第2話 ☆序章 すべてが始まる前の夜に②
館の中は息を潜めたかのように静まり返っていた。
剥げ落ちた油絵と、埃と鉄錆のにおいが鼻を刺す。
(……嫌だな、この空気。絶対ロクでもない)
こんな気配の夜には、決まって誰かが命を落としていた。
幾百もの転生で研ぎ澄まされた第六感が、警鐘を鳴らしている。
やはり、みんなを連れてこなくて正解だった。
燭台の揺らめき、伸び縮みする影、そして——かすかな泣き声。
姫さまは、生きている。
その確信だけがボクの足を前へ押し出した。
泣き声を頼りに薄闇を踏みしめる。気配を殺し闇をすり抜け、時に手刀で敵を眠らせながら、一歩ずつ進む。
そして辿りついた三階——最奥の扉の前。ゆらめく松明の影の中に、二つの人影が浮かんでいた。
(ブッ!? 黒覆面!?)
そこにいたのは黒覆面・黒ローブという、今どき物語でも滅多に見ない古典的衣装に身を包んだ教団員たち。
視界悪いだろ……と突っ込みたくなる格好だが、こちらとしては好都合だった。
ただ、どうにも引っかかる。静かすぎる。灯りの配置が妙に不自然だ。そして、何より——
人間の気配なのに、呼吸のリズムだけが揃いすぎている。
まるで、誰かに歩調を合わせられているような——そんな、訳のわからない不気味さ。
(この気配、昔どこかで……いや、それは後だ!)
本来なら即座に察するべきだった。この“雰囲気作り”そのものが罠だったと。
足音を忍ばせ、呼吸を合わせて一気に背後へ滑り込む。すれ違いざま、ふたりの急所に手刀を叩き込む。二つの影は音もなく崩れた。
(……よし。って、自分を褒めてる場合じゃない!)
不意打ちには強いが、見切られたらそれまで。油断は大敵だ。
倒れた教団員を暗がりへ引きずり込み、素早く縛り上げる。
騒がれては困るし、何より——姫さまがもっと泣いてしまう。
扉をそっと押し開くと、中で教団員がうたた寝をしていた。
気づかれる前に一気に距離を詰め、こめかみ目掛けて手刀を叩きつけた。頭から崩れ落ちかけたその体を素早く支え、床へ静かに横たえる。
(ふぅ……っと、まだ油断しちゃいけない!)
気を引き締めて室内を見渡した。床には薄赤い線で描かれた複雑な模様。
この世界に魔法はない。
だからこれは、ただの“魔法陣みたいな落書き”。けど雰囲気作りとしては満点だ。そしてその中心に——
「……姫さま」
粗末なベビーベッドで、赤ん坊が泣き続けていた。目は腫れ、声は掠れ、それでも必死に泣いている。
「大丈夫。迎えに来ましたよ。さ、帰りましょうね」
そっと抱き上げた瞬間——胸の奥が、じんと温かくなった。
抗えないほどに。
(……な、に……これ?)
触れられたわけでもないのに、柔らかな手で優しく抱きしめられたような感覚。懐かしくて、切なくて、少し怖い。
不可思議な感覚に戸惑っている間に、姫さまは次第に泣き声を弱め——
こちらを探すようにその目を揺らすと、ボクを見つめてふわっと微笑んだ。
(か、かわ……! 遊んであげたい!)
思わず頬が緩む。でも、立ち止まってはいられない。一刻も早く連れ帰ってあげないと。
扉に手をかけた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
このまま部屋を出てはいけない——
本能が、そう訴えてくる。
それに、この子に傷をつけないよう密林を抜けきる自信が正直なかった。
腕の中で、にこにこと微笑む姫さまを見ながら思考を巡らせる。
分かっている。世界の理に逆らえば、その代償はいつだって容赦なく取られてきた。
それでも。
(小さな命を守れるなら……)
ボクは禁忌に手を伸ばす。
「さぁ、姫さま。少し眠りましょう。次に目を覚ますときは……お城ですよ」
防御の魔法をそっとかける。柔らかな光が姫さまを包み、寝息が静かに落ちた。
その温もりを抱いて、ボクは館を後にした。
◇ ◆ ◇
密林を駆ける。祈るような思いで騎獣を急かす。枝が頬をかすめ、夜鳥が闇を裂いて飛び去る。
——その時だった。
風切り音。ひゅっと空気が震え——次の瞬間、四方から放たれた矢が背を、腕を容赦なく貫いた。
「っ……!」
視界が白く爆ぜる。痛みは刃ではなく、炎柱のように全身を焼いた。
(油断……したっ! 罠……気づくべきだった!)
扉を出たまさにあの瞬間——
前触れなく無数の矢が放たれた。
身体を穿たれながらも、姫さまを抱えて密林へ逃げ込む。
が、追撃は止まなかった。身を丸め、矢雨の隙を縫い、血で揺らぐ視界を叱咤して走る。
(お願い……まだ……落とすわけには!)
腕の中の小さな温もりだけは、絶対に離さなかった。
闇を裂き、霧を抜けた先で、砦の灯が見えた。
「はあっ、はあっ、……か、開門! 早く……!」
扉が軋み、開く。力が抜け騎獣から崩れ落ちる。それでも、姫さまだけは地に触れさせない。
「シューハウザー様!?」「救護班急げ!!」
ざわめく声に、ボクは首を振った。分かっていた。もう——
「……いい……手遅れだ……」
騒ぎが凍りつく。夜気と血の匂いだけが残る。
(みんなとも……ここでお別れか……)
何度も経験した『終わり』の感覚。だが今回は、胸が強く締めつけられる。
(ヴァリター……どこ……?)
人垣を割り、ヴァリターが駆け寄る。涙に濡れた顔でボクを抱きとめた。
「……姫さまを……頼む……」
震える腕で、おくるみを差し出した。
返り血ひとつ浴びていない、穏やかな寝顔。その無事を確認した瞬間、力がほどける。
(よかった……もう……大丈夫……)
「シ……シューハウザー様……行かないでくれ……俺は……あなたを失いたくないんだ!」
(いつもは冷静すぎるくらいなのに……こんなに子供みたいに泣くんだ……)
震える声が耳に触れるだけで、不思議と心が安らいだ。
泣き叫ぶ声が、遠ざかっていく。
(みんな……泣かないで。
ボクは……ボクだけは、大丈夫だから……)
その声は届かない。
音が消え、光が消え、世界が沈んでいく。
そして、
——ぱきん
世界は、静かに断ち割られた。
命の終わりよりも鮮明な音を立てて。
——こうしてボクは、
『ルアト王国第三騎士団長 ガッロル・シューハウザー』としての旅路を終えた。
けれど、魂の旅は——まだ続いていく。
『……行かないで。
ようやく会えたのに——
ずっと、探してたのに……』
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