この領地を、繁栄させた……民を、幸せにした……それは、事実だ……」


「だが、その代償として、何百人もの命を奪った」公爵が言った。「それも、事実だ」


「代償……」レオナールは、笑った。それは、もう笑いではなかった。ただの、空虚な音だった。「代償なしに、何も得られない……それが、世の理だ……」


「お前は、自分の行いを正当化するのか?」


「正当化?」レオナールは、公爵を見た。「いや……もう、どうでもいい……」


 彼は、檻の格子にもたれかかった。「俺は、負けた。それだけだ。勝者が正義で、敗者が悪だ。それが、この世界のルールだ」


 レオナールは、空を見上げた。青い空が、見える。「俺は、美しかった。完璧だった。神にも等しかった。だが……」彼は、自分の手を見た。「それも、終わりだ」


 公爵は、書類を手に取った。そして、宣言した。「レオナール・リリウス。帝国法に基づき、お前を死刑に処す。方法は、斬首。三日後の正午、この広場にて執行する」


 群衆から、歓声が上がった。だが、それは祝福の歓声ではなかった。怒りと、悲しみと、そして解放感が混ざった、複雑な叫びだった。レオナールは、その歓声を聞いていた。そして、小さく笑った。「三日か……あと三日……」彼は呟いた。「もう少し、この世界にいられる……」


 護衛たちが、檻を開けた。そして、レオナールを引きずり出した。レオナールは抵抗しなかった。ただ、群衆を見回した。かつて自分を愛した人々。今は、自分を憎む人々。その視線を、一つ一つ受け止めた。そして、引きずられていった。広場から、城へ。再び、地下牢へ。



 三日が過ぎた。その間、レオナールは一言も発しなかった。食事も、ほとんど口にしなかった。ただ、壁を見つめているだけだった。護衛たちは、彼が自害するのではないかと警戒したが、レオナールはそのような素振りも見せなかった。ただ、座っているだけだった。まるで、すでに死んでいるかのように。


 三日目の朝、護衛たちが地下牢に来た。「時間だ」一人が言った。レオナールは、ゆっくりと立ち上がった。足が、ふらついた。だが、倒れなかった。護衛たちは、レオナールに新しい服を着せた。白い、シンプルな服だった。処刑される者が着る服だった。レオナールは、その服を見て、小さく笑った。「白か……俺にふさわしい色だ……」


 地下牢を出ると、朝の光が目を刺した。レオナールは、目を細めた。久しぶりに見る、太陽の光だった。温かかった。彼は、深く息を吸った。空気が、肺を満たす。生きている、という実感があった。だが、それも、あと少しだけだった。


 広場に着くと、群衆が待っていた。祭典の時と同じくらい、いや、それ以上の人々が集まっていた。広場の中央には、処刑台が設置されていた。木製の台に、大きな斧が置かれている。陽光を受けて、その刃が鈍く光っていた。レオナールは、それを見た。そして、足を止めた。


「歩け」護衛が、背中を押した。レオナールは、一歩を踏み出した。そして、もう一歩。処刑台へ向かって、ゆっくりと歩いた。群衆は、その姿を黙って見ていた。罵声を浴びせる者もいなかった。ただ、冷たい視線を送るだけだった。


 レオナールは、処刑台に上がった。木の階段が、足音を立てる。一段、また一段。やがて、処刑台の上に立った。そこから見る景色は、いつもと違って見えた。群衆の顔が、よく見える。一人一人の表情が、はっきりと見える。怒り、悲しみ、憎悪、そして期待。彼らは、レオナールの死を待っていた。


 執行人が、レオナールに近づいた。大柄な男で、顔に布を巻いている。「跪け」男は言った。レオナールは、従った。膝をつき、首を台に乗せる。木の冷たさが、首に触れた。レオナールは、目を閉じた。そして、これまでの人生を思い返した。


 幼い頃、母に抱かれたこと。父に褒められたこと。兄姉と遊んだこと。だが、それらはすぐに、別の記憶に塗り替えられた。母を毒殺したこと。父を階段から突き落としたこと。兄を狩猟事故に見せかけて殺したこと。姉を枕で窒息させたこと。そして、その後の数え切れない罪。薬物、人身売買、疫病、実験。すべてが、走馬灯のように浮かんでは消えた。


 レオナールは、目を開けた。地面が、見える。石畳の、冷たい地面。その向こうに、群衆の足が見える。無数の足。それらは、すべて自分の死を待っている。レオナールは、口元に笑みを浮かべた。最後まで、俺は主役だ。最後まで、注目の的だ。それだけで、いい。


 執行人が、斧を持ち上げた。群衆が、息を呑んだ。静寂が、広場を包んだ。レオナールは、その静寂の中で、最後の言葉を呟いた。「俺は……美しかった……」それは、誰にも聞こえなかった。ただ、風に消えた。


 斧が、振り下ろされた。鈍い音が響いた。レオナールの首が、台から転がり落ちた。血が、石畳に広がっていく。深紅の血が、白い服を染めていく。群衆は、その光景を見ていた。誰も、歓声を上げなかった。ただ、沈黙していた。


 やがて、誰かが呟いた。「終わった……」その言葉が、波紋のように広がった。「終わったんだ……」人々は、互いに顔を見合わせた。そして、静かに広場を去り始めた。祭典の時のような華やかさはなかった。ただ、重い足取りで、家路についた。


 処刑台には、レオナールの遺体が残された。護衛たちが、それを片付け始めた。首と体を布で包み、荷車に乗せる。まるで、ゴミを処分するかのように。レオナール・リリウスは、こうして世界から消えた。かつて白百合侯と呼ばれた男は、もう誰の記憶にも美しくは残らなかった。ただ、醜悪な悪党として、語り継がれることになった。



 その日の夕方、リオは丘の上に立っていた。そこからは、城と広場が見渡せる。処刑台は、もう片付けられていた。血も、洗い流されていた。まるで、何も起こらなかったかのように。


 アントニウス神父が、リオの隣に立った。「終わったな」老神官は言った。


「はい」リオは頷いた。「終わりました」


「お前は、どう思う?」


「……分からないです」リオは正直に答えた。「あの男が死んで、嬉しいはずなのに。でも、嬉しくない。ただ、空っぽな感じがします」


「それが、正常だ」アントニウスは言った。「復讐は、心を満たさない。ただ、区切りをつけるだけだ」


 老神官は、空を見上げた。夕日が、地平線に沈もうとしている。「だが、これで前に進める。お前も、この領地も」


「前に……」リオは、その言葉を繰り返した。「どこへ?」


「それは、お前が決めることだ」アントニウスは、リオの肩に手を置いた。「お前は、もう自由だ。どこへ行ってもいい。何をしてもいい」


 リオは、城下町を見た。人々が、家路についている。明日も、彼らは働くだろう。畑を耕し、店を開き、生きていく。嘘のない、ただの日常を。


「俺は……」リオは呟いた。「ここにいます。この領地で、生きていきます」


「なぜだ?」


「みんなが、ここにいるから」リオは答えた。「トビアスも、フィンも、みんな、この土地に眠ってる。俺が、忘れちゃいけない。俺が、伝えていかなきゃいけない」


 アントニウスは、優しく微笑んだ。「そうか。ならば、私も手伝おう」


「本当ですか?」


「ああ。お前一人では、荷が重い。一緒に、この領地を立て直そう。嘘のない、本当の繁栄を」


 リオは、初めて笑顔を見せた。涙が、頬を伝った。だが、それは悲しみの涙ではなかった。希望の涙だった。二人は、夕日を見つめた。太陽が、ゆっくりと沈んでいく。そして、夜が訪れる。だが、その夜の後には、必ず朝が来る。新しい朝が。


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