第4話 元侍女の叫び
市場は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
商人たちの呼び声が響き、客たちが値切り交渉をし、子供たちが露店の間を走り回る。焼きたてのパンの香り、魚の生臭さ、香辛料の刺激。すべてが混ざり合い、この街の活気を作り出していた。
正午を告げる鐘が鳴り響く。
その時、一人の女が市場の中央に立った。
三十代半ばに見える女性だった。かつては美しかったであろう面影が残っているが、今は頬がこけ、目の下には隈ができていた。髪は乱れ、服は薄汚れている。
だが、その目には、強い光が宿っていた。
「皆さん! 聞いてください!」
女は叫んだ。
市場がざわめく。人々が足を止め、女を見た。
「私の名はセリーヌ・アイレ! かつて、レオナール侯爵様にお仕えしていた侍女です!」
その名を聞いて、群衆の表情が変わった。
侯爵の名を出す者は、常に注目を集める。それが元侍女となれば、なおさらだ。
「私は、皆さんに真実を伝えなければなりません!」
セリーヌの声は震えていた。だが、それは恐怖からではない。決意からだ。
「レオナール侯爵は、聖人などではありません! 彼は悪魔です! 人の心を弄び、人生を破壊する、恐ろしい悪魔なのです!」
市場が静まり返った。
誰もが、信じられないという顔で彼女を見つめていた。
「何を言っているんだ、この女は」
「頭がおかしくなったのか?」
囁きが広がる。
だが、セリーヌは構わず続けた。
「私には夫がいました! トマスという、優しい男でした。私たちは幸せでした。貧しくとも、愛し合っていました」
セリーヌの目から、涙が溢れた。
「だが、侯爵は私を城に呼びました。『優秀な侍女が必要だ』と言って。私は光栄に思いました。侯爵様にお仕えできることを、誇りに思いました」
彼女は拳を握りしめた。
「だが、それは罠でした! 侯爵は私を……私を……」
言葉が詰まる。
群衆は、息を呑んで彼女を見守っていた。
「侯爵は私を愛人にしました。拒めば、夫を殺すと脅されました。夫の借金の証文を見せられ、『これを帳消しにしてやる』と言われました」
ざわめきが大きくなる。
「私は……従うしかありませんでした。夫を守るために。だが、侯爵は約束を守りませんでした。夫の借金は増え続け、やがて夫は絶望しました」
セリーヌの声が、悲痛な叫びに変わった。
「夫は首を吊りました! 私が城にいる間に! 侯爵の寝室で体を汚されている間に!」
群衆から、驚きの声が上がった。
「嘘だ!」
「そんなことが!」
だが、セリーヌは止まらなかった。
「侯爵は、夫の死を知っても笑っていました。『これでお前は自由だ』と言いました。そして、私を捨てました。何の償いもなく、何の情けもなく!」
彼女は群衆を見回した。
「皆さん、侯爵の善政は嘘です! 彼の慈悲は演技です! この領地の繁栄は、他の人々の犠牲の上に成り立っているのです!」
群衆は混乱していた。
侯爵を信じるべきか、この女を信じるべきか。
「証拠を見せろ!」
誰かが叫んだ。
「証拠がないなら、ただの中傷だ!」
「証拠……」
セリーヌは苦しそうに顔を歪めた。
「証拠はありません。ですが、私の言葉が真実です! 神に誓って!」
「神に誓う? 侯爵様を中傷する者が、神を語るな!」
群衆の中から、敵意が生まれ始めていた。
人々は、自分たちの信じるものを否定されることに、怒りを感じていた。
「侯爵様は聖人だ!」
「この女は嘘つきだ!」
「恩知らずめ!」
罵声が飛び交う。
セリーヌは後ずさった。だが、まだ諦めていなかった。
「お願いです! 信じてください! 私は……」
その時。
群衆が割れた。
白い馬に乗った男が現れた。
レオナール・リリウスだった。
彼は優雅に馬から降りると、群衆の中を歩いてきた。人々は自然と道を開け、彼の前に跪いた。
「侯爵様!」
「侯爵様がお出ましだ!」
歓声が上がる。
レオナールは、セリーヌの前に立った。
その顔には、深い悲しみが浮かんでいた。
「セリーヌ……」
彼の声は、哀れみに満ちていた。
「ああ、セリーヌ。君が、こんな姿になってしまうなんて……」
セリーヌは、レオナールを睨みつけた。
「あなたが……あなたが私をこうしたのよ!」
「私が?」
レオナールは悲しそうに首を振った。
「私は、君を助けようとした。君の夫の借金を肩代わりしようとした。だが、君は私の好意を……誤解してしまった」
「誤解? 誤解ですって?」
セリーヌの声が裏返った。
「あなたは私を……私を……」
「セリーヌ」
レオナールは、優しく彼女の肩に手を置いた。
「君は、夫を亡くした悲しみで、心を病んでしまったんだ。それは仕方のないことだ。誰も君を責めない」
「違う! 違うわ!」
「君を責めない。だが、これ以上この場で騒ぎを起こすことは、君のためにならない」
レオナールは群衆を見回した。
「皆さん、どうか彼女を責めないでください。彼女は病んでいるのです。夫を亡くした悲しみで、正気を失っているのです」
群衆がざわめいた。
「そうか、病気なのか……」
「可哀想に……」
同情の声が広がる。
セリーヌは愕然とした。
レオナールは、完璧に状況を掌握していた。
「違う……違うのよ……」
彼女の声は、もはや誰にも届かなかった。
「セリーヌ」
レオナールは、彼女を抱きしめた。
群衆が、感動の声を上げた。
「ああ、なんと慈悲深い!」
「侯爵様は、彼女を赦してくださる!」
セリーヌは、レオナールの腕の中で震えていた。
恐怖で。
怒りで。
絶望で。
「……殺すつもりね」
彼女は小さく呟いた。
「そうだ」
レオナールも、小さく囁いた。
その声は、群衆には聞こえない。セリーヌにだけ届く、氷のように冷たい声だった。
「お前は、間違いを犯した。私の完璧な世界に、傷をつけようとした」
「……っ」
「だが、安心しろ。苦しませはしない。優しく、静かに、永遠の眠りにつかせてやる」
レオナールは、背中で合図を送った。
群衆の中から、黒い服を着た男たちが近づいてきた。
「彼女を、私の城の療養室へ」
レオナールは群衆に向かって言った。
「最高の治療を受けさせます。彼女の心が癒えるまで、私が責任を持って看病いたします」
「侯爵様、万歳!」
「なんという慈悲深さ!」
群衆は、涙を流して喜んだ。
黒い服の男たちが、セリーヌを抱え上げた。
彼女は抵抗した。叫んだ。
「助けて! 誰か! この人は悪魔よ! 悪魔なの!」
だが、群衆は微笑んで見送った。
「可哀想に、本当に病んでいるんだな」
「侯爵様が治してくださる」
セリーヌは馬車に押し込まれた。
扉が閉まる音が、彼女の最期の希望を断ち切った。
レオナールは、群衆に向かって優雅に一礼した。
「皆さん、お騒がせして申し訳ありませんでした。どうか、日常に戻ってください。そして、どうか彼女のために祈ってください」
「はい、侯爵様!」
群衆は散っていった。
市場は、再び日常の喧騒に包まれた。
まるで、何も起こらなかったかのように。
*
城の地下。
石造りの廊下を、松明の光が照らしていた。
レオナールは、その廊下を歩いていた。後ろにはジュリアンが従っている。
やがて、一つの扉の前で立ち止まった。
鉄格子がはまった、重厚な扉だ。
中からは、女の泣き声が聞こえてきた。
「お願い……出して……お願い……」
セリーヌの声だった。
レオナールは、扉の鉄格子から中を覗いた。
狭い部屋に、セリーヌが鎖で繋がれていた。床は冷たい石で、窓はない。
「セリーヌ」
レオナールは、優しく語りかけた。
「聞いているか?」
「侯爵……様……」
セリーヌは顔を上げた。
その目は、もう光を失っていた。
「どうして……どうして、こんなことを……」
「どうして?」
レオナールは、口元に笑みを浮かべた。
「お前が、愚かだったからだ」
「……っ」
「お前は、本当に愚かだった。私に逆らえると思ったのか? 群衆が、お前の言葉を信じると思ったのか?」
レオナールは、鉄格子に手をかけた。
「人間というのは、信じたいものを信じる生き物だ。美しい嘘を、醜い真実よりも選ぶ。お前は、それを理解していなかった」
「私は……真実を……」
「真実?」
レオナールは嗤った。
「真実など、誰も求めていない。人々が求めているのは、安心だ。希望だ。美しい物語だ。だから私は、それを与えている」
「あなたは……悪魔よ……」
「悪魔?」
レオナールは首を傾げた。
「そうかもしれないな。だが、悪魔の方が、無能な神よりも役に立つ」
彼は扉から離れた。
「さて、セリーヌ。お前の処遇だが」
レオナールは、ジュリアンに目配せした。
ジュリアンが小さな瓶を取り出す。
「これは、お前がよく知っている薬だ」
レオナールは瓶を手に取った。
「一滴で、永遠の眠りにつける。苦しみはない。ただ、静かに意識が遠のいていくだけだ」
「やめて……」
セリーヌは後ずさった。だが、鎖が彼女を引き留めた。
「これを、今夜の食事に混ぜておく」
レオナールは瓶をジュリアンに渡した。
「明日の朝、彼女は冷たくなっているだろう。そして私は、群衆の前で涙を流す。『彼女を救えなかった』と嘆く」
「……鬼畜……」
セリーヌは震えながら呟いた。
「鬼畜……あなたは、人間じゃない……」
「人間?」
レオナールは、美しく笑った。
「私は、人間を超えた存在だ。神にも悪魔にもなれる。だが、人間? そんな矮小なものではない」
彼は扉に背を向けた。
「さようなら、セリーヌ。お前の犠牲は、無駄にはしない。お前の死は、私の慈悲を証明する材料になる」
「待って! お願い! せめて……せめて懺悔を……」
セリーヌの叫びが、廊下に響いた。
だが、レオナールは振り返らなかった。
彼は、まるで虫の鳴き声を聞くかのように、無関心だった。
扉が閉まり、鍵がかけられた。
セリーヌの泣き声が、石壁に吸い込まれていった。
*
その夜。
レオナールは、自室で酒を飲んでいた。
深紅のワインが、グラスの中で揺れている。
「ジュリアン」
「はい」
「今日の群衆の反応は、どうだった?」
「皆、侯爵様の慈悲に感動しておりました」
「そうか」
レオナールは満足そうに頷いた。
「セリーヌの告発は、完全に無効化できた。むしろ、私の評判は上がったかもしれない」
「はい。『病んだ元侍女を赦し、治療しようとする聖人』として、更なる賛美を得ております」
「素晴らしい」
レオナールはワインを一口飲んだ。
「人間を操るのは、簡単だ。彼らは、自分で考えることを放棄している。誰かに導かれたがっている。だから私は、導いてやる」
「侯爵様」
ジュリアンの声が、わずかに震えた。
「セリーヌは……本当に殺すのですか?」
「当然だ」
レオナールは即答した。
「彼女を生かしておけば、また騒ぎを起こす。それに、例え殺しても誰も疑わない。『病気で亡くなった』と言えば、皆信じる」
「……はい」
ジュリアンは、それ以上何も言わなかった。
レオナールは窓の外を見た。
月が、雲に隠れている。闇が深い夜だった。
「美しい夜だな」
「はい」
「この闇のように、私の秘密も深く、誰にも見えない」
レオナールはグラスを掲げた。
「セリーヌに、乾杯」
彼は一気にワインを飲み干した。
「彼女の死が、私の王国を更に強固にする」
グラスを置くと、レオナールは鏡の前に立った。
そこには、変わらず美しい自分の顔が映っている。
「明日は、涙の演技だ」
彼は目元に指を当て、涙腺を刺激した。
じわりと、涙が滲む。
「いい感じだ」
レオナールは練習を続けた。
悲しみの表情。
後悔の表情。
苦悩の表情。
すべてが、計算されていた。
すべてが、虚構だった。
だが、それは完璧に本物に見えた。
「私は、世界最高の役者だ」
レオナールは、鏡に向かって微笑んだ。
「そして、誰もそれに気づかない」
彼の笑顔は、美しかった。
恐ろしいほどに。
*
同じ夜。
マルセル・クレメンスは、礼拝堂で祈っていた。
今日の市場での出来事を聞き、心が乱れていた。
元侍女の告発。
侯爵の慈悲深い対応。
群衆の賛美。
すべてが、完璧だった。
あまりにも完璧すぎて、不自然なほどだった。
「神よ……」
マルセルは呟いた。
「私に、真実を見る目を与えてください」
だが、答えは返ってこなかった。
礼拝堂は静かで、ただ蝋燭の炎が揺れているだけだった。
マルセルは目を閉じた。
心の中で、何かが囁いている。
疑え。
調べろ。
真実を見つけろ。
だが、同時に別の声も聞こえる。
信じろ。
侯爵を信じろ。
疑うことは罪だ。
マルセルは、その二つの声の間で揺れていた。
やがて、彼は立ち上がった。
「……もう少しだけ、様子を見よう」
彼は自分に言い聞かせた。
「侯爵様は、きっと正しい方だ。彼女の治療がうまくいけば、すべてが明らかになる」
マルセルは礼拝堂を出た。
だが、心の奥底では知っていた。
何かが、間違っている。
何かが、狂っている。
そして、自分は目を背けようとしている。
その事実から。
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