第19話 白百合のない朝

 処刑から一週間が過ぎた。

 城は廃墟と化していた。帝国の調査が終わり、価値のあるものはすべて運び出された後、残ったのは骨だけだった。窓ガラスは割れ、扉は外され、壁には調査の際につけられた無数の傷跡が残っている。かつて豪華な絨毯が敷かれていた廊下には、埃と瓦礫が散乱していた。天井から雨漏りがし、床には水たまりができている。壁に残った肖像画の跡が、四角い染みとなって不気味に浮かび上がっていた。

 地下室の扉は開け放たれたまま放置され、そこからは腐臭が漂ってくる。実験道具の残骸と、洗い流しきれなかった血の跡。誰も近づこうとしなかった。城全体が、巨大な墓標のように、ただそこに立っているだけだった。

 やがて取り壊されることが決まっていたが、今はまだ、醜く、陰鬱に、かつての罪を晒し続けていた。

 レオナールの遺体は、領地の墓地には埋葬されなかった。罪人として、城の裏手にある荒れ地に、標識もなく埋められた。土の中に、木箱に入れられて。誰も花を手向けなかった。誰も祈りを捧げなかった。ただ、土をかけて、終わりだった。

 だが、一人だけ、その墓を訪れる者がいた。

 リオは、朝早く荒れ地を訪れた。霧が立ち込め、足元がよく見えない。草が生い茂り、石ころが転がっている。その中に、盛られたばかりの土がある。それが、レオナールの墓だった。

 なぜ来たのか、自分でもよく分からなかった。ただ、胸の奥に引っかかる何かがあった。復讐は果たした。あの男は死んだ。それなのに、心は晴れなかった。むしろ、もやもやとした後味の悪さが、喉に引っかかった骨のように残り続けていた。

 もしかしたら、この墓を見れば何か変わるかもしれない。そう思って、足を運んだ。

 リオは、墓の前に立った。手には、一輪の白百合を持っていた。城の庭から、摘んできたものだった。かつて、レオナールが愛した花。彼の象徴だった花。

 だが、墓を見ても、何も変わらなかった。

 リオは膝をつき、花を土の上に置いた。白百合が、土の上で白く光る。その瞬間、記憶が蘇った。

 トビアスの顔。痙攣しながら、泡を吹きながら死んでいった顔。

 フィンの顔。薬に溺れ、人間の形を失っていった顔。

 エリックの、マークの、サラの、ジェイクの。名前も知らない子供たちの、無数の顔。

 胸が、きりきりと痛んだ。吐き気がした。拳を握りしめた。

「……畜生」リオは呟いた。「何も変わらない」

 あの男は死んだ。裁かれた。首を刎ねられた。それでも、死んだ者たちは帰ってこない。トビアスは笑わない。フィンは走らない。みんな、土の中だ。

 そして、この墓の下にいる男も、土の中だ。

「これでよかったんだ」リオは、自分に言い聞かせるように呟いた。「あいつは死んだ。もう誰も苦しめられない。これでよかったんだ」

 だが、その言葉は空虚だった。心には届かなかった。

 リオは立ち上がった。もう一度、墓を見た。ただの土の盛り。何の意味もない。

「……さよなら」

 それだけ言って、リオは踵を返した。後ろを振り返らなかった。ただ、足早にその場を去った。胸の中の後味の悪さは、消えなかった。おそらく、ずっと消えないだろう。それを抱えて生きていくしかないのだと、リオは理解していた。

 墓には、白百合だけが残された。朝日が昇り始め、光が花びらを照らした。だが、その光は優しくなかった。容赦なく、花を焼いた。

 花びらは、みるみるうちに色を失い始めた。白から、黄色く、茶色く、そして黒ずんでいく。陽が高くなるにつれ、花は萎れ、縮み、醜く変形していった。夕方には、完全に腐り果てていた。黒く、どろどろに溶け、虫が群がっていた。

 まるで、レオナール・リリウスという男の本質そのもののように。

 その日の昼、リオはアントニウス神父と共に、城下町を歩いていた。市場は、いつも通りの活気を取り戻しつつあった。商人が声を張り上げ、客が品物を吟味し、子供たちが走り回っている。

「活気が戻ってきたな」アントニウスが言った。

「はい」リオは頷いた。

 人々の表情には、まだ影が残っていた。だが、それでも、人々は生きている。畑を耕し、店を開き、笑い、泣き、怒り、生きている。

 リオたちは、広場に着いた。処刑台があった場所は、もう更地になっていた。血の染みも、すっかり洗い流されている。ただの、石畳だった。

「ここに、何を建てるか、帝国が検討しているそうだ」アントニウスが言った。

「……何もない方がいいです」リオは答えた。「ただの広場でいい」

 アントニウスは微笑んだ。「そうだな」

 二人は、広場のベンチに座った。人々が、行き交っている。ある者は買い物袋を持ち、ある者は子供を連れている。日常が、そこにあった。

「リオ」アントニウスが口を開いた。「お前は、これからどうする?」

 リオは答えなかった。ただ、空を見上げた。

 どうするのか。何をするのか。まだ分からなかった。ただ、ここで生きていく。それだけは決めていた。

 アントニウスは、それ以上何も聞かなかった。ただ、リオの隣に座り、同じ空を見上げていた。

 夕方、リオは一人で丘に登った。城と町が見渡せる、あの丘だ。草の上に座り、景色を眺めた。

 城の廃墟が、夕日に照らされていた。黒々とした影が、地面に長く伸びている。不気味な、巨大な骸骨のようだった。

 だが、その向こうに、町がある。城下町からは、炊事の煙が上がっている。夕餉の支度だ。どこかから、子供の笑い声が聞こえる。犬が吠えている。鐘が鳴っている。生活の音だった。

 リオは、懐から一枚の紙を取り出した。ボロボロになった紙。それは、トビアスが死ぬ前に描いた絵だった。下手くそな、でも温かい絵。家と、木と、太陽と、笑顔の子供たち。

 リオは、絵を胸に抱いた。涙が、頬を伝った。

 風が吹いた。温かい、春の風だった。草が揺れ、花が揺れ、リオの髪が揺れた。

 夕日が、地平線に沈もうとしている。オレンジ色の光が、世界を染めていく。城の廃墟も、町も、丘も、すべてが夕日の色に染まっている。

 リオは立ち上がった。丘を下り始めた。町へ向かって、一歩一歩。その背中に、夕日が長い影を落とした。

 道端には、名もない花が咲いていた。黄色い花、紫の花、白い花。風に揺れながら、ただそこに咲いている。誰のためでもなく、ただ咲いている。

 リオは、その花の一つを摘んだ。小さな、黄色い花だった。そっと匂いを嗅ぐ。優しい、甘い香りがした。

 彼は、その花を胸ポケットに挿した。そして、また歩き出した。

 その夜、エーベルハルト公爵は執務室で報告書を読んでいた。ルクレティア公領の再建計画についての報告だった。新しい領主を任命し、行政を立て直し、違法な取引を根絶する。膨大な作業が、必要だった。

 部下が入ってきた。「公爵閣下、ジュリアン・ヴェルトの行方について」

「見つかったか?」

「いえ。ですが、目撃情報がありました。国境近くの村で、彼に似た男が馬を買ったと」

「追え」公爵は命じた。「あの男も、裁かねばならん」

 部下は頭を下げ、退出した。公爵は、窓の外を見た。夜空に、星が輝いている。

 公爵は、机の上の書類を手に取った。それは、レオナールの最後の言葉を記録したものだった。執行人が聞いた、最後の呟き。

 『俺は……美しかった……』

 公爵は、その言葉を読み、ため息をついた。最後の最後まで、あの男は自分の美しさにしがみついていた。

「美にのみ固執した化物だった」公爵は呟いた。「それが、あの男の全てだった」

 彼は書類を引き出しにしまった。そして、次の仕事に取りかかった。まだ、やるべきことは山ほどあった。

 それから一年が経った。

 ルクレティア公領は、新しい領主のもとで、ゆっくりと再建されていった。違法な取引は根絶され、薬物も流通しなくなった。鉱山は閉鎖され、子供たちは学校に通うようになった。

 繁栄は、以前ほど華やかではなくなった。だが、それは本物だった。

 リオは、礼拝堂で働いていた。孤児たちの世話をし、時には町の人々の手伝いをした。まだ若く、まだ未熟だったが、人々は彼を受け入れ始めていた。

 ある日、リオは城の跡地を訪れた。城は取り壊され、今は公園になっていた。木が植えられ、ベンチが置かれ、子供たちが遊んでいた。

 リオは、かつて城があった場所に立った。もう、何の痕跡もなかった。ただ、草と木と花があるだけだった。

 子供たちが、笑いながら走り回っている。鬼ごっこをしている。その笑顔は、屈託がなかった。

 リオは、その光景を見て、小さく微笑んだ。

 彼は踵を返し、町へ向かって歩き出した。その背中に、春の陽光が降り注いでいた。温かく、優しい光だった。

 ルクレティア公領には、もう白百合は咲かなかった。だが、他の花が咲き始めていた。名もない野の花が、道端に、畑の脇に、公園に。色とりどりの花が、風に揺れていた。

 レオナール・リリウスの墓には、誰も訪れなくなった。荒れ地の草が伸び、土の盛りも崩れ、やがてどこが墓なのか分からなくなった。白百合は、もう跡形もなく消えていた。黒く腐り果て、土に還り、何も残さなかった。

 だが、それでよかった。

 白百合のない朝は、静かに明けた。

 そして、新しい一日が始まった。

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白百合侯の帳簿(リリウス・レジャー) @kossori_013

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