第1話 ☆序章 すべてが始まる前の夜に①

——落ちていく。


 白と黒が溶け合うだけの世界。風も、温度も、重力さえもない。何かから切り離されたようなひどく静かな場所。


 ボクは薄い靄のような身体で、その空間を静かに漂っていた。


 胸の奥が、じんと熱い。さっきの“声”の余韻だけが、まだ消えずに残っている。


(……ボク、死んだ?)


 そう思った瞬間、遠くでひび割れたような残光が揺れた。

 星の残骸のようで、涙の粒のようで——

 その奥で、誰かがボクの名前を呼んでいる気がした。


 知らない声。なのに、なぜか懐かしい。


 残光に引かれるように、薄れかけた記憶が浮かび上がってくる。

 まるで、閉ざされていた扉がゆっくりと開いていくように。


——みんなは、前世なんて覚えてるのかな。


 普通は覚えていない。覚えていても、夢の欠片みたいに薄れていく。

 でも、ボクは違った。


 死んで、生まれ変わって、また死んで。

 その記憶だけを抱えたまま、次の人生へ落ちていく。


 ボクだけが覚えている。

 いつの間にか、それが当たり前になっていた。


 ただ——最初の人生だけは霞みすぎて輪郭もない。

 なのに夜空を見るたびに、胸がきゅっと痛む。


(どうして……)


 ゴ……ッ。


 考えかけたとき、闇の奥で糸のように細い唸りが響いた。

 風でも呼吸でもない。“機械的な何か”が動く音。

 この世界に似つかわしくない硬質なその響きが、世界の継ぎ目を越えているように思えた。


 そんな感覚に浸っていると、また胸の奥で光が揺れた。

 あの“声”が、白い靄の向こうから近づいてくる。


(あれって、なんだったんだろう)


 手を伸ばせば届きそうな、でも怖いような。

 胸に残るあの時の痛みが、今もじんじんと熱い。


 深く息を吸おうとして——

 ああ、そうだ。もう息なんてしていなかった。


 ボクはついさっき、人生を終えたばかり。

 今は、生と死の狭間で漂っているだけ。


 胸の奥に刺さった今世の痛みが、ゆっくりと形を取り戻していく。

 胸の底で小さく波が立ち、記憶の底が色を取り戻していく。


 そう——あれは、昨日の深夜のこと。



     ◇ ◆ ◇



 隣国との国境近くに広がる、大森林。


 月光さえ遮られ、闇に支配された密林を、

 ボクは騎獣の手綱を握り、霧を裂くように駆けていた。

 絡みつく蔓を踏み割り、鋭い枝葉に頬をかすめられながら

 ただ前へ、前へ。


 こんな深夜に単騎で密林を走っている理由。


 それは——

 『悪の教団に攫われた姫さま救出』任務の真っ最中だから。


 ……少し、話が急すぎたかな。

 まずは、ボクの話から。


——ボクの名前は、ガッロル・シューハウザー。

 今世では、ルアト王国の騎士団長なんて役を背負わされていた。


 本当は静かに生きるつもりだった。目立つとロクなことにならないと、嫌というほど知っていたから。

 ひっそり修行に出るはずが、親に止められ……気づけば、最前線に立っていた。


 今世は、どうにも運命に引きずられるような、

 妙な感覚がずっと胸に引っかかっていた。


 それでも、どうにか穏やかな日々を送っていた。


 ——王女さまが、反王家勢力・トルカ教団に攫われるまでは。

 しかも邪神召喚の生贄として。


 王都は大混乱。情報は錯綜し、誰も姫さまの行方を掴めない。


 そんな中——

 ボクだけが、教団のアジトを見つけてしまった。


 そもそも、それがおかしかったのかもしれない。


 仲間を連れて行かなかったのは、目立つと思ったから。

 ……いや、本当は慢心していた。


(ボクひとりで何とかなるだろう)


 そう思ってしまった。


 今思えば、それが大きな分岐点だった。


 密林の奥で、空気が一瞬ざらりと震えた。

 風でも、雷でもない。もっと人工的な、金属の擦れるような気配。


(……なんだ? 今の)

 藪の奥で羽音がざわめき、心臓が不安に合わせて跳ねた。


 湿った枝葉を押し分けた瞬間、視界がぱっと開ける。

 そこに現れたのは——


 蔦に呑まれかけた、古びた洋館。

 月光を吸い込むように沈む石壁。

 闇でフクロウが鳴き、背筋に冷たいものが走る。


 この館を目にした途端、胸に影が差した。

 恐怖とは違う、もっと根源的な違和感——禁忌の核心に触れてしまったような感覚。


(……いやだな。ここ、本当に……)


 今更ながら、後悔がじわりとこみ上げる。


(ヴァリターを、連れてくればよかった……)


 弱気になった、そのとき——

 夜風の向こうから、赤ん坊の泣き声がした。


——姫さま!?


 胸がぎゅっと痛む。

 泣き声に混じって、誰かに名前を呼ばれたような気がした。


 怖気づいている暇はない。

 姫さまだって頑張っている。


(お願い、無事でいて)


 騎獣を繋ぎ、生垣の影を伝って洋館へ近づく。

 警備の教団員は数名。

 全員、眠気に負けて油断しているようだった。


(ウチの団員なら地獄の特訓コースだな……)


 いつもの調子で内心ツッコミを入れてみたが、

 不安の影は濃くなるばかりだった。


 崩れた窓枠から、そっと滑り込む。

 そして——


 そのとき、ボクはまだ知らなかった。


 ここから先が、

 今世の最後の夜になることを。


 そして、この夜に触れた“声”が、すべてを変えてしまうことを。

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