第16話 暴露(前編)


 花火の最後の一発が夜空で弾けた。


 赤、青、金の光が闇を切り裂き、無数の火花となって降り注ぐ。一瞬、広場全体が昼のように明るくなり、人々の歓喜に満ちた顔が浮かび上がった。


 そして、光は消えた。


 闇が戻る。だが、広場に灯された千本の蝋燭が、再び柔らかな光を取り戻していく。


 群衆は拍手と歓声で沸き返っていた。


「素晴らしい!」


「これほどの祭典は見たことがない!」


 老人も子供も、貴族も平民も、皆が同じように興奮していた。祭典は大成功だった。誰もがそう信じて疑わなかった。


 高台では、レオナール・リリウスが両手を広げて民衆に応えていた。純白の外套が夜風に揺れ、蝋燭の光を受けて黄金色に輝いている。その姿は、まるで天使のようだった。


「ありがとう! 皆さん、ありがとう!」


 彼の声は、広場の隅々まで届いた。


 群衆は、また歓声を上げた。


「侯爵様万歳!」


「白百合侯万歳!」


「帝国の光万歳!」


 レオナールは、その歓声を全身で浴びていた。目を閉じ、深く息を吸い込む。この瞬間こそが、彼の求めていたものだった。


 絶対的な賛美。


 無条件の崇拝。


 完璧な支配。


 すべてが、彼の思い通りだった。


 隣では、エーベルハルト公爵が満足そうに頷いていた。


「見事な祭典でした、侯爵」


 公爵は、グラスを掲げた。


「これほど民と為政者が一つになっている光景を、私は他に知りません」


「恐れ多いお言葉です」


 レオナールは、謙虚に頭を下げた。


「すべては、民の協力があってこそです」


「その謙虚さもまた、美徳だ」


 公爵は、レオナールの肩を叩いた。


「明日、私は帝都へ戻ります。そして皇帝陛下に、今夜のことをすべて報告いたしましょう」


「光栄です」


 レオナールは、内心で笑みを浮かべた。


 完璧だ。


 公爵は完全に信じている。帝都に戻れば、自分の名声は更に高まるだろう。そして、より多くの権力と富が手に入る。


 すべてが、計画通りだった。


「さあ、最後の演説をなさい」


 公爵が促した。


「民は、あなたの言葉を待っている」


「はい」


 レオナールは、広場の中央へ歩み出た。


 群衆は、彼の姿を見て静まり返った。


 誰もが、侯爵の言葉を待っている。


 レオナールは、ゆっくりと口を開いた。


「皆さん」


 その声は、夜の空気に溶け込むように響いた。


「今夜、私たちは共に、素晴らしい時間を過ごしました」


 群衆が頷く。


「これは、私一人の力ではありません。皆さん一人一人の、心が作り上げた奇跡です」


 レオナールは、両手を広げた。


「私は、この領地の民であることを、誇りに思います」


 歓声が上がった。


「そして、これからも、皆さんと共に歩んでいきたい」


 レオナールは、拳を胸に当てた。


「この心に誓って」


 群衆は、感動のあまり涙を流していた。


「侯爵様……」


「なんという方だ……」


 レオナールは、満足そうに微笑んだ。


 これで、終わりだ。


 完璧な幕引きだった。


 だが、その時。


 広場の端で、動きがあった。


 最初は、わずかなざわめきだった。


 だが、それは徐々に大きくなっていく。


「何だ?」


「誰か揉めてる?」


 群衆の注意が、そちらに向き始めた。


 レオナールは、眉をひそめた。


 護衛の一人が、慌てて階段を駆け上がってきた。


「侯爵様!」


 その顔は、蒼白だった。


「少年が一人、高台に上がろうとしています! 護衛が止めていますが……」


「少年?」


 レオナールの心臓が、嫌な予感を告げた。


「どんな少年だ?」


「年の頃は十二、三。痩せていて、服はぼろぼろで……」


 レオナールの顔色が変わった。


 まさか。


 いや、あり得ない。


 あの少年は、鉱山にいるはずだ。


 脱走したとは聞いていたが、まさかここに来るとは……。


「止めろ」


 レオナールは、低い声で言った。


「何としても、止めろ」


「はい!」


 護衛は駆け戻っていった。


 だが、もう遅かった。


 群衆の列が、大きく割れた。


 そして、そこから一人の少年が姿を現した。


 黒い髪。痩せた体。ぼろぼろの服。だが、その目には強い光が宿っていた。


 リオ・サーランだった。


 レオナールは、息を呑んだ。


 リオは、広場の中央に立っていた。


 そして、高く何かを掲げた。


 黒い革表紙の、分厚い帳簿だった。


 レオナールの血の気が引いた。


 あれは……。


 いや、そんなはずはない。


 あの帳簿は、書斎の奥深くに隠してあるはずだ。


 厳重に鍵をかけた引き出しの中に。


 だが、リオが掲げているのは、確かにあの帳簿だった。


「皆さん!」


 リオの声が、広場に響いた。


「聞いてください! これは、レオナール侯爵の帳簿です!」


 群衆が、ざわめいた。


「帳簿?」


「何の?」


「彼の罪が、すべてここに記されています!」


 リオは、帳簿を高く掲げた。


 蝋燭の光が、その黒い表紙を照らしている。


 レオナールは、階段を駆け下りた。


「止めろ! その少年を止めろ!」


 護衛たちが、リオに殺到した。


 だが、群衆が邪魔をした。


「待て!」


「話を聞かせろ!」


 人々は、リオを守るように立ちはだかった。


 護衛たちは、群衆を押しのけることができなかった。


 リオは、帳簿を開いた。


 そして、読み上げ始めた。


「薬物密売、北ルート」


 その声は、震えていた。


 だが、確かに響いた。


「月間収益、四千金貨」


 群衆が、息を呑んだ。


「人身売買、南ルート」


 リオは、次のページをめくった。


「月間収益、三千金貨」


「密輸、東ルート」


「月間収益、二千五百金貨」


 数字が、一つずつ読み上げられていく。


 群衆は、信じられないという顔で聞いていた。


「嘘だ!」


 誰かが叫んだ。


「そんなことが!」


「でも、帳簿には……」


「偽造だ! きっと偽造だ!」


 ざわめきが、広がっていく。


 レオナールは、群衆を押しのけてリオに近づいた。


「止めろ!」


 その声は、普段の優雅さを失っていた。


「その帳簿を今すぐ……」


 だが、リオは続けた。


「鉱山での人体実験」


 その言葉に、群衆が静まり返った。


「実験体リスト……」


 リオの声が、さらに震えた。


「トビアス、十歳。投薬開始日……死亡日……」


 日付が読み上げられた。


「エリック、十二歳。投薬開始日……死亡日……」


「マーク、十一歳……」


 一人、また一人。


 名前と、年齢と、そして死亡日が読み上げられていく。


 群衆の中から、嗚咽が聞こえ始めた。


「私の息子……」


 一人の女性が、膝から崩れ落ちた。


「エリックは……私の息子は……」


 彼女は、地面を叩いた。


「鉱山で事故死したと聞いていた……でも、実験だったのか……」


 他の人々も、気づき始めた。


「待て……うちの甥も……」


「鉱山で……」


 ざわめきが、怒りの声に変わり始めていた。


 レオナールは、リオの腕を掴んだ。


「止めろと言っている!」


 その顔は、歪んでいた。


 化粧が汗で滲み、白粉が筋を作っている。


 リオは、レオナールを見上げた。


 その目には、憎悪が燃えていた。


「あんたは、俺たちを殺した」


 リオの声は、静かだった。


 だが、その静けさの中に、深い怒りが込められていた。


「トビアスも、フィンも、みんな……あんたが殺したんだ」


「違う!」


 レオナールは叫んだ。


「私は、お前たちに仕事を与えた! 食事を与えた! 屋根を与えた!」


「そして、薬を与えた」


 リオは、帳簿のページをめくった。


「『実験成功率、三割。残り七割は死亡または廃人化』」


 その言葉に、群衆が息を呑んだ。


「『だが、成功例のデータは貴重。実験継続を推奨』」


 リオは、レオナールを睨みつけた。


「これが、あんたの書いた言葉だ」


 レオナールは、何も言えなかった。


 ただ、リオの手から帳簿を奪おうと手を伸ばした。


 だが、リオは素早く身を翻した。


 そして、高台の階段を駆け上がった。


「待て!」


 レオナールも追いかけた。


 だが、群衆が邪魔をした。


「侯爵様、これは本当なのか?」


「説明してくれ!」


 人々は、レオナールを取り囲んだ。


 レオナールは、その視線に晒された。


 疑念と、怒りと、そして裏切られた悲しみが混じった視線に。


「これは……誤解だ……」


 レオナールは、言葉を絞り出した。


「その少年は、以前にも私を中傷したことがある……病んでいるんだ……」


「では、この帳簿は?」


「偽造だ!」


 レオナールは叫んだ。


「私の筆跡を真似て、誰かが作ったものだ!」


 だが、その声には、確信がなかった。


 群衆は、それを感じ取った。


 その時、高台からエーベルハルト公爵の声が響いた。


「少年、こちらへ来なさい」


 リオは、階段を駆け上がった。


 そして、公爵の前に立った。


 公爵は、リオから帳簿を受け取った。


「これが、その帳簿か」


「はい」


 リオは頷いた。


「すべてが、そこに書かれています」


 公爵は、帳簿の表紙を確認した。


 そこには、確かに「極秘」という文字が刻印されていた。


 そして、ページを開いた。


 最初のページには、レオナールの筆跡で日付と署名がある。


 公爵は、それをじっくりと見た。


 そして、次のページ、また次のページとめくっていく。


 広場は、静まり返っていた。


 誰も、声を発しなかった。


 ただ、蝋燭の炎が揺れる音と、噴水の水音だけが聞こえていた。


 レオナールは、階段の途中で立ち尽くしていた。


 額には、大粒の汗が浮かんでいる。


 化粧が、どんどん崩れていく。


 白粉が流れ、その下から素顔が現れ始めていた。


 公爵は、長い時間をかけて帳簿を読んだ。


 ページをめくる音だけが、夜の静寂に響いた。


 やがて、公爵は顔を上げた。


 その表情は、硬かった。


 目には、冷たい光が宿っていた。


「侯爵」


 その声は、重く、低かった。


「こちらへ」


 レオナールは、足が動かなかった。


 体が、拒否していた。


 だが、群衆の視線が、彼を押し上げた。


 彼は、ゆっくりと階段を上がった。


 一段、また一段。


 その足取りは、まるで処刑台に向かうかのように重かった。


 やがて、レオナールは高台に立った。


 公爵の前に。


 帳簿を前に。


 そして、数千の民衆の視線の前に。


 公爵は、帳簿を開いた。


 そして、あるページを指差した。


「これは、あなたの筆跡か?」


 レオナールは、それを見た。


 確かに、自分の字だった。


 完璧に整った、美しい筆跡。


 だが、今、その美しさが彼を裏切っていた。


「これは……」


 レオナールの声が、震えた。


「私の字に、似ているが……」


「似ている?」


 公爵の声が、鋭くなった。


「似ているのではない。同じだ」


 公爵は、別のページを開いた。


「ここにも、あなたの署名がある」


 また別のページ。


「ここにも」


 さらに別のページ。


「ここにも」


 公爵は、帳簿を閉じた。


 そして、レオナールを見つめた。


「この帳簿は、偽造ではない」


 その言葉が、広場に響いた。


 群衆が、息を呑んだ。


「筆跡、紙質、インクの種類。すべてが本物だ」


 公爵は、帳簿を高く掲げた。


「これは、レオナール・リリウス侯爵自身が記した、真正な記録だ」


 ざわめきが、広場を包んだ。


「本物……」


「では、中に書かれていることも……」


「侯爵様が、本当に……」


 レオナールは、後ずさった。


「違う……これは罠だ……誰かが私を陥れようと……」


「誰が?」


 公爵が問いかけた。


「誰が、あなたを陥れる? そして、なぜ?」


「それは……」


 レオナールは、言葉に詰まった。


 公爵は、帳簿を開いた。


 そして、読み上げ始めた。


「『薬物密売、北ルート。カルヴィン商会と契約。純度九十パーセントの薬物を、帝国法定価格の三倍で販売』」


 群衆が、ざわめいた。


「『人身売買、南ルート。孤児および浮浪者を、一人当たり五十金貨で売却。買い手は主に鉱山および娼館』」


 ざわめきが、大きくなった。


「『疫病の意図的流布。東の村に、薬物で免疫力を低下させた上で病原体を投入。目的は、特効薬の需要喚起および……』」


 公爵は、そこで言葉を切った。


 そして、レオナールを見た。


「『カーライル男爵領への拡大』」


 群衆が、騒然となった。


「疫病を……わざと……」


「あの村の人たちは……」


「侯爵様が……殺したのか……」


 怒りの声が、あちこちから上がり始めた。


 レオナールは、群衆を見回した。


 その目には、もう敬愛の色はなかった。


 あるのは、憎悪と、嫌悪と、軽蔑だった。


「違う……」


 レオナールは、首を振った。


「私は……私は清いんだ……」


 その声は、か細かった。


「私は、お前たちを愛していた……この領地を……」


「愛していた?」


 リオが、叫んだ。


「嘘だ! あんたは、誰も愛していない!」


 リオは、レオナールを指差した。


「あんたが愛しているのは、自分だけだ! 自分の美しさ、自分の名声、自分の権力だけだ!」


「黙れ……」


「俺たちは、あんたにとって道具だった! 使い捨ての、実験用の、ただの道具だ!」


「黙れと言っている!」


 レオナールは、リオに飛びかかった。


 だが、護衛がそれを止めた。


「離せ! 離せ!」


 レオナールは暴れた。


 その姿は、もはや聖人ではなかった。


 ただの、追い詰められた男だった。


 化粧は完全に崩れていた。


 汗と涙で、白粉が筋となって顔を流れている。


 その下から、皺だらけの顔が露わになっていた。


 群衆は、その姿を見ていた。


 そして、気づいた。


 自分たちが崇拝していたのは、幻だったのだと。


 美しい外見の下に隠された、醜い真実があったのだと。

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