美しい音楽を聴くと死にたくなるのは何故だろう
@AsuAsaAshita
月の光
あれはなんだったっけ。
昔聴いていた曲、クラシックの曲。思い出せない。
昔の楽しい記憶、楽しかった記憶。それを思い出せないまま大人になって、嫌なこと、苦しいことが私の人生に積み上がっていった。常に頭に煙が巻かれたような、そんな原理不明の苦しさが身を襲っていた。
社会で生きても、どこで生きても、私は私でない気がした。消えたかった。どこかはわからない、どこか遠くへ消えたかった。
でも、そんな勇気も勇敢さも備えていない。備え方も知らない。つまり、私は何者にもなれないし、何者かになる勇気もない。
無名の誰かとして生きていくもの。心苦しい、まったくもって滑稽で愚かな存在に身を置いてしまっていた。
カフェに入った理由などなかった。
でも、そこで聴こえた。
「月光」
それを聴いたとき、すべてを思い出した。
昔、音楽の授業で聴いて、頭から離れなくなった曲だ。
なぜ忘れてしまったのだろうか。
それから毎日、その曲を聴くようになった。
会社へ行くときも、帰るときも、ずっと聴いていた。
そして思った。この曲が似合う場所、もっとも美しく映える場所で死にたいと。
そこからは早かった。
そんな場所を検索し、予定を立て、飛行機の予約をした。
会社は辞めた。どうでもよかった。
死ぬことを目標とすると、私はなぜか、ほかの何よりも活力にあふれる行動ができた。
飛行機の外から白、青、緑の風景が見えた。
こんなに世界は美しいのに、なぜ私の心は泥水のような、汚物のような色なのだろう。
目的地へ着いた。北欧の小さな田舎。観光客もめったに寄らない秘境だった。
私はイヤホンで曲を聴きながら、その大地に降り立ち、全身で風を浴びた。
涙があふれた。心が洗われるようだった。
ここがいい。そう思った。ここで死にたい、と本心が叫んでいた。
宿に荷物を置き、私は歩いた。
目的地は湖のほとり。
昼間見た地図では、町から徒歩で二十分ほどの場所にあるという。
靴底が凍った道を叩く音だけが響く。
空には月があった。信じられないほど静かな夜だった。
耳を澄ませば、自分の鼓動すら音楽のように聞こえた。
イヤホンから月光が流れる。
私の精神と世界と音楽がひとつになって、まるでそうするのが決められていたみたいな、そんな美しさだった。
湖畔に足をつける。このまま沈んで、世界のひとつとなる。
そうしようとした。
笑い声がした。
横からだ。見ると、女の子がいた。
私だ。昔の私がいた。手のひらに水をすくって、まいていた。
「ねえ」
「……なあに?」
「少し歩かない?」
その子はうなずいた。
私たちは手をつないで歩いた。
何分かわからないけれど、時間が止まったように静かだった。
私の足音だけが聞こえた。
「あなた、夢はある?」
私は聞いた。
その子はうん、と答えた。
「なに?」
「わたしね、月光って曲が大好きで。だから、将来大人になったら、その曲とか、私の好きな曲を弾いて、みんなに大好きな音楽を聴いてほしいの」
そう聞いて、私は気づいたらその子を抱きしめていた。
「ごめん、ごめんね……私はあなたが言った人になれなかった。
私はあなたを忘れて、どうしようもない大人になってしまった。
ごめんなさい、ごめんなさい……」
涙と鼻水が、堰を切ったようにこぼれた。
謝り続けた。謝ることしかできなかった。
その子は微笑んで、私の頭を撫でた。
「いいんだよ。ありがとう、思い出してくれて。ありがとう、ここへ来てくれて。
ねえ、ほんとうにきれいだよね、世界って」
「……そうだね、ほんとうに美しいね」
その子はいってしまった。
私は何時間か、そこに座ってぼーっと湖畔を眺めていた。
そして立ち上がって、宿へ帰った。
ずっと月光を聴いていた。
何故か頭の煙が晴れて、死ぬことは頭から消え去っていた。
美しい音楽を聴くと死にたくなるのは何故だろう @AsuAsaAshita
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