第3話 慈悲の裏
朝の礼拝堂に、聖歌が響いていた。
ステンドグラスから差し込む光が、白い祭壇を照らしている。香炉から立ち上る乳香の煙が、ゆっくりと天井へと昇っていく。
跪く信徒たちの列は、礼拝堂の入り口まで続いていた。
マルセル・クレメンスは、祭壇の前で祈りの言葉を唱えていた。
「……我らに糧を与え給え。我らの罪を赦し給え。我らを試みに遭わせず、悪より救い給え」
二十四歳の若き神官だ。栗色の髪を短く刈り込み、誠実そうな茶色の瞳を持つ。痩せた体つきだが、その姿勢は真っ直ぐで、声には力がこもっていた。
「アーメン」
信徒たちが唱和する。
マルセルは十字を切ると、信徒たちに向き直った。
「皆さん、今日も神の祝福がありますように」
彼の笑顔は、純粋だった。
計算も、偽りもない。ただ真っ直ぐに、人々の幸福を願う笑顔だった。
礼拝が終わると、信徒たちは次々と彼に話しかけてきた。
「マルセル神父様、息子の病気が治りました。神に感謝を」
「それは良かった。神の御加護です」
「神父様、今月も施しをいただけると……」
「もちろんです。後ほど施療所へいらしてください」
マルセルは一人一人に丁寧に応対した。彼にとって、これは単なる義務ではなかった。使命だった。
神の愛を人々に伝え、苦しむ者を救う。それが、神官としての自分の役割だと信じていた。
やがて信徒たちが去り、礼拝堂に静寂が戻った。
マルセルは祭壇の前に跪き、再び祈りを捧げた。
「神よ、感謝します。この領地に平和と繁栄をもたらしてくださったことを」
彼の祈りには、もう一つの名前が含まれていた。
「そして、レオナール侯爵様に、どうか変わらぬ御加護を」
マルセルにとって、レオナール・リリウスは理想の為政者だった。
慈悲深く、公正で、民を愛する。その美しさは外見だけでなく、内面にも宿っている。そう信じて疑わなかった。
五年前、まだマルセルが見習い神官だった頃。
この領地は貧困に喘いでいた。疫病が流行り、飢餓が民を苦しめ、希望など見えなかった。
だが、若き侯爵が領地を継いでから、すべてが変わった。
疫病は治まり、食料は潤沢になり、人々は笑顔を取り戻した。
それは奇跡だった。
神の奇跡と、侯爵の善政が重なり合った、祝福の時だった。
マルセルは何度も侯爵と会話を交わした。
侯爵は常に謙虚で、神への信仰を語り、民の幸福を第一に考えていた。その姿に、マルセルは深く感銘を受けた。
「いつか、私も侯爵様のような人間になりたい」
それが、マルセルの願いだった。
*
午後、マルセルは施療所を訪れた。
礼拝堂に隣接する石造りの建物だ。ここでは、病人や貧しい者たちに無償で治療と食事が提供されていた。
その費用の大半は、レオナール侯爵からの寄付で賄われている。
マルセルは施療所の管理も任されていた。帳簿をつけ、物資を管理し、必要なものを発注する。地味な仕事だが、彼は真面目に取り組んでいた。
「マルセル様」
看護婦の一人、年配のシスター・アガタが声をかけてきた。
「今月の薬の在庫が、また合わないのですが」
「合わない?」
マルセルは眉をひそめた。
「どういうことです?」
「帳簿では、解熱薬が三十瓶あるはずなんですが、実際には二十二瓶しかありません」
「八瓶も……?」
マルセルは帳簿を取り出した。
そこには、確かに三十瓶と記されている。発注記録も、受領記録も、すべて揃っていた。
「おかしいですね」
「ええ。先月も、鎮痛薬が五瓶足りませんでした」
「先月も?」
マルセルは記憶を辿った。
そういえば、先月も同じような報告を受けた気がする。その時は、記録ミスだろうと思って深く考えなかった。
だが、二か月連続となると……。
「もう一度、倉庫を確認してみます」
マルセルは立ち上がった。
「私も手伝います」
「いえ、大丈夫です。シスター・アガタは患者さんの世話を」
マルセルは施療所の裏手にある倉庫へ向かった。
小さな石造りの建物で、中には薬品や包帯、食料などが保管されている。
扉を開けると、薬草の匂いが鼻を突いた。
マルセルは棚を一つ一つ確認していった。
解熱薬、鎮痛薬、消毒薬、包帯……。
確かに、帳簿の数字と実際の在庫が合わない。
解熱薬は八瓶足りず、鎮痛薬も三瓶足りなかった。
「なぜだろう……」
マルセルは首を傾げた。
盗難? いや、この施療所に出入りできるのは、神官と看護婦だけだ。全員が信頼できる人物ばかりで、盗みを働くような者はいない。
それに、もし盗むなら、もっと高価なものを狙うはずだ。解熱薬や鎮痛薬など、それほど価値のあるものではない。
記録ミス? しかし、マルセルは几帳面な性格だ。記録を間違えるとは考えにくい。
「……おかしい」
マルセルは帳簿を見直した。
発注記録を見ると、すべて侯爵家の執事、ジュリアン・ヴェルトの署名がある。
受領記録も、同じく。
つまり、薬は確かにこの施療所に届けられたはずなのだ。
だが、実際には足りない。
ということは……。
「途中で、誰かが抜き取った?」
いや、そんなことがあるだろうか。
マルセルは頭を振った。
侯爵家の人間が、施療所の薬を盗むなど、考えられない。レオナール侯爵は、この施療所に多額の寄付をしているのだ。
それに、ジュリアン執事は誠実な人物だと聞いている。
「きっと、何かの手違いだ」
マルセルは自分に言い聞かせた。
「次の発注の時に、確認してみよう」
彼は倉庫を出た。
だが、心の奥底に、小さな疑問が引っかかっていた。
*
その夜、マルセルは再び礼拝堂を訪れた。
夜の礼拝に出席する信徒は少ない。今夜も、数人の老人が跪いているだけだった。
マルセルは祭壇の前で祈りを捧げた。
だが、いつものように心が落ち着かなかった。
施療所の帳簿のことが、頭から離れない。
薬が足りない。なぜだ?
誰が? どこへ? 何のために?
祈りの言葉が、途中で途切れてしまう。
「……神よ、お許しください」
マルセルは額を床につけた。
「私は、疑うべきではないものを疑っています」
レオナール侯爵は善人だ。
ジュリアン執事も、誠実な人物だ。
彼らが、何か不正を働いているなど、あり得ない。
それなのに、自分は疑いの目を向けている。
それは、神への冒瀆ではないだろうか。
「神よ、私に正しい道をお示しください」
マルセルは長い時間、祈り続けた。
やがて、礼拝堂の鐘が深夜を告げた。
信徒たちは去り、マルセル一人が残された。
彼は立ち上がり、ため息をついた。
「……明日、侯爵様に相談してみよう」
そう決めると、少しだけ心が軽くなった。
侯爵なら、きっと答えを知っているだろう。そして、自分の疑念が杞憂だったことを証明してくれるだろう。
マルセルは礼拝堂を出た。
外は冷たい夜風が吹いていた。月が雲に隠れ、闇が深い。
彼は外套を引き寄せながら、宿舎へと歩き始めた。
その時。
「……たすけて……」
か細い声が聞こえた。
マルセルは足を止めた。
「誰かいるのですか?」
声のする方へ歩いていく。
礼拝堂の裏手、墓地との境にある小道。
そこに、人影があった。
女だ。
ぼろぼろの衣服を着て、地面に座り込んでいる。髪は乱れ、顔は土で汚れていた。
「大丈夫ですか!」
マルセルは駆け寄った。
女は顔を上げた。
その目は虚ろで、焦点が合っていない。唇は紫色に変色し、全身が震えていた。
「水を……薬を……」
「今、助けを呼びますから!」
マルセルは立ち上がろうとした。
だが、女が彼の裾を掴んだ。
「だめ……誰も……信じちゃ……」
「何を言っているんですか? あなたには治療が必要です!」
「薬……薬が……やめられない……」
女の声は、途切れ途切れだった。
「侯爵が……侯爵が……」
「侯爵? レオナール侯爵様が、どうかしたのですか?」
女は何か言おうとした。
だが、その瞬間。
女の目が見開かれた。
口から、泡が溢れ出した。
そして、体が激しく痙攣し始めた。
「おい、しっかりしてください!」
マルセルは女を抱き起こした。
だが、痙攣は止まらなかった。
女の目が白目を剥き、呼吸が止まった。
「そんな……!」
マルセルは必死に女の胸を押した。人工呼吸を試みた。
だが、反応はなかった。
女は死んでいた。
マルセルは、呆然とその場に座り込んだ。
目の前で、人が死んだ。
自分の手の中で。
「……なぜ」
彼は震える手で、女の目を閉じさせた。
女の顔は、安らかではなかった。苦痛と絶望に歪んでいた。
そして、その唇からは、最期まで言葉が漏れていた。
「侯爵が……」
マルセルの心に、氷のような冷たさが走った。
*
翌朝、マルセルは城を訪れた。
女の死体は、礼拝堂に運ばれた。身元は分からない。持ち物も何もなく、顔も汚れていて判別が難しかった。
だが、マルセルには確信があった。
あの女は、薬物中毒だった。
症状が明らかだった。震え、虚ろな目、痙攣、そして最期の言葉。
「侯爵が」
その言葉が、頭から離れない。
まさか。
いや、そんなはずはない。
だが、確かめなければならない。
マルセルは執事に取り次ぎを頼んだ。
しばらく待たされた後、応接室に通された。
そこには、レオナール侯爵が立っていた。
朝陽を背に受け、白金の髪が輝いている。その美しさは、いつ見ても息を呑むほどだった。
「マルセル神父、おはよう」
レオナールは優雅に微笑んだ。
「朝早くから、どうしたのですか? 何か困ったことでも?」
「侯爵様……」
マルセルは一瞬、言葉に詰まった。
その笑顔を見ると、すべての疑念が馬鹿げたものに思えてくる。
だが、彼は勇気を振り絞った。
「実は、昨夜、礼拝堂の近くで女性が亡くなりました」
「それは……お気の毒に」
レオナールの表情が、悲しみに曇った。
「原因は?」
「おそらく、薬物中毒かと」
「薬物?」
レオナールは眉をひそめた。
「この領地で、そんなものが?」
「はい……それで、実は侯爵様にお聞きしたいことがあるのですが」
「何なりと」
マルセルは深呼吸をした。
「最近、施療所の薬の在庫が、帳簿と合わないのです」
「在庫が合わない?」
「はい。発注した数と、実際の在庫に差があります。先月は鎮痛薬が五瓶、今月は解熱薬が八瓶……」
「それは困りましたね」
レオナールは真剣な表情になった。
「誰かが盗んだのでしょうか?」
「それが分からないのです。施療所に出入りできるのは限られた人間だけですし……」
マルセルは言葉を選んだ。
「それで、もしかしたら、配送の過程で何か問題があったのではないかと」
「配送?」
「はい。侯爵家から施療所への配送は、執事のジュリアン様が担当されていると……」
「ああ、ジュリアンか」
レオナールは頷いた。
「彼は信頼できる男です。ですが、念のため確認してみましょう」
レオナールは執事を呼んだ。
しばらくして、ジュリアンが現れた。
「お呼びでしょうか」
「ああ、ジュリアン。マルセル神父が、施療所の薬の在庫について質問があるそうだ」
「在庫、ですか」
ジュリアンは表情を変えずに答えた。
「はい」
マルセルは同じ質問を繰り返した。
ジュリアンは少し考える素振りを見せた後、答えた。
「確かに、最近の配送記録を見直す必要がありそうですね。もしかすると、私の記録ミスかもしれません」
「記録ミス?」
「ええ。最近、業務が立て込んでおりまして。申し訳ございません」
ジュリアンは深々と頭を下げた。
「いえ、そんな……」
マルセルは慌てた。
「ただ、確認したかっただけで……」
「いいえ、これは私の責任です」
ジュリアンは顔を上げた。
「すぐに記録を見直し、不足分を補充いたします」
「ありがとうございます」
レオナールが微笑んだ。
「マルセル神父、これで問題は解決ですね」
「はい……」
マルセルは頷いた。
だが、心の中の疑問は消えなかった。
本当に、これで解決なのだろうか?
あの女性の最期の言葉は、何を意味していたのだろうか?
「マルセル神父」
レオナールが声をかけた。
「何か、他に気になることでも?」
「いえ……あの、もう一つだけ」
「どうぞ」
「昨夜亡くなった女性のことなんですが……」
マルセルは慎重に言葉を選んだ。
「彼女は最期に、『侯爵が』と言っていました」
一瞬、空気が凍りついた。
レオナールの表情が、わずかに硬くなった。
だが、それはほんの一瞬だけだ。すぐに、彼はいつもの優しい笑みを浮かべた。
「私のことを?」
「はい……おそらく」
「それは……」
レオナールは窓の外を見た。
「もしかすると、助けを求めていたのかもしれませんね」
「助けを?」
「ええ。この領地の人々は、困った時に私を頼ってくれます。彼女も、最期に私の名を呼んだのかもしれない」
レオナールは悲しそうに目を伏せた。
「だが、間に合わなかった。私は、彼女を救えなかった……」
その表情は、本物の悲しみに満ちていた。
マルセルは、自分が愚かだったと思った。
侯爵は、こんなにも民を思っている。薬物中毒で死んだ女性のことさえ、自分の責任のように感じている。
そんな人が、何か悪いことをしているはずがない。
「申し訳ありません、侯爵様」
マルセルは深く頭を下げた。
「余計な詮索をしてしまって」
「いいえ、構いません」
レオナールは優しく言った。
「あなたは、真実を知りたかっただけでしょう。それは、神官として正しい姿勢です」
「ありがとうございます」
「ただ……」
レオナールは、マルセルの肩に手を置いた。
「時には、知らない方が幸せなこともあります」
「え?」
「いえ、何でもありません」
レオナールは手を離した。
「マルセル神父、これからも施療所のことをよろしくお願いします。あなたの献身には、いつも頭が下がります」
「はい、精一杯努めます」
マルセルは城を後にした。
朝の日差しが、眩しかった。
だが、心の中の影は、消えなかった。
*
マルセルが去った後。
レオナールは、窓辺に立っていた。
その背中を、ジュリアンが見つめていた。
「侯爵様」
「何だ?」
「マルセル神父は、気づき始めています」
「分かっている」
レオナールは振り返った。
その顔には、先ほどまでの優しさはなかった。
「だが、証拠はない。そして、彼は私を信じている」
「それでも……」
「心配するな、ジュリアン」
レオナールは笑った。
「彼は真面目な神官だ。疑うことに罪悪感を持つタイプだ。だからこそ、容易く誤魔化せる」
「しかし、もし彼が深く調べ始めたら」
「その時は……」
レオナールは机の引き出しを開けた。
中には、小さな木箱がある。
彼はそれを取り出し、蓋を開けた。
中には、銀貨が詰まっていた。
「寄付を増やす」
「寄付、ですか」
「ああ。施療所への寄付を、今月は倍にしろ。いや、三倍だ」
レオナールは銀貨を指で弾いた。
「金は最高の目くらましだ。彼は、この金を見て思うだろう。『こんなに施療所に尽くしている侯爵様が、悪いことをするはずがない』と」
「……かしこまりました」
「それと、昨夜死んだ女のことだが」
「はい」
「身元を調べろ。そして、彼女の家族を探せ」
「何のために?」
「慰謝料を払う」
レオナールは冷たく笑った。
「たっぷりとな。そして、葬儀の費用も私が負担すると伝えろ。『侯爵様は、なんと慈悲深い』と、皆が噂するように」
「……はい」
ジュリアンは一礼すると、部屋を出ていった。
一人残されたレオナールは、窓の外を見た。
城下町が、平和な朝を迎えている。
人々は働き、子供たちは笑い、すべてが順調に見える。
「完璧だ」
レオナールは呟いた。
「すべてが、完璧に回っている」
彼は机に向かい、羽根ペンを取った。
そして、日記を開いた。
『本日、マルセル神父が訪問。施療所の帳簿について質問。ジュリアンの記録ミスということで処理。問題なし』
彼は書き続けた。
『神父は純粋だ。操りやすい。だが、油断はできない。今後も注意深く観察する必要がある』
そして、最後に一文を加えた。
『寄付を増額。涙を流す準備も整えた。完璧な慈悲を演じよう』
レオナールは日記を閉じた。
そして、鏡の前に立った。
そこには、完璧に美しい自分の顔が映っている。
彼は、自分に微笑みかけた。
涙を一滴、流してみた。
それは、本物のように見えた。
「……完璧だ」
彼は満足そうに呟いた。
そして、再び涙を流す練習を始めた。
悲しみの涙。
感動の涙。
後悔の涙。
すべてが、道具だった。
すべてが、完璧な演技のための小道具だった。
レオナールは、鏡の中の自分に語りかけた。
「お前は、神にも勝てる」
鏡の中の彼が、笑い返した。
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