第17話 暴露(後編)
護衛に両腕を掴まれたレオナールは、深く息を吸った。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。まだ、終わっていない。公爵は疑っている。だが、確信はしていない。まだ、逆転の可能性はある。
レオナールは顔を上げた。額の汗を袖で拭う。そして、できる限り落ち着いた声で言った。
「公爵、護衛を下がらせてください」
エーベルハルト公爵は、わずかに眉を上げた。
「下がらせる?」
「はい。私は、逃げも隠れもしません」
レオナールは、護衛たちを見た。
「ただ、このような形で拘束されては、民の前で正当な弁明ができません」
公爵は、しばらくレオナールを見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……よかろう。護衛、一歩下がれ」
護衛たちは、レオナールから手を離した。
レオナールは、外套の襟を正した。乱れた髪を撫でつける。深呼吸をする。
群衆は、その様子を固唾を呑んで見守っていた。
レオナールは、公爵の方を向いた。
「公爵。この帳簿について、私なりの説明をさせていただきたい」
「聞こう」
「まず、この帳簿が私の筆跡であることは認めます」
群衆がざわめいた。
レオナールは、それを制するように手を上げた。
「ですが、これは実際の記録ではありません」
「では、何だ?」
「思考実験です」
レオナールは、帳簿を指差した。
「為政者として、私は常に最悪の事態を想定しなければなりません。もし疫病が流行したら。もし飢饉が起きたら。もし戦争が始まったら」
彼の声には、説得力があった。
「この帳簿は、そうした様々な仮定における、私の思考の記録です」
「思考実験、か」
公爵は、帳簿のページをめくった。
「では、ここに書かれた『実行完了』という言葉は?」
「それは……」
レオナールは、一瞬言葉に詰まった。
だが、すぐに答えた。
「仮定の中での話です。『もしこれを実行したら、こうなるだろう』という予測を、あたかも実行したかのように書いた」
「なぜ、そのような書き方を?」
「リアリティを持たせるためです」
レオナールは、まっすぐ公爵を見た。
「曖昧な想定では、有事の際に役に立ちません。だから、できる限り具体的に、まるで本当に起きたかのように書いたのです」
公爵は、黙っていた。
表情からは、何を考えているのか読み取れない。
レオナールは、続けた。
「そして、東の村で実際に疫病が発生した時、私はこの『思考実験』のおかげで、迅速に対応できました」
彼は、群衆を見回した。
「結果として、多くの命が救われた。それは、事実です」
群衆の中から、声が上がった。
「確かに……侯爵様は、すぐに特効薬を持ってきてくださった……」
「私の家族も、救われた……」
わずかだが、レオナールに同情的な空気が生まれ始めた。
リオは、それを感じて焦った。
「違う! それは嘘だ!」
少年は叫んだ。
「帳簿には、もっと詳しく書いてある! 薬物で村人の免疫を下げて、それから病原体を……」
「少年」
レオナールは、リオを見た。
その目には、哀れみが浮かんでいた。
「君は、鉱山での過酷な労働で、心を病んでしまった。それは、誰の目にも明らかです」
「俺は病んでない!」
「病んでいる者は、自分が病んでいることに気づかないものです」
レオナールの声は、優しかった。
「君は、苦しみのあまり、私を悪者にしたいのでしょう。そうすれば、自分の苦しみに意味が生まれる。復讐の対象ができる」
彼は、ゆっくりとリオに近づいた。
「ですが、それは間違っています。君の友人たちが亡くなったのは、事故です。不幸な、痛ましい事故です」
「事故じゃない! 実験だ! あんたが命令したんだ!」
「私が命令した? 証拠は?」
レオナールは、静かに問いかけた。
「その帳簿以外に、何か証拠がありますか?」
リオは、言葉に詰まった。
レオナールは、群衆を見回した。
「皆さん。私を告発する証拠は、この帳簿だけです。そして、私はこれが思考実験だと説明しました」
彼は、胸に手を当てた。
「他に、私が犯罪を犯したという証拠はありますか? 目撃者は? 共犯者は?」
誰も、答えなかった。
レオナールは、さらに続けた。
「考えてみてください。もし私が本当にそのような悪事を働いていたなら、なぜこの領地はこれほど繁栄しているのでしょう?」
「それは……」
「悪事で得た金など、すぐに底をつきます。ですが、この領地の繁栄は五年も続いている」
レオナールの声に、力が戻ってきた。
「これは、正当な統治の結果です。民を思い、神に祈り、正しく行動してきた結果なのです」
群衆は、揺れ始めていた。
レオナールの言葉は、もっともらしく聞こえた。
そして、人々は信じたかった。
自分たちが崇拝してきた侯爵が、本当は善人だったと。
自分たちが騙されていたわけではないと。
エーベルハルト公爵は、その様子を黙って見ていた。
そして、帳簿の別のページを開いた。
「侯爵」
「はい」
「ここには、取引相手の名前が列挙されている」
公爵は、そのページをレオナールに見せた。
「カルヴィン商会、ドミトリー船団、そして……」
公爵の指が、ある名前で止まった。
「クラウス・ハインツ男爵」
レオナールの顔が、わずかに強張った。
「これも、思考実験か?」
「……はい」
「では、確認しよう」
公爵は、護衛の一人に命じた。
「クラウス男爵を呼べ。彼は、使節団の一員としてこの祭典に参加しているはずだ」
レオナールの額に、冷や汗が浮かんだ。
「公爵、それは……」
「何か、問題でも?」
「いえ……」
しばらくして、一人の中年男性が高台に上がってきた。
太った体躯に、赤ら顔。クラウス・ハインツ男爵だった。
「公爵閣下、お呼びでしょうか」
「ああ。一つ、尋ねたいことがある」
公爵は、帳簿を示した。
「あなたは、レオナール侯爵と薬物取引をしたことがあるか?」
男爵の顔が、蒼白になった。
「それは……」
彼は、レオナールを見た。
レオナールは、わずかに首を横に振った。
だが、男爵は目を逸らした。
「……あります」
広場が、どよめいた。
レオナールは、男爵を睨みつけた。
「クラウス、何を言っている……」
「申し訳ありません、レオナール侯」
男爵は、頭を下げた。
「ですが、もう隠し通せません」
彼は、公爵の方を向いた。
「私は、レオナール侯爵から違法薬物を購入しました。三年前から、定期的に」
「クラウス!」
レオナールの声が、鋭くなった。
「お前、何を……」
「そして、その薬を自領で販売していました」
男爵は、震える声で続けた。
「侯爵は、私に大きな利益を約束してくれました。だから、私は従いました」
公爵は、レオナールを見た。
「まだ、思考実験だと主張するか?」
レオナールは、口を開いた。
だが、言葉が出なかった。
公爵は、別の護衛に命じた。
「他の取引相手も呼べ。帳簿に名前がある者、全員だ」
「待て!」
レオナールは叫んだ。
その声は、初めて焦りを帯びていた。
「待ってくれ! それは……」
だが、もう遅かった。
次々と、人々が高台に上がってきた。
商人。貴族。そして、レオナールの部下たち。
一人、また一人。
彼らは公爵に促され、証言を始めた。
「私は、侯爵から密輸品を受け取りました……」
「私は、侯爵の命令で、隣領の子供たちを攫いました……」
「私は、鉱山で薬物実験の補助をしました……」
証言が、積み重なっていく。
一つ一つは小さな罪かもしれない。
だが、それらが集まれば、巨大な悪となる。
そして、その中心にいたのが、レオナール・リリウスだった。
群衆は、呆然としてその証言を聞いていた。
もう、疑いの余地はなかった。
すべてが、真実だった。
レオナールは、後ずさった。
顔は蒼白で、唇が震えている。
「これは……罠だ……」
その声は、かすれていた。
「お前たち、買収されたのか? 誰に? 誰が、お前たちに……」
だが、誰も答えなかった。
彼らは、ただ黙って床を見つめているだけだった。
公爵は、帳簿を閉じた。
「レオナール・リリウス」
その声は、冷たく、重かった。
「お前の罪は、明白だ」
「……っ」
「薬物密売、人身売買、疫病の意図的流布、人体実験、そして数え切れないほどの殺人」
公爵は、一歩レオナールに近づいた。
「お前を、反逆罪および殺人罪で告発する」
レオナールの膝が、がくりと折れた。
だが、彼はまだ立っていた。
両手を地面につき、必死に体を支えている。
「そんな……そんなはずは……」
その声は、もう優雅ではなかった。
「俺は……俺は完璧だったのに……」
レオナールは、顔を上げた。
化粧は汗で滲み、白粉が筋を作っている。その下から、皺だらけの顔が露わになっていた。
「なぜ……なぜ、こんなことに……」
公爵は、護衛に命じた。
「この男を拘束しろ」
護衛たちが、レオナールに近づいた。
「待て……待ってくれ……」
レオナールは、這いながら後ずさった。
「頼む……話を聞いてくれ……」
その姿は、もう侯爵ではなかった。
ただの、追い詰められた男だった。
「俺は……俺はただ……」
言葉が続かない。
護衛たちが、レオナールの両腕を掴んだ。
「やめろ! 離せ!」
レオナールは暴れた。
だが、護衛たちの力には敵わなかった。
「お前ら! 俺が誰だか分かってるのか! 俺は侯爵だぞ!」
その声は、裏返っていた。
もう、抑制は効かなかった。
「離せと言っている! この下郎どもが!」
群衆は、その様子を見ていた。
そこにいたのは、かつて崇拝した聖人ではなかった。
醜く、卑しく、哀れな男だった。
レオナールは、群衆を見回した。
「みんな! 助けてくれ! 俺は、お前たちを愛してる! 本当に……」
だが、誰も動かなかった。
ただ、冷たい視線を送るだけだった。
レオナールは、その視線に耐えられなかった。
彼の目から、涙が溢れた。
そして、股間が温かくなった。
尿だった。
白いズボンに、暗い染みが広がっていく。
群衆の何人かが、それに気づいた。
小さなざわめき。
そして、広がる軽蔑の視線。
レオナールは、顔を真っ赤にした。
「これは……違う……」
だが、もう言い訳は無意味だった。
すべてが、剥がれ落ちていた。
美しい外見も。
優雅な言葉も。
慈悲深い行いも。
すべてが、仮面だった。
護衛たちは、レオナールを引きずり始めた。
「やめろ……やめてくれ……頼む……」
レオナールは、地面に爪を立てた。
石畳が、爪を削る。
血が滲む。
だが、引きずられていく。
「俺は……俺は……美しかったのに……」
その声は、誰にも届かなかった。
やがて、レオナールの姿が、闇に消えた。
広場には、深い静寂が残った。
*
リオは、高台に立ったまま、動けなかった。
体が震えている。
手が震えている。
全身から、力が抜けていくのを感じた。
終わった。
本当に、終わった。
リオは、膝から崩れ落ちた。
石畳が、冷たい。
その冷たさが、現実を教えてくれる。
これは、夢じゃない。
本当に、終わったんだ。
リオの目から、涙が溢れてきた。
止められなかった。
次から次へと、溢れてくる。
視界が、滲む。
リオは、トビアスのことを思い出していた。
あの日、坑道で出会った時のことを。
トビアスは、小さな体で懸命にツルハシを振るっていた。だが、すぐに疲れて座り込んでしまう。
「大丈夫か?」
リオが声をかけると、トビアスは泣きそうな顔で頷いた。
「うん……大丈夫……」
だが、明らかに大丈夫ではなかった。
リオは、自分の食事を半分、トビアスに分けた。固いパンと、薄いスープ。それだけだったが、トビアスは嬉しそうに食べた。
「ありがとう、リオ」
トビアスは笑った。
あどけない、子供らしい笑顔だった。
それが、最後の笑顔になるとは思わなかった。
数日後、トビアスは薬を打たれた。
そして、痙攣し、泡を吹き、死んだ。
リオの腕の中で。
あの時、トビアスは何か言おうとしていた。
だが、声にならなかった。
ただ、リオの手を握りしめていた。
小さな、冷たくなっていく手で。
リオは、フィンのことも思い出していた。
フィンは、いつも他の子供たちを守ってくれた。
監督官が理不尽な命令をした時、フィンが盾になってくれた。
食事が足りない時、フィンが自分の分を分けてくれた。
寒い夜、フィンが毛布を貸してくれた。
「お前は、まだ小さいからな」
フィンは、そう言って笑った。
「俺が、守ってやる」
だが、フィンは薬に溺れた。
薬が切れると、体が震え、汗が噴き出し、何も考えられなくなる。
ただ、次の薬を求めるだけになった。
最後にフィンと話した時、彼は言った。
「リオ、お前は逃げろ。ここから出ろ」
その目には、まだ僅かな光があった。
「俺は、もうダメだ。でも、お前は違う。お前には、まだ未来がある」
そして、フィンはリオを押した。
「行け。そして、生きろ」
それが、最後の言葉だった。
リオは、他の子供たちのことも思い出していた。
エリック。マーク。サラ。ジェイク。
みんな、名前があった。
みんな、家族がいた。
みんな、夢があった。
だが、みんな死んだ。
薬で。
実験で。
レオナールの欲望のために。
「……みんな」
リオは呟いた。
「見てるか?」
空を見上げる。
星が、無数に輝いている。
「終わったよ。あの男は……もう、終わった」
星は、何も答えない。
ただ、静かに瞬いているだけだ。
だが、リオには、それで十分だった。
風が吹いた。
冷たい、夜の風。
その風が、リオの涙を乾かしていく。
痛いほど冷たい風だった。
だが、リオは、その冷たさを受け入れた。
これが、現実だから。
美しい嘘ではない、冷たいけれど確かな現実だから。
アントニウス神父が、リオの隣に座った。
「リオ」
「……神父様」
「よくやった」
老神官は、リオの背中をそっと撫でた。
「お前は、勇敢だった。そして、正しかった」
「でも……みんなは、もう……」
「ああ」
アントニウスは頷いた。
「失われた命は、戻らない」
老神官は、空を見上げた。
「だが、お前は彼らの死を無駄にはしなかった。お前は、真実を明らかにした」
アントニウスは、広場を見渡した。
群衆は、まだ呆然としている。
だが、その目には、何かが芽生え始めていた。
疑問。
怒り。
そして、変化への意志。
「彼らは、これから変わっていくだろう」
アントニウスは言った。
「もう二度と、盲目的に誰かを崇拝することはない。もう二度と、美しい嘘に騙されることはない」
老神官は、リオの頭に手を置いた。
「それが、お前の成し遂げたことだ」
リオは、涙を拭った。
まだ震えていたが、少しずつ落ち着いてきた。
深呼吸をする。
冷たい空気が、肺を満たす。
リオは、立ち上がった。
足は、まだ頼りない。
だが、立てた。
広場を見下ろす。
蝋燭の多くは消えていた。
祭典の華やかさは、もうどこにもない。
だが、人々は、互いに支え合っていた。
泣いている者を慰め、怒っている者を落ち着かせ、呆然としている者に寄り添う。
それは、美しくはなかった。
混沌としていて、悲しくて、痛々しかった。
だが、それは本物だった。
リオは、それを見て、小さく微笑んだ。
終わった。
そして、始まった。
新しい何かが。
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