第2話 聖人の宴
大広間の天井には、三十六基のシャンデリアが吊るされていた。
無数の蝋燭が灯され、クリスタルのプリズムが光を乱反射させる。壁には金糸で織られたタペストリーが掛けられ、床には深紅の絨毯が敷き詰められている。空気は薔薇の香油で満たされ、そこに焼き上がったばかりの肉の芳香が混じり合っていた。
ルクレティア公領の宴は、帝国でも指折りの豪華さで知られている。
今宵も例外ではなかった。
長テーブルには、帝国中から集められた珍味が並んでいる。北の海から運ばれた巨大な鮭、南の森で仕留められた野猪、東の草原で育てられた仔羊。それぞれが完璧に調理され、色とりどりのソースで飾られている。
銀の食器が光を弾き、クリスタルのグラスがワインの深紅を湛えていた。
「素晴らしい……」
テーブルの上座に座る男が、感嘆の声を漏らした。
皇帝陛下の使者、アルベルト・フォン・クラウゼヴィッツ。帝国貴族の中でも屈指の家柄を誇る男だ。四十代半ばの精悍な顔つきで、灰色の髭を蓄えている。普段は無表情を貫く男だが、今夜ばかりは目を見開いていた。
「レオナール侯爵。これほどの饗応は、宮廷でも滅多にお目にかかれませんぞ」
「恐縮です、クラウゼヴィッツ閣下」
レオナールは優雅に微笑んだ。
彼は上座の向かいに座っている。今夜の装いは、純白のシルクのシャツに、銀糸で百合の紋章を刺繍した紺碧のベストだ。首元には細いプラチナのチェーンがかかり、その先には小さなサファイアが揺れている。
髪は丁寧に梳かれ、蝋燭の光を受けて白金のように輝いていた。
「陛下のご使者をお迎えできることは、この領地にとって最高の栄誉です。この程度の準備は、当然のこと」
「謙遜されるな。これは『この程度』などという言葉で語れるものではない」
クラウゼヴィッツは再び広間を見回した。
宴には、領地の有力者たちも招かれていた。商人ギルドの長、聖職者の代表、騎士団の団長。彼らは皆、最高の礼装で着飾り、緊張した面持ちでグラスを傾けていた。
広間の隅では、宮廷楽団の音楽家たちが静かに竪琴を奏でている。その旋律は優雅で、まるで天上の音楽のようだった。
「陛下もお喜びになるでしょう」
クラウゼヴィッツがワイングラスを掲げた。
「ルクレティア公領の繁栄ぶりを、私はこの目で確かめました。噂に聞く以上です。レオナール侯爵、あなたの統治は、帝国の模範と言えるでしょう」
「ありがたきお言葉です」
レオナールもグラスを掲げた。
二つのグラスが触れ合い、澄んだ音が響く。
「では、乾杯を」
「帝国の繁栄に」
「そして、陛下の御健勝に」
二人は同時にワインを口にした。
それを合図に、広間全体が動き出す。侍従たちが料理を運び、給仕たちがワインを注ぎ、音楽家たちが新しい曲を奏で始めた。
宴が始まった。
レオナールは完璧な笑顔を保ちながら、クラウゼヴィッツと会話を続けた。
「閣下、帝都の様子はいかがですか?」
「相変わらずの喧騒ですな。貴族たちの派閥争い、商人たちの駆け引き。まったく、頭の痛いことばかりです」
「それは大変ですね」
「ええ。だからこそ、この領地のような平和な場所は貴重なのです」
クラウゼヴィッツは深く息を吐いた。
「ここには、帝都にはない……何と言うか、調和がある。民は侯爵を慕い、侯爵は民を愛する。それが、この繁栄を生んでいるのでしょうな」
「過分なお言葉です」
レオナールは謙虚に首を振った。
「私はただ、亡き父から受け継いだこの領地を守りたいだけです。民が幸せであることが、私の幸せでもある」
「美しい言葉だ」
クラウゼヴィッツは目を細めた。
「あなたのような若者が、もっと帝都にいればいいのですが」
「私は、この領地でこそ役に立てると信じています」
「その謙虚さもまた、美徳ですな」
会話は途切れることなく続いた。レオナールは相手の言葉に丁寧に耳を傾け、適切なタイミングで相槌を打ち、時折詩的な表現を織り交ぜて答えた。
彼の言葉には、常に真実味があった。
嘘を吐いているようには、まったく見えなかった。
そして実際、レオナールは嘘を吐いていなかった。ただ、真実のすべてを語っていないだけだ。
料理が次々と運ばれてくる。
鮭のムニエルは、バターとレモンの絶妙なバランスで仕上げられていた。野猪のローストは、外はカリッと、中はジューシーに焼き上がっている。仔羊のステーキには、ローズマリーとガーリックの香りが染み込んでいた。
「これは……」
クラウゼヴィッツが一口食べて、目を見開いた。
「なんという味だ! この鮭、宮廷料理人の腕前を超えていますぞ!」
「お気に召していただけて光栄です」
レオナールは微笑んだ。
「料理人には、最高の素材と最高の自由を与えています。彼らの才能を信じているからこそ、こうした料理が生まれるのです」
「素晴らしい。あなたは、人を活かすことを知っている」
クラウゼヴィッツは感心したように頷いた。
レオナールは心の中で笑った。
料理人に自由? 馬鹿げている。彼らは私の命令に従っているだけだ。一つでも失敗すれば、容赦なく切り捨てる。それが、この完璧さを生む唯一の方法だ。
だが、彼の顔には何の変化も表れなかった。
「人は、信頼されることで力を発揮します。私は、それを信じているのです」
「その通りだ」
宴は順調に進んでいった。
料理が出されるたび、クラウゼヴィッツは賛辞を惜しまなかった。ワインは最高級のものばかりで、音楽は完璧なタイミングで曲を変えた。
すべてが、計算され尽くしていた。
レオナールは、この宴のために三か月の準備期間を費やしていた。料理人の選定、食材の調達、音楽家の手配、そして会話の内容まで。彼は何一つ、偶然に任せることはしない。
「ところで、侯爵」
クラウゼヴィッツが身を乗り出した。
「一つ、お聞きしたいことがあるのですが」
「何なりと」
「この領地の繁栄の秘訣は、何ですか?」
レオナールは一瞬、動きを止めた。
だがそれは、ほんの一瞬だけだ。すぐに彼は優雅な笑みを浮かべた。
「秘訣、ですか」
「ええ。この領地は、わずか五年で帝国屈指の豊かさを手に入れた。それは並大抵のことではない。何か、特別な方法があるのでは?」
広間の空気が、わずかに緊張した。
招待客たちが、さりげなく耳を傾けている。
レオナールは、グラスを口に運んだ。ワインの深紅が、蝋燭の光を受けて宝石のように輝く。
「特別な方法、などというものはありません」
彼は静かに言った。
「ただ、民の声に耳を傾け、正しい判断を下し、誠実に行動する。それだけです」
「それだけ、ですか」
「ええ。あとは……」
レオナールは、遠くを見るような目をした。
「祈りです」
「祈り?」
「はい。私は毎朝、神に祈ります。この領地が、民が、そして帝国が、永遠に繁栄しますように、と」
レオナールの声は、深い敬虔さに満ちていた。
クラウゼヴィッツは、感動したように息を呑んだ。
「……素晴らしい。あなたは、真の信仰者だ」
「恐れ多いことです」
レオナールは頭を下げた。
その表情は、まるで聖人のようだった。
だが、彼の心の中では、別の言葉が響いていた。
――祈り? 馬鹿げている。
神など、存在しない。あるいは存在したとしても、私には関係ない。私が神を必要としないように、神も私を必要としていない。
この繁栄は、私の知恵と、私の冷酷さと、私の完璧な演技によって築かれたものだ。
他領から薬物を流し込み、人々を依存させる。
密輸と人身売買のネットワークを構築し、莫大な利益を得る。
そして、その金で自領を豊かにし、民を満足させる。
すべては、計算だ。
神など、何の役にも立たない。
レオナールは、心の中で嗤った。
「では、次の料理を」
侍従たちが新しい皿を運んできた。
それは、孔雀の丸焼きだった。
羽根を広げた状態で盛り付けられ、まるで生きているかのような姿だ。宝石のように輝く羽根が、蝋燭の光を受けて虹色に煌めいている。
「これは……!」
クラウゼヴィッツだけでなく、広間にいる全員が息を呑んだ。
「孔雀の丸焼きとは! こんなものは、皇帝陛下の即位式以来、見たことがありませんぞ!」
「この領地の森で、運良く捕らえることができました」
レオナールは謙遜した。
「陛下のご使者を迎えるにあたり、何か特別なものをと思いまして」
「これは……言葉もありません」
クラウゼヴィッツは、完全に魅了されていた。
料理人が孔雀を切り分け始める。その肉は柔らかく、甘美な香りを放っていた。
一切れが、クラウゼヴィッツの皿に盛られる。
彼はフォークで肉を口に運んだ。
そして、目を閉じた。
「……完璧だ」
その言葉が、レオナールの勝利を告げた。
宴は更に盛り上がっていく。
クラウゼヴィッツは次々と料理を口にし、そのたびに賛辞を述べた。ワインも進み、彼の頬は赤く染まっていく。
やがて、デザートの時間になった。
運ばれてきたのは、砂糖細工で作られた城だった。
それは、ルクレティア公領の城を模したもので、細部まで精密に再現されている。窓も、塔も、門も、すべてが砂糖で作られていた。
「これは……芸術品ですな」
クラウゼヴィッツは、もはや言葉を失っていた。
「どうぞ、お召し上がりください」
レオナールは微笑んだ。
料理人が砂糖細工を崩し、クリームと果物を添えて配り始める。
その甘美な味わいが、宴の締めくくりにふさわしいものだった。
「レオナール侯爵」
クラウゼヴィッツがグラスを掲げた。
「この宴は、私の人生で最高のものでした。陛下に、必ずやあなたの功績を報告いたします」
「光栄です」
レオナールもグラスを掲げた。
「では、最後の乾杯を」
「帝国の永遠なる繁栄に」
「そして、陛下の御威光に」
二つのグラスが触れ合った。
*
宴が終わり、客たちが退出していく。
クラウゼヴィッツは、満足そうな顔で馬車に乗り込んだ。その後ろ姿を見送りながら、レオナールは完璧な笑顔を保ち続けた。
馬車が見えなくなると、彼は踵を返した。
広間に戻る。
そこには、まだ片付けられていない料理の残骸が散らばっていた。空になった皿、倒れたグラス、食べ残された肉。
侍従たちが慌ただしく片付けを始めている。
レオナールは、その様子を無表情で眺めていた。
「侯爵様」
ジュリアンが近づいてきた。
「お疲れ様でございました。見事な宴でした」
「当然だ」
レオナールは冷たく言った。
「だが、問題もあった」
「と、仰いますと?」
「音楽家の一人、竪琴の音を一度外した」
「……はい」
「あれは何だ? 私は完璧を求めたはずだ」
「申し訳ございません。すぐに処分を」
「いや、待て」
レオナールは手を上げた。
「あの音楽家、才能はある。ただ、緊張していただけだ。次の機会を与えてやれ。ただし……」
レオナールの目が、鋭く光った。
「二度目はない、と伝えろ」
「かしこまりました」
レオナールは広間を見回した。
豪華な装飾も、美しい料理も、今や意味を失っている。ただの残骸だ。
「片付けが終わったら、すべて焼却しろ」
「焼却、ですか?」
「ああ。食べ残しは民に与えるな。彼らに、この宴の豪華さを知られたくない。格差を感じさせてはならない」
「では、孤児院に?」
「孤児院の子供たちは、今夜も鉱山で働いているだろう。彼らに食事を与える必要はない。最低限の栄養で十分だ」
ジュリアンは、何も言わなかった。
レオナールは窓辺に歩み寄った。
夜空には、満月が浮かんでいる。その光が、城の庭園を銀色に染めていた。
「美しい夜だな」
「はい」
「クラウゼヴィッツは完全に魅了された。彼は帝都に戻り、私の善政を皇帝陛下に報告するだろう。そうすれば、この領地への支援は続く」
「間違いございません」
「そして私は、更なる利益を得る」
レオナールは、自分の手を見つめた。
その手は、今夜何度も握手を交わし、何度も料理を運び、何度もグラスを掲げた。
だが、汚れていた。
目に見えない汚れが、染み付いていた。
「ジュリアン」
「はい」
「私は、正しいことをしている」
その言葉は、問いかけのようだった。
ジュリアンは、しばらく沈黙していた。
やがて、彼は静かに答えた。
「侯爵様のなさることは、すべて領地のためです」
「そうだ。領地のためだ」
レオナールは頷いた。
「民が幸せであるためには、犠牲が必要だ。他領の人間が薬に溺れようと、子供たちが実験台にされようと、それは仕方のないことだ。彼らの犠牲の上に、この繁栄がある」
「……はい」
「お前は理解している。だから、お前だけが私の側にいる」
レオナールは振り返った。
「お前以外の誰も、私の真実を知らない。知ろうともしない。彼らは、美しいものだけを見たがる。だから私は、美しくあり続ける」
ジュリアンの表情は、蝋燭の影に隠れて見えなかった。
「侯爵様」
「何だ?」
「……いえ、何でもございません」
「そうか」
レオナールは再び窓の外を見た。
城下町の灯りが、星のように瞬いている。
「私は、この世界で最も美しい悪魔だ」
彼は呟いた。
「そして、誰もそれに気づかない」
その言葉は、勝利の宣言のようでもあり、どこか寂しげでもあった。
だが、レオナール自身は、その寂しさに気づいていなかった。
あるいは、気づかないふりをしていた。
*
その夜、広間の片付けが終わった後。
ジュリアンは自室に戻った。
狭い部屋だ。執事としての地位にふさわしくない、質素な空間。だが、彼はそれを望んだ。豪華な部屋は、心を乱すから。
ジュリアンは机の引き出しを開けた。
そこには、小さなガラス瓶がある。
中には、透明な液体が入っていた。
彼はそれを手に取り、じっと見つめた。
これは、レオナールが他領に流している薬の、原液だった。
依存性が高く、一度使えば抜け出せなくなる。肉体を蝕み、精神を破壊する。
だが、それは同時に、すべてを忘れさせてくれる。
罪悪感も、後悔も、矛盾も。
すべてを。
ジュリアンは瓶の蓋を開けた。
そして、一滴だけ、舌に垂らした。
甘い。
まるで蜂蜜のように甘い。
そして、すぐに効果が現れる。
頭の中が、ふわりと軽くなった。
心臓の鼓動が、ゆっくりになった。
そして、何もかもが、どうでもよくなった。
レオナールの冷酷さも。
自分の罪も。
すべてが、遠くの出来事のように感じられた。
「……ああ」
ジュリアンは椅子に座り込んだ。
瓶を握りしめたまま、天井を見上げた。
そこには、何もない。
ただ、白い天井があるだけだ。
「私は、いつからこうなったのだろう」
彼は呟いた。
誰に聞かせるでもない、独り言。
「レオナール様と共に、この領地を守ると誓った。それは、間違っていなかったはずだ」
だが。
いつの間にか、守るべきものが変わっていた。
民を守るはずが、いつしか侯爵の秘密を守るようになっていた。
領地の繁栄を守るはずが、いつしか自分の立場を守るようになっていた。
そして今。
自分の正気を守るために、薬に頼るようになっていた。
「……もう、戻れない」
ジュリアンは目を閉じた。
薬の効果が、じわじわと広がっていく。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
そして、すべてが暗闇に溶けていった。
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