第2話

 夜中に目を覚ました慎太郎しんたろうは、同じベッドにいる千陽路ちひろが深く眠っているのを見守った。

 起きる気配はないことを確認して、自分の空腹に気付いた慎太郎だったが、まさかこんな夜中に家人を叩き起こして何か食べ物を用意させるのも気が引ける。そもそも彼は人にかしずかれることに今になっても慣れない。

 しかし、正直腹が減っているので、さて、どうしようかと思って何気なく部屋を見渡していると、ソファーセットのローテーブルに何かが置かれているのが目にとまった。

 近付いてみると、握り飯と切り干し大根とポットに入ったお茶だった。

祐佑ゆうすけか……あいつ、気が利くなぁ」

 慎太郎は呟いて、ありがたくその夜食を食べた。

 慎太郎がこの屋敷に暮らし始めた当初。祐佑は慎太郎が、本当にこの男はいつ休んでいるのかと不思議に思うほど、常に慎太郎の側に控えていた。

 子供の頃から個室が与えられていた慎太郎であったから、常に人が側にいること自体がかなりのストレスだった。

 幾度か、やんわりと少し一人にして欲しい旨を伝えたこともあったのだが、いかんせん、この祐佑という男は空気が読めないところがあって、まったく通じなかった。

 そしてとうとうキレた慎太郎が、かなりきつく叱責したことでようやく今のようにある程度一人の時間を持つことができることとなったのだった。

 夜食を食べ終え、ベッドを見ると小さな千陽路が眠っている。

 それを見やった慎太郎はふっと笑んで、その隣に潜り込みもうひと眠りすることにした。


「おはよう、千陽路……」

「……」

「……よく眠れた?」

 千陽路はこくりとうなずいた。

「お腹空いただろう? 朝ゴハン食べよう。おいで……」

 千陽路がベッドを降り、トコトコと慎太郎の方へ歩いて来たので、手を繋ぎ扉を開けると予想通りそこには祐佑が控えていた。

「おはよう、祐佑。夜食ありがとうな」

「恐れ入ります、慎太郎さま。ご朝食になさいますか?」

「うん」

「かしこまりました」

「千陽路にも何か食べやすい物用意してあげてくれ」

「はい……」

「何か、言いたそうだけど、後でゆっくり聞く」

「……かしこまりました」

 食事をとるための座敷は庭に面していて、窓からの日差しが溢れんばかりだった。

 料理を作ることも術者の修行の一環と捉えられているので、三度三度の食事は贅沢なものではなかったが、見栄えも美しく、手は込んでいる。

 本来は精進潔斎を良しとし、肉や魚は避けられていたのだが、現当主である慎太郎はこの世界に入って日も浅く、それまでの生活習慣や年齢のこともあって、彼の食卓には肉や魚が用意される。

 今朝も焼き魚や卵焼きといったものが並んでいる。

 千陽路のための膳も用意されていた。

「千陽路。魚食べられるか?」

 千陽路はこくりとうなずく。

「偉いなぁ……骨、取ってやろうな」

「慎太郎さま、私が……」

「いいって、祐佑。俺がやる」

 言って、慎太郎は器用に千陽路の皿に盛りつけられた鮭の西京焼きを食べやすいようにほぐしてやった。

「ほら、千陽路。食べて」

 千陽路はまだあまり上手に箸が使えないのか、不器用な箸使いで慎太郎がほぐした魚を食べ始めた。

「千陽路は偉いなぁ……好き嫌い無いんだなぁ……」

 しばらくそれを愛おしそうに見ていた慎太郎だったが、自身も食事を始めた。

「祐佑。今日、何か依頼入ってる?」

「いえ……本日はごゆっくりお過ごしくださいませ」

「だったら、朝の祈祷終わったら買い物に行くよ。千陽路に服とか買ってやらないといけないし……」

「慎太郎さま……」

「……あとで、な……」

「……はい」

 慎太郎が先に食事を終え、まだ箸と格闘している千陽路を見守っていると、彼女もようやく食事を終えた。

「千陽路。ちょっとお仕事があるんだ。千陽路はここでこのお兄ちゃんと待ってて」

「……」

「すぐ戻るよ。お仕事なんだ。千陽路はいい子だから待てるだろ?」

 慎太郎がそう言うと、千陽路は祐佑を見上げる。

 子供と接したことのない祐佑だが、慎太郎の命であるので引きった笑顔を浮かべた。

「祐佑。言っておくが、千陽路に余計なことを言うなよ。いいな?」

「かしこまりました」

 祐佑にはここまではっきりと物を言わないと通じないことはわかっていたので、慎太郎はきつめに命令をしたのだった。

「行ってくるよ、千陽路。本当にすぐに戻るから、ちょっとだけ待ってて。帰ったらお買い物に行こう。服とかおもちゃとか、買ってあげるよ」

「おもちゃ?」

「おもちゃでも、お菓子でも。なんだって買ってあげるよ。一緒に買いに行こう。だから、待ってて」

 千陽路がうなずいたので慎太郎は廟に向かった。

 朝晩の祈祷だけは欠かせないのに、昨夜は結局できなかった。

 それもあって、慎太郎は普段よりも時間をかけて祈祷を執り行った。


「切り揃える感じでいいんですね?」

「はい、それでお願いします」

 朝の祈祷が終わって、祐佑にクルマを出させて、千陽路を連れた慎太郎がまず向かったのは美容院だった。

 千陽路は緊張の色を隠せないまま、椅子に座っている。

「千陽路。ちょっとじっとしてるんだよ」

 慎太郎の言葉に千陽路はこくりとうなずいた。

 鏡越しに慎太郎は千陽路の髪が切り揃えられていくのを見ていた。

 そして待つほどのこともなく、美容師が口を開く。

「こちらでよろしいですか?」

「はい。ありがとう」

 ケープを外してもらった千陽路はぴょんと椅子から飛び降り、慎太郎にまとわりつく。

「よくがんばったな、千陽路。偉いぞ」

 慎太郎の言葉に千陽路はこくりとうなずいた。

「次はお洋服買いに行こうな」

 慎太郎が言って、会計は祐佑が済ませる。

「銀座のデパートに行ってくれ」

「かしこまりました」

 クルマに乗り、銀座のデパートへ向かうと、三人は子供服売り場に直行した。

「うん。これ、すごくかわいいな」

 ピンク色の、フリルが付いたドレスを千陽路に当てて、慎太郎が言った。

「このピンクのドレスと……こっちの水色のももらおうかな。何か、アリスみたいでかわいいし……ドレスばかりじゃ何だから……少しスポーティーなものもいくつか見繕ってくれますか?」

「かしこまりました」

 上客と見たのか、店員は至極丁寧に対応してくれる。

「お嬢様はおかわいらしいお顔立ちでいらっしゃいますから、アイボリーのポロシャツに濃紺のチノパンなどいかがですか?」

「うん……適当に見繕って。とにかく、数が欲しいから……とりあえず、これからしばらく間に合うようにしてもらえますか」

「さようでございますね……」

 慎太郎の言葉に店員は喜んで色々と見繕ってくれた。

 あれやこれやと山のように服を買って、今度は祐佑はクレジットカードで支払いをする。

「さてと……大荷物だなぁ……祐佑。ちょっとこれ、クルマに運んできてくれないか?」

「しかし……慎太郎さまのお側を離れるわけには参りません」

 そら、来た。

 と、慎太郎は思った。

「いいから。持って行ってくれ。俺と千陽路はおもちゃ売り場にいるから、荷物置いてから来てくれればいい。知っての通り、俺は自分の身くらい守れる」

「……かしこまりました」

 慎太郎が祐佑を追い払って何がしたかったかと言うと、とある人物に連絡をしたかったのだ。

 慎太郎は携帯を取り出し、電話をかける。

「……あ、俺……うん……久しぶり……ちょっとさ、相談に乗って欲しいことがあってさ、忙しいのはわかってるんだけど、銀座の三越に来てくれないか? ありがとう。恩に着るよ……え? 祐佑? ああ……ちょっと追っ払った。あいつはアタマが堅いからさ……うん、じゃあ、後で」

 慎太郎は電話を切り、足元の千陽路に笑いかける。

「今からおもちゃ屋さんに行こうな」

 千陽路はこくりとうなずいた。


「ああ、戻ったか。祐佑。ありがとう」

 山ほどの洋服をクルマに運んで、祐佑が合流した時、千陽路は服を買っていた時よりも嬉しそうにおもちゃを選んでいた。

「千陽路。どれ買ってもいいんだぞ? 好きなの何でも選べよ」

「ほんと?」

「ホントだよ」

 千陽路がやっと口を開いてくれたことにホッとしながら、慎太郎は笑みを浮かべた。

「このお人形さんは何て言うお名前?」

「りかちゃん……」

「リカちゃん。おうちに来てもらおうか?」

「うん」

「着せ替え人形か……服も買ってあげないとな……リカちゃんどれが好きかな?」

「りかちゃん、このぴんくのすき」

「さっき千陽路が買った服みたいだ。おそろいだ」

「おそろい」

 千陽路は嬉しそうに笑った。

 思い起こせば慎太郎が千陽路の笑顔を見るのは初めてだった。

 やっと、笑ってくれたと慎太郎はホッとした。

「お洋服、一枚だけじゃリカちゃんかわいそうだから、他のお洋服も買ってあげようか。リカちゃん、どれがいいって言ってる?」

 千陽路は悩む様子を見せた。

「千陽路。リカちゃんが欲しいの、全部買ってあげよ?」

「……」

「いいんだよ。リカちゃん喜ばせてあげような?」

 慎太郎の言葉に千陽路は嬉しそうに笑った。

 こんな笑顔が見られるなら、着せ替え人形の服くらい全部買ってやりたいと、慎太郎は思った。

「なあ、千陽路……リカちゃんだけでいいのか? 他にも何か……って言うか……これって、人形の家だよな? ……千陽路。これ、リカちゃんのおうち?」

「うん」

「よし。おうちも買ってあげようよ。何か、色々あるんだな。なあ、千陽路。リカちゃんはどのおうちに住みたいって言ってるか教えてくれるかな?」

「あのね……これ」

 千陽路が指差したのは二階建てにしつえられたドールハウスだった。

「そうか。これだな。リカちゃんきっと喜ぶぞ……」

 慎太郎の言葉に千陽路は笑顔を見せる。

「そうだ。リカちゃんはお友達欲しくないかな?」

「りかちゃん、いもうと、いるの」

「妹?」

「ふたごなの」

「じゃあ、その子たちもおうちに連れて帰ってあげよう? お洋服も買って」

 慎太郎がそう言うと、千陽路は本当に嬉しそうに笑った。

 慎太郎は人形の他にも木製のおままごとセットだの、オーガニックのぬいぐるみなどを見繕い、会計を祐佑に任せた。

 またもや、大荷物だ。

「さてと……祐佑。お前は今日はもう松岡家本家に帰ってくれ」

「慎太郎さま?」

「……俺は、さっき誠志朗せいしろうに連絡したんだよ。これからのことをあいつに相談したいんだ。あいつは俺がこの世で一番信頼してる相手だ。お前はこの子のことで色々言いたいんだろうけど、この場は遠慮してくれ」

「慎太郎さま……」

「帰りはあいつに送ってもらう。お前はとにかく、荷物を持って松岡家まつおかけ本家に先に戻ってくれ。結果は報告する。行ってくれ」

「ご命令とあらば……」

「ああ。命令だ」

 命令などしたくはない。

 しかし、祐佑相手であればそれも仕方がない一手だ。

 祐佑は速やかに姿を消した。


「よっ! 久しぶり!」

 デパート最上階にある大食堂。

 慎太郎は千陽路を連れてそこへ食事と待ち合わせのためにやって来ていた。

 そのテーブルに音もなく近付いた男が唐突に声をかけた。

「誠志朗! 久しぶりだな……」

 そう。

 どのくらいぶりになるか。

「……なんか……あんた、迫力増したんじゃないか?」

「そりゃな……仮にも誠心会せいしんかい総長さまだぞ」

 言って、誠志朗は椅子に腰を下ろした。

「俺、こんなデパートの大食堂なんか、初めてだよ……」

 さもありなん。

 決して長くはなかった付き合いの間、ともに食事をする機会は何度もあったが、彼に連れて行ってもらったのは、どこも慎太郎が足を踏み入れたこともないような高級店ばかりだった。

「良かったじゃないか、初体験だ」

 そう言って、慎太郎は笑う。

「違いない」

 誠志朗も笑う。

 その笑顔を見て、外見は確かに迫力が増したものの、この誠志朗という男の根本のところがまったく変わっていないことが慎太郎にはわかる。

「忙しいのに呼び出して悪かったな。広瀬ひろせさんは?」

「広瀬? 地下の駐車場だよ。まさか、こんな場所に連れては来れないからな。って、禁煙かよ、ここ」

「禁煙に決まってるだろうが。子供も来るんだぞ?」

「メシ食ってタバコ吸えないなんて、これ以上ない拷問だよ」

 誠志朗はそう言って愚痴った。

「この階に喫煙所あるからさ……」

「わざわざ行くのが面倒なんだよ……で? ここの店員はオーダーも取りに来ないのか」

「だから。入り口で食券買って……って、わかった。俺が行ってくる。何にする?」

「ブランデー……は、ないか……ビールでいいよ」

「メシは?」

「いらない」

「わかった……で、誠志朗。気付いてないみたいだけど、そっち、見て」

 慎太郎の言葉に彼が指し示す方向を見やった誠志朗は、千陽路の姿を見て目を丸くした。

「……なんで、子供が……」

「この子の話がしたかったんだ。取りあえず、ビール買ってくるから、ちょっとだけ待っててくれよ」

「待て! ちょっと、待て! 俺は、子供と話したことなんかないぞ」

 珍しく狼狽うろたえた様子を見せる誠志朗に、慎太郎は言い捨てる。

「すぐ戻る」

「おい! 慎太郎!」

 顕かに、慌てふためいている誠志朗という、かなりレアな状況だったがゆっくり堪能してもいられず、慎太郎は出入口まで戻って食券を買い、スタッフに渡して席に戻った。

 そこでは、顔に憮然と書いているような表情を浮かべた、これまたレアな誠志朗がいた。

「ビール、頼んできたよ」

「……お前さんなぁ……」

 しれっと言った慎太郎に、憮然とした表情を浮かべたまま、誠志朗は言った。

「……面白がってるだろう?」

「まぁ、珍しいものを見せてはもらった」

「性格、悪くなったんじゃないか?」

「あの家で生活してりゃ、多少はな……」

「……ったく……」

 そこへ、スタッフが旗の刺さったいわゆるお子様ランチと、ミックスフライ定食とビールを運んできた。

「来た来た。千陽路。お子様ランチだよ。エビフライに、ハンバーグに、ウインナーもあるな。ゴハンはチキンライスかな? 旗もあるなぁ……おいしそうだよな。全部食べられるか?」

 千陽路は初めて会う誠志朗に緊張しているのか、こくりとうなずくだけだった。

 もちろん、笑顔も見せない。

「じゃあ、いただきますして、食べて。このお兄さんは、俺の仲良しの友達だ。すごく優しいから、大丈夫だよ」

 慎太郎が優しくそう言うと、千陽路は聞こえないほどの声でいただきますと言ってフォークを手にした。

「偉いな、千陽路。ちゃんと食べるんだぞ……で、誠志朗……」

「ああ。この状況は要説明だな」

「千陽路がいるから、今、詳しくは話せないんだ。あとでゲームコーナーに連れて行って、そこの遊具で遊んでる隙に話すよ」

「……何があったか知らないが、相も変わらず、色んなモン背負ってるな、お前さんは」

 誠志朗のこの言葉に慎太郎は笑いだした。

「何言ってんだか。あんたにだけは、言われたかないよ」

「それもそうか」

 誠志朗は笑ってジョッキのビールをほぼひと息に飲み干した。

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