第5話 暗殺者の夜

 夜が深まると、城は静寂に包まれる。


 廊下を巡回する護衛の足音だけが、規則正しく響いていた。


 レオナールは書斎で、帳簿に目を通していた。


 蝋燭の光が、数字の羅列を照らしている。収入、支出、利益。すべてが彼の掌の中にあった。


「北の薬の密売、今月は四千金貨の利益か」


 彼は満足そうに呟いた。


「南の人身売買は三千。東の密輸が二千五百。合計で九千五百……悪くない」


 羽根ペンを走らせ、数字を書き込んでいく。


 この帳簿は、誰にも見せない。ジュリアンでさえ、全貌は知らない。


 これは、レオナールだけの秘密だった。


 ふと、彼は手を止めた。


 廊下の足音が、いつもと違う。


 護衛の足音は重く、規則正しい。だが今聞こえる音は、軽く、不規則だ。


 レオナールは眉をひそめた。


 何かがおかしい。


 彼は静かに立ち上がり、机の引き出しを開けた。中には短剣がある。


 だが、それを掴む前に。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、使用人の服を着た男だった。


 三十代前半に見える。筋肉質な体つきで、目には強い意志が宿っている。


「誰だ、お前は」


 レオナールは警戒した。


「夜分に失礼いたします、侯爵様」


 男は丁寧に頭を下げた。


「新しく雇われた使用人でございます。夜の見回りを命じられまして」


「夜の見回りは、護衛の仕事だ」


「はい、その護衛の補助として……」


 男は近づいてきた。


 レオナールは後ずさった。本能が、危険を告げていた。


「それ以上近づくな」


「侯爵様」


 男は立ち止まった。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


 その目には、憎悪が燃えていた。


「私の名は、エドワード・マーシュ」


 レオナールの顔色が変わった。


「マーシュ……」


「ご存知のようですね」


 エドワードは、懐から短剣を取り出した。


「私の妻、アンナ・マーシュ。あなたが薬漬けにした女です」


 レオナールは息を呑んだ。


 アンナ・マーシュ。確かに覚えている。


 隣の領地の商人の妻だった。美しい女で、夫婦仲も良かった。


 だが、レオナールの流した薬に手を出し、あっという間に依存した。


 夫が助けを求めてきたが、レオナールは冷たく突き放した。


「あなたは、私の願いを聞き入れなかった」


 エドワードの声は、静かだが、怒りに震えていた。


「『自業自得だ』と言った。『薬に手を出したのは、お前の妻の責任だ』と」


「……それが何か?」


 レオナールは虚勢を張った。


「お前の妻が愚かだっただけだ。私に責任はない」


「責任はない?」


 エドワードは一歩踏み出した。


「あなたが、その薬を流したのに? あなたが、人々を依存させるために、わざと安く売りさばいたのに?」


「証拠はあるのか?」


「証拠など必要ない」


 エドワードは短剣を構えた。


「私は、あなたを殺すためにここに来た。それだけだ」


 レオナールは、机の方へ動いた。


 だが、エドワードの方が速かった。


 一瞬で距離を詰め、短剣を振り上げた。


「死ね!」


 刃が、レオナールの首筋を狙う。


 レオナールは反射的に腕を上げた。


 短剣が、彼の前腕に浅く切り込んだ。


「ぐっ……!」


 痛みと血。


 レオナールは悲鳴を上げた。


「助けて! 誰か! 誰か助けて!」


 彼の声は、裏返っていた。


 先ほどまでの威厳も、美しさも、すべて消え失せていた。


 そこにいたのは、ただ怯える一人の人間だった。


「護衛は来ない」


 エドワードは冷たく言った。


「眠り薬を飲ませた。今夜は、誰も邪魔をしない」


「やめろ……やめてくれ……」


 レオナールは後ずさった。


 背中が壁にぶつかる。逃げ場がない。


「頼む……命だけは……命だけは助けてくれ……」


 レオナールの目から、涙が溢れた。


 本物の恐怖が、彼を支配していた。


「私は……私はまだ若い……死にたくない……」


「アンナも、そう言っていた」


 エドワードは短剣を向けた。


「『死にたくない』と。『助けて』と。だが、誰も助けなかった。あなたも、助けなかった」


「すまなかった! 本当にすまなかった!」


 レオナールは床に這いつくばった。


「謝る! 何でもする! 金か? 金なら払う! いくらでも払う!」


「金など要らない」


「では、何が欲しい! 言ってくれ! 何でも与える!」


 レオナールの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。


 美しさの欠片もない、醜い顔。


「私が欲しいのは……」


 エドワードは、短剣を振りかぶった。


「あなたの命だ!」


 刃が、レオナールの心臓を目がけて突き進む。


 レオナールは目を固く閉じた。


 そして、恐怖のあまり。


 温かい液体が、股間から流れ出した。


 小便だった。


 レオナールは、恐怖で失禁していた。


 ズボンが濡れ、床に水たまりができる。


 その瞬間。


 エドワードの動きが止まった。


 いや、止まったのではない。


 動けなくなったのだ。


「……な、何だ……?」


 エドワードは自分の体を見下ろした。


 手が、震えている。足が、痺れている。


 全身から、力が抜けていく。


「これは……毒……?」


「そうだ」


 レオナールが、顔を上げた。


 その表情は一変していた。


 恐怖も、涙も、すべて消えていた。


 代わりに浮かんでいるのは、冷たい笑みだった。


「毒針だ」


 レオナールは立ち上がった。


 右手に、小さな針が握られている。エドワードが最初に彼の腕を切った時、その瞬間にレオナールの手が動いていた。


 見えないほど素早く。


 そして、エドワードの太腿に針を刺していた。


「お、お前……演技を……」


「そうだ」


 レオナールは針を捨てた。


 そして、濡れたズボンも気にせず、エドワードの前に立った。


「すべて演技だ。怯え、泣き、命乞いをする。それがお前の油断を生む」


「……卑怯な……」


「卑怯?」


 レオナールは笑った。


「生き残るためなら、何でもする。それが私だ」


 エドワードの体が、がくりと崩れた。


 毒が全身に回り、もはや立つこともできない。


「ちなみに、この毒は私の特製だ」


 レオナールは、勝ち誇ったように言った。


「麻痺するが、死にはしない。なぜなら、お前にはまだ役割があるからだ」


「やく……わり……?」


「そうだ。お前は、これから見せしめになる」


 レオナールは扉を開け、叫んだ。


「護衛! 来い!」


 すぐに、重い足音が響いた。


 護衛たちが駆けつけてくる。


「侯爵様!」


「暗殺者だ」


 レオナールは、倒れたエドワードを指差した。


「この男が、私を殺そうとした」


 護衛たちは驚愕の表情を浮かべた。


「な、なんということを……!」


「すぐに捕らえろ。そして、牢に入れろ」


「かしこまりました!」


 護衛たちが、エドワードを引きずっていく。


 エドワードは、もはや抵抗する力もなかった。


 ただ、最後にレオナールを見た。


 その目には、憎悪と後悔が混ざっていた。


 レオナールは、優雅に手を振った。


「さようなら、エドワード・マーシュ。お前の妻によろしく。地獄でな」



 翌朝。


 城の中庭に、群衆が集められた。


 何が起こるのか、誰も知らなかった。


 やがて、レオナールが現れた。


 右腕には包帯が巻かれている。顔色も優れず、疲労の色が濃い。


 だが、その姿がかえって人々の同情を誘った。


「侯爵様、お怪我を……」


「大丈夫なのですか……」


 心配の声が上がる。


 レオナールは、弱々しく微笑んだ。


「皆さん、ご心配をおかけして申し訳ありません」


 その声は、いつもより弱々しかった。


「昨夜、私は暗殺者に襲われました」


 群衆がざわめいた。


「暗殺者?」

「誰が、そんなことを!」


「彼の名は、エドワード・マーシュ」


 レオナールは悲しそうに言った。


「隣の領地の商人です。彼の妻が薬物中毒になり、それを私のせいだと思い込んだようです」


「なんと……」


「私は、彼の妻を助けようとしました。治療費も提供しました。ですが、彼女の症状は重く……」


 レオナールは言葉を詰まらせた。


「私の力不足でした。彼女を救えなかった。それが、彼の怒りを買ったのです」


 群衆から、同情の声が上がった。


「侯爵様は悪くありません!」

「あなたは、できる限りのことをされた!」


「ありがとうございます」


 レオナールは涙を浮かべた。


 計算され尽くした涙だった。


「ですが、私は思うのです。もっと早く、もっと強く、彼女を助けるべきだったと」


「侯爵様……」


「だからこそ、私は誓います」


 レオナールは拳を握りしめた。


「この領地から、薬物を根絶すると。二度と、このような悲劇を生まないと」


 群衆は、感動のあまり涙を流した。


「侯爵様、万歳!」

「白百合侯、万歳!」


 歓声が響く。


 レオナールは満足そうに微笑んだ。


「では、暗殺者を連れてこい」


 護衛たちが、エドワードを引きずってきた。


 彼は既に半死半生の状態だった。拷問を受けたのだろう。体中に傷があり、血まみれだった。


 群衆が、罵声を浴びせた。


「恩知らずめ!」

「侯爵様を殺そうとした罪人!」

「死刑にしろ!」


 レオナールは、エドワードの前に立った。


「エドワード・マーシュ」


 その声は、優しかった。


「私は、あなたを赦します」


 群衆が息を呑んだ。


「あなたは、愛する妻を失った悲しみで、正気を失っていた。それは仕方のないことです」


「侯爵様……なんと慈悲深い……」


 群衆は感動していた。


 だが、レオナールは続けた。


「ですが」


 その声が、冷たくなった。


「法は法です。暗殺未遂の罪は、重い」


 レオナールは宣告した。


「エドワード・マーシュ。あなたを、市中引き回しの上、打ち首とする」


 群衆は歓声を上げた。


 エドワードは、もはや何も言えなかった。


 ただ、虚ろな目でレオナールを見つめるだけだった。


「ああ、待て」


 レオナールは思い出したように言った。


「その前に、一つだけ」


 彼はエドワードの前に膝をついた。


 そして、囁いた。


 群衆には聞こえない、小さな声で。


「お前の妻、アンナは美しかったよ。薬に溺れて、私に懇願する姿は特に」


 エドワードの目が、見開かれた。


「私は、彼女を抱いた。何度も。薬を与える代わりに、体を差し出せと言った。彼女は従った」


「……っ……」


 エドワードの口から、血の混じった唾が漏れた。


「その時の彼女の顔は、忘れられない。絶望と快楽が混ざった、素晴らしい表情だった」


 レオナールは立ち上がった。


「では、刑の執行を」


 護衛たちが、エドワードを引きずっていく。


 群衆は歓声を上げ続けた。


 レオナールは、優雅に手を振った。


 その顔には、完璧な笑顔が浮かんでいた。



 その夜。


 レオナールは浴室にいた。


 昨夜の失禁で汚れた体を洗い流していた。


 湯気の中で、彼は鏡に映る自分を見つめた。


「……情けない姿だったな」


 彼は呟いた。


「小便を漏らすなど」


 だが、すぐに笑った。


「しかし、それが役に立った。あの演技があったからこそ、暗殺者は油断した」


 レオナールは湯に浸かった。


「恐怖も、涙も、すべては道具だ」


 彼は天井を見上げた。


「私は、どんな状況でも生き残る。どんな手を使ってでも」


 その時、扉が開いた。


 ジュリアンが入ってきた。


「侯爵様、報告があります」


「何だ?」


「エドワード・マーシュ、刑が執行されました」


「そうか」


 レオナールは無関心に答えた。


「最期に何か言っていたか?」


「いえ。ただ、あなたの名を呪っていました」


「呪い?」


 レオナールは笑った。


「呪いなど、何の役にも立たない。彼は死に、私は生きている。それがすべてだ」


 ジュリアンは黙っていた。


 レオナールは湯から上がった。


「ジュリアン」


「はい」


「今夜の私の姿を見たな」


「……はい」


「あれが、私の真実だ」


 レオナールは体を拭きながら言った。


「美しさも、威厳も、すべては仮面だ。だが、その下には生き残るための獣がいる」


「侯爵様……」


「お前は、それを軽蔑するか?」


 ジュリアンは、しばらく沈黙していた。


 やがて、彼は答えた。


「いいえ。それが、侯爵様です」


「そうだ」


 レオナールは満足そうに頷いた。


「私は、聖人でも悪魔でもない。ただの生存者だ」


 彼は寝室へ向かった。


 ジュリアンは、その背中を見送った。


 そして、一人になると。


 彼は懐から、小さな瓶を取り出した。


 薬だ。


 今夜も、これがなければ眠れない。


 ジュリアンは瓶の蓋を開け、一滴を舌に垂らした。


 甘い。


 そして、すべてが遠くなる。


 レオナールの醜さも。


 自分の罪も。


 すべてが。


「……私も、生存者なのだろうか」


 ジュリアンは呟いた。


 答えは、なかった。


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