白百合侯の帳簿(リリウス・レジャー)

@kossori_013

第1話 白百合の朝

朝陽が大聖堂のステンドグラスを透かし、色彩の洪水が石畳を染める。青、紅、金。光は埃まで聖別するかのように輝き、ルクレティア公領の広場を神聖な舞台へと変えていた。


 群衆がざわめく。


「来られるぞ」

「白百合侯だ」


 噂は波紋のように広がり、やがて歓声へと変わる。広場を埋め尽くした民衆は、皆一様に首を伸ばし、大聖堂の扉を見つめていた。老人も子供も、商人も農夫も。この領地に住む者なら誰もが知っている。毎月の第一日曜日、侯爵レオナール・リリウスは必ず民の前に姿を現し、施しを与えるのだと。


 扉が開いた。


 歓声が爆発する。


 その瞬間、世界が息を呑んだ。


 白金の髪が陽光を受けて輝く。絹糸を何千本も束ねたような髪は肩まで流れ、一本一本が生きているかのようにきらめいていた。切れ長の瞳は透き通った青灰色で、見る者の心を射抜く。鼻筋は彫刻のように整い、唇は薔薇の花弁を思わせる淡い紅色だ。


 白いビロードの外套をまとい、胸元には百合の紋章を刺繍した銀糸が光る。優雅な足取りで階段を降りてくる姿は、まるで天使が地上に降り立つかのようだった。


「侯爵様!」

「白百合侯!」


 民衆の叫びが重なり合う。中には涙を流す者もいた。ある老婆は両手を組んで祈りの言葉を紡ぎ、ある若者は膝をついて額を地面に押し付けた。


 レオナールは微笑んだ。


 それは慈愛に満ちた、完璧な笑みだった。


「皆、よく集まってくれた」


 その声は朝露のように清らかで、それでいて広場の隅々まで届く不思議な響きを持っていた。


「今日もこうして、皆と共に朝を迎えられることを、私は心から感謝している」


 群衆がまた歓声を上げる。


 レオナールの背後には、黒いフロックコートに身を包んだ執事が控えていた。ジュリアン・ヴェルト。整った顔立ちと理知的な眼差しを持つ男だ。彼は主人の少し後ろに立ち、表情一つ変えずに群衆を見渡していた。


「本日も、神の恵みを皆と分かち合いたい」


 レオナールが手を挙げると、ジュリアンが合図を送る。すぐさま、白い制服を着た侍従たちが現れた。彼らの手には籠がある。中には焼きたてのパン、塩漬けの肉、小麦粉の袋。


「どうか受け取ってほしい。これは施しではない。共に生きる家族として、分け合うべきものだ」


 群衆が押し寄せる。


 侍従たちは手際よく食料を配っていく。受け取った者たちは歓喜の声を上げ、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます! 侯爵様!」

「神の祝福を!」


 レオナールは一人一人に目を向け、微笑みかけた。ある母親が幼い娘を連れて近づいてくると、彼は優しく膝をついた。


「こんにちは、お嬢さん。元気にしていたかな?」


 少女は恥ずかしそうに頷く。母親は感動のあまり言葉を失っていた。


「この子のために」


 レオナールは懐から小さな布袋を取り出し、少女の手に握らせた。中には銀貨が数枚入っている。


「勉強を続けるんだよ。君のような賢い子が、いつかこの領地を支えてくれることを、私は信じている」


「……はい!」


 少女の目が輝く。母親は嗚咽を漏らしながら何度も礼を言った。


 こうしたやり取りが何度も繰り返される。レオナールは疲れた様子も見せず、一人一人に丁寧に接した。彼の言葉には嘘がなく、その眼差しには真実の慈愛が宿っているように見えた。


 群衆の中には、涙を流しながら彼を見つめる者もいた。


「本当に、神様のようなお方だ……」

「この領地に生まれて、よかった」


 やがて施しが終わると、レオナールは再び群衆の前に立った。


「皆に伝えたいことがある」


 広場が静まる。


「この領地は、皆の努力によって支えられている。農夫の汗、商人の知恵、職人の技。そのすべてが、この繁栄を作り上げた。私はただ、それを見守り、少しばかりの手助けをしているに過ぎない」


 群衆がざわめく。


「だからこそ、私は誓う。この領地を、必ず守り続けると。皆が安心して暮らせる場所であり続けるよう、私は全力を尽くす」


 歓声が再び爆発した。


「侯爵様万歳!」

「白百合侯万歳!」


 レオナールは優雅に一礼すると、ゆっくりと大聖堂へ戻っていった。群衆は彼の姿が見えなくなるまで、歓声を送り続けた。



 大聖堂の奥、人目につかない回廊。


 レオナールは足を止めた。


 背後でジュリアンが扉を閉める音がする。静寂が訪れた。


 レオナールは懐から白い絹のハンカチを取り出すと、丁寧に両手を拭き始めた。指の間も、爪の周りも、念入りに。


「……汚れが移る」


 呟きは冷ややかだった。


 先ほどまでの慈愛に満ちた表情は消え、代わりに浮かんでいるのは退屈そうな、どこか嫌悪を含んだ顔だ。


「今日の群衆は特に臭かったな、ジュリアン」


「は」


 ジュリアンは淡々と答える。


「あの母親と娘、覚えているか?」


「はい。ロザリアという名の未亡人とその娘、エリーゼです」


「夫は?」


「三か月前、鉱山の事故で亡くなりました」


「ああ、あの時の」


 レオナールは満足そうに頷いた。


「薬の実験で使った坑道だったな。ちょうど崩落実験をしていた時期だ」


「はい」


「あの女、私の手を握った時の力がすごかったぞ。まるで溺れる者が藁にすがるような……」


 レオナールは口元に笑みを浮かべた。それは先ほどの慈愛に満ちた笑みではない。獲物を弄ぶ猫のような、残酷な笑みだった。


「必死だったのだろうな。夫を失い、娘を抱えて。あの銀貨で、せいぜい二週間は食いつなげるだろう。そしてまた、私の前に跪きに来る。何度でも、何度でも」


「侯爵様のご慈悲に感謝することでしょう」


「慈悲?」


 レオナールは声を出して笑った。


「慈悲などではない。これは投資だ、ジュリアン。あの女と娘を生かしておけば、他の民衆も希望を持つ。『侯爵様が助けてくださる』と信じ続ける。そうすれば、彼らは何も疑わない。鉱山の事故も、他領から流れてくる薬も、消えていく子供たちも」


 ハンカチを丸めると、レオナールはそれを床に投げ捨てた。


「すべては円滑に回り続ける」


 ジュリアンは黙って拾い上げる。その表情には、何の感情も浮かんでいなかった。


「今日の収支は?」


「北の薬の密売が順調です。先月比で三割増。疫病の噂が広がっているため、『特効薬』の需要が高まっています」


「ふむ」


 レオナールは窓辺に歩み寄った。そこからは広場が見下ろせる。民衆はまだ興奮冷めやらぬ様子で、受け取った食料を抱えて談笑していた。


「疫病か。いい機会だ。あの『特効薬』にもう少し依存性の強い成分を混ぜろ。一度使えば、二度、三度と求めるようになる」


「かしこまりました」


「それと、南の商人ギルドに圧力をかけろ。次の取引で価格を吊り上げる。あいつらは文句を言うだろうが、最終的には従う。従わざるを得ないからな」


「では、例の手段を?」


「ああ。長男の醜聞をちらつかせればいい。あの男、随分と派手に遊んでいるらしいからな。証拠はいくらでもある」


 レオナールはくすくすと笑った。


「人間というのは面白い。皆、誰かに縋りたがる。特に、美しいものに。だから私は、この顔を磨き続ける」


 窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、レオナールは満足そうに微笑んだ。


「完璧な聖人であり続けることが、最高の武器だ」


「侯爵様」


 ジュリアンが声をかける。


「午後には皇帝陛下の使者が到着します。準備を」


「分かっている」


 レオナールは踵を返した。


「宴の準備は万全か?」


「すべて整っております」


「料理は?」


「一流の料理人を三名、帝都から呼び寄せました」


「酒は?」


「陛下のお気に入りの銘柄を取り揃えております」


「音楽は?」


「宮廷楽団の首席奏者が参ります」


「よし」


 レオナールは廊下を歩き始めた。白いビロードの外套が、石畳の上を滑るように流れる。


「今夜は完璧な宴にする。使者を魅了し、皇帝陛下への忠誠を示す。そうすれば、帝国はこの領地を守り続けるだろう。私の善政を称賛し、私の繁栄を保証する」


「はい」


「そして私は、更なる富を得る。更なる力を得る」


 レオナールは立ち止まり、振り返った。


「ジュリアン」


「はい」


「お前は私を理解しているな?」


「もちろんです、侯爵様」


 ジュリアンの声には、かすかな疲労が滲んでいた。しかしレオナールは気づかない。気づいたとしても、気にも留めないだろう。


「ならばいい。お前だけが、私の真実を知る者だ。だからこそ、お前は私にとって貴重なのだ」


「光栄です」


「では、準備に戻れ」


「かしこまりました」


 ジュリアンは一礼すると、静かに廊下を去っていった。


 一人残されたレオナールは、再び窓辺に立った。


 広場の民衆は、まだ彼の名を口にしていた。賛美の言葉が、祈りのように繰り返される。


「白百合侯」


 レオナールは自分の称号を呟いた。


「清廉潔白。神聖不可侵。完璧なる聖人」


 彼は笑った。


 声を殺し、肩を震わせながら。


「愚かな羊どもめ。お前たちが崇める神は、悪魔そのものだというのに」


 笑い声が、誰もいない廊下に響いた。



 午後、城の厨房は戦場と化していた。


 料理人たちが怒鳴り合い、侍従たちが走り回る。巨大なオーブンからは肉の焼ける匂いが立ち上り、大鍋からはスープの湯気が噴き出していた。


「もっと火を強くしろ!」

「ソースの味見だ、早くしろ!」

「皿はどこだ、皿!」


 その喧騒の中を、レオナールは静かに歩いていた。


 料理人たちは侯爵の姿に気づくと、慌てて膝をついた。


「も、申し訳ございません! 私どもの無様な姿を……」


「構わない」


 レオナールは優雅に手を振った。


「皆、熱心に働いてくれているのだろう。それは素晴らしいことだ」


 料理人たちは感激のあまり、涙を浮かべた。


「ありがとうございます!」


「ただ……」


 レオナールは足を止めた。


 彼の視線が、一つのテーブルに向けられる。そこには、まだ盛り付けられていない料理が並んでいた。


「これは?」


 レオナールが指差したのは、鹿肉のローストだった。完璧に焼き上げられ、表面は飴色に輝いている。だが、付け合わせの野菜の一つ、人参が少しだけ焦げていた。ほんの僅か、一センチにも満たない焦げ。


「あ、これは……」


 料理長が青ざめた。


「申し訳ございません! すぐに作り直しを……」


「作り直す?」


 レオナールの声が、氷のように冷たくなった。


「作り直せば済むと思っているのか?」


「い、いえ、そのような……」


「皇帝陛下の使者を迎える宴だ。完璧でなければならない。完璧以外は、すべて罪だ」


 レオナールは皿を手に取った。


 そして、床に叩きつけた。


 陶器が砕け散る音が、厨房中に響く。


 料理人たちが息を呑んだ。


「お前たちは、私の期待を裏切った」


 レオナールの声は静かだが、その奥には激しい怒りが渦巻いていた。


「私は、お前たちに何を求めた? 完璧な料理だ。それだけだ。それすらできないのなら、お前たちに存在価値はない」


「申し訳……」


「黙れ」


 レオナールの眼差しが、料理長を射抜いた。


 その瞳には、先ほどまでの慈愛の欠片もない。そこにあるのは、冷徹な、まるで人間を見ていないかのような無関心だ。


「お前は、クビだ」


「え……」


「今すぐここから出ていけ。二度と私の城に足を踏み入れるな」


「侯爵様、どうか、どうかお許しを……!」


 料理長は床に這いつくばり、必死に懇願した。だがレオナールは、まるで虫を見るかのような目で彼を見下ろした。


「許し? 何を許せと言うのだ? お前の無能を? お前の怠慢を?」


 レオナールは踵を返した。


「ジュリアン、この男を追い出せ。そして、代わりの料理人を呼べ。帝都の一流料理人だ。金はいくらでも出す」


「かしこまりました」


 ジュリアンが合図すると、護衛たちが料理長を引きずっていった。男の悲鳴が、廊下に消えていく。


 残された料理人たちは、震えながら立ち尽くしていた。


 レオナールは彼らを一瞥すると、再び優雅な笑みを浮かべた。


「では、皆、引き続き頑張ってくれたまえ。今夜の宴は、完璧なものでなければならない。それができれば、私は皆に相応の報酬を与えよう」


「は、はい!」


 料理人たちは慌てて作業に戻った。誰も彼も、怯えた表情で。


 レオナールは厨房を後にした。


 廊下に出ると、彼は深く息を吐いた。


「……焦げた人参一つで、あの騒ぎか」


 ジュリアンが呟く。レオナールは肩をすくめた。


「完璧でなければ意味がない。それに、あの男は以前から気に入らなかった。太っているくせに、料理の味見をしすぎるのだ。見苦しい」


「では、新しい料理長は?」


「お前に任せる。ただし、痩せていて、従順な者を選べ」


「かしこまりました」


 レオナールは窓の外を見た。


 夕暮れが近づいている。空は茜色に染まり、城の尖塔が長い影を落としていた。


「美しい夕焼けだな」


「はい」


「この美しさを、私は守り続ける」


 レオナールは自分の手を見つめた。白く、細く、傷一つない手。


「誰が何と言おうと、私はこの領地を、この繁栄を、この美を守る。そのためなら、私は何でもする」


「……侯爵様」


「何だ?」


「使者が到着されました」


「そうか」


 レオナールは姿勢を正した。再び、完璧な聖人の顔に戻る。


「では、行こうか。今夜は、素晴らしい宴にしよう」


 彼は廊下を歩き始めた。


 白いビロードの外套が、夕陽を受けて金色に輝く。


 その背中を見つめながら、ジュリアンは小さく息を吐いた。


 彼の手は、かすかに震えていた。

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