第27話 瑕疵の共鳴
太陽が昇り切った荒野は、灼熱の迷宮へと変わっていた。
乾いた風が、砂と熱気を運んでくる。
私の喉は渇ききり、舌が上顎に張り付くような感覚が続いていた。
だが、足は止めない。
背中のカイルの重みが、私を前へと押し出す唯一の動力源だった。
アルクスまで、あとどれくらいか。
地図はない。
あるのは、北を示す太陽の位置と、私の直感だけ。
そして、左腕の瑕疵が指し示す方向。
熱い。
痛いほどに熱い。
まるで、その先に巨大な磁石があるかのように、私の腕を引っ張っている。
『……水』
ヤツの声が、脳内に響く。
私の瑕疵に寄生した、惨めな魂の声。
『喉が焼ける。……エリアナ、水はないのか』
「ない」
私は短く答えた。
「我慢しろ。……お前には肉体がないだろう」
『感覚はあるんだよ! 喉が渇く感覚も、腹が減る感覚も!』
ヤツが喚く。
不快だ。
だが、その不快感が、私の意識を覚醒させているのも事実だった。
眠気と疲労で朦朧とする意識を、ヤツのノイズが繋ぎ止めている。
皮肉な共生関係。
昼過ぎ。
私たちは、干上がった川床を見つけた。
ひび割れた大地。
その窪みに、わずかに水が残っている。
泥水だ。
だが、贅沢は言えない。
私はカイルを岩陰に降ろした。
そして、泥水を掬う。
自分の口には入れない。
カイルの口に、指先から滴らせる。
喉が動く。
生きている。
その確認作業が、私の心を落ち着かせる。
『……俺には?』
ヤツがねだる。
私は、泥水を一口含んだ。
砂の感触。
生臭い匂い。
それを飲み込む。
『……うげぇ、不味い』
ヤツが文句を言う。
「文句があるなら出て行け」
『……無理だろ』
私たちは、再び歩き出した。
日差しが傾き始める。
影が長く伸びる。
その影の中に、何かが動いた気がした。
風ではない。
もっと粘着質な、視線のような気配。
「……誰だ」
私は足を止めた。
カイルの身体を庇うように立つ。
岩陰から、人影が現れた。
一人ではない。
三人。
黒いローブを纏った男たち。
その胸元には、見覚えのある紋章が刺繍されている。
アルクスの魔術師ギルドの印。
だが、その瞳は濁っていた。
正気ではない。
操られているような、虚ろな目。
「……発見しました」
先頭の男が、機械的な声で言った。
「標的。……『器』と、『虚無』を確認」
「……魔王の手先か」
私は、瑕疵に魔力を込めた。
黒い霧が、左腕から立ち昇る。
「回収します」
男たちが、一斉に杖を掲げた。
詠唱はない。
即座に、炎の槍が飛んでくる。
速い。
だが、単調だ。
私は、左腕を前に出した。
喰らえ。
炎が、私の腕に吸い込まれる。
熱くない。
むしろ、瑕疵が喜んでいる。
もっと、もっと。
『うわっ、熱っ! なんだよこれ!』
ヤツが悲鳴を上げる。
うるさい。
私は、吸収した魔力をそのまま撃ち返した。
黒い炎。
虚無と混じり合った、不浄な火炎。
それが、男たちを飲み込む。
「……対象の魔力、測定不能」
男たちは、燃えながらも無表情だった。
痛みを感じていないのか。
そのまま、私に向かって歩いてくる。
ゾンビのようだ。
「……チッ」
私は、カイルを背負い直した。
逃げる。
こいつらはただの捨て駒だ。
時間を稼ぐための、肉の壁。
本命は、別にいるはずだ。
私は、岩場を駆け上がった。
背後で、男たちが炭化して崩れ落ちる音がする。
だが、気配は消えない。
むしろ、増えている。
包囲されている。
『……おい、エリアナ』
ヤツの声が、震えている。
『あっちだ。……あっちから、すごいのが来る』
ヤツの感覚。
「チート」の名残りか、あるいは臆病者の直感か。
私は、ヤツが示した方向を見た。
北の空。
そこに、一点の黒い染みがあった。
鳥ではない。
人だ。
空を飛んでいる。
「……フィーネ」
私は、その名を呟いた。
静寂の魔女。
彼女が、直接来たのか。
まだアルクスまでは距離があるはずだ。
焦っているのか。
それとも、確実に仕留めるために動いたのか。
私は、走るのを止めた。
逃げられない。
空からの追跡者には、隠れる場所がない。
戦うしかない。
ここで。
私は、カイルを大きな岩の窪みに隠した。
自分の上着をかけて、姿を隠す。
「……待ってて」
私は、カイルの額に口づけた。
冷たい皮膚。
だが、必ず守る。
私は、岩の上に立った。
左腕の包帯を解く。
黒く変色した皮膚。
脈打つ瑕疵。
そして、腰のナイフを抜く。
カイルのナイフ。
黒く染まった刃。
フィーネが、降りてきた。
音もなく。
風もなく。
黒いドレスが、重力に逆らってふわりと舞う。
彼女は、私から十メートルほど離れた空中に静止した。
見下ろす視線。
銀色の瞳が、私を、いや、私の左腕を見つめている。
「……随分と、馴染んだようね」
フィーネの声が、頭蓋に響く。
「その『瑕疵』。……ゼノスの残り香が、あなたという器を得て、熟成されている」
「……褒め言葉として受け取っておく」
私は、ナイフを構えた。
「何の用だ。……魔王の使い走りか」
「使い走り?」
フィーネが、くすりと笑った。
「心外ね。……私は、私のために動いているの」
彼女の手が、胸元に触れる。
「魔王様は、焦っていらっしゃる。……『管理者』の干渉が、予想以上に早かったから」
「……」
「だから、私が来たの。……その『器』と『虚無』を、確実に回収するために」
フィーネの手が、横に払われる。
空間が歪む。
見えない刃が、私に向かって飛んでくる。
速い。
だが、見える。
左腕の瑕疵が、魔力の流れを感知している。
私は、身体を捻った。
頬を、見えない刃が掠める。
血が滲む。
だが、致命傷ではない。
「……ほう」
フィーネが、目を細めた。
「避けた。……ただの人間が」
「ただの人間ではない」
私は言った。
「私は、お前たちを喰らう者だ」
私は、地面を蹴った。
岩を足場にして、空中のフィーネへと跳躍する。
無謀。
だが、距離を詰めなければ勝機はない。
ナイフを突き出す。
黒い刃が、フィーネの喉元に迫る。
フィーネは動かない。
ただ、瞳を輝かせた。
空間が、凍りついた。
「静寂」
私の身体が、空中で固定される。
動けない。
指一本、動かせない。
「……愚かね」
フィーネが、私の目の前で囁く。
「あなたの『虚無』は、まだ未完成。……私の『静寂』には勝てない」
彼女の手が、私の左腕に伸びる。
冷たい指先が、瑕疵に触れる。
「頂くわ。……その力ごと」
熱い。
瑕疵が、悲鳴を上げている。
力が、吸い取られていく。
フィーネの指先から、私の魔力が、生命力が、流れ出していく。
『……やめろぉぉぉ!』
ヤツが叫んだ。
私の脳内で。
『吸われる! 俺まで吸われる!』
「黙れ……!」
私は、歯を食いしばって抵抗する。
だが、身体が動かない。
意識が、遠のいていく。
その時。
私の懐が、熱くなった。
あの本。
『異界の魂と器の適合』
そして、その間に挟まっていた、もう一枚の羊皮紙。
アルクスの遺跡で見つけた、あの術式。
『魂魄分離』
違う。
あれは、分離だけではない。
『融合』と『共鳴』の術式でもある。
カイルの魂が、反応している。
ヤツの中に眠る、カイルの欠片が。
私の左腕が、勝手に動いた。
フィーネの手を掴む。
黒い霧が、逆流する。
フィーネの目が見開かれる。
「……な、に?」
『……うおおおおお!』
ヤツの声。
そして、もう一つの声。
静かで、力強い声。
『……離れろ』
カイル!
私の左腕から、爆発的な魔力が噴き出した。
黒い霧ではない。
碧い光。
それが、フィーネの「静寂」を打ち砕く。
空間の拘束が解ける。
私は、ナイフを振るった。
フィーネの腕を、切り裂く。
鮮血が舞う。
魔族の血。
赤い、人間と同じ血。
「……くっ!」
フィーネが、後退する。
傷口を押さえて、私を睨みつける。
その目に、初めて「恐怖」の色が浮かんだ。
「……何なの。今の光は」
「……カイルだ」
私は、着地した。
左腕が、熱く脈打っている。
だが、不快ではない。
温かい。
カイルの魂が、私を守ってくれた。
「……覚えておきなさい」
フィーネが、空へと舞い上がる。
「次は、殺す。……魔王様自らがお出ましになる前に」
捨て台詞を残して、彼女は飛び去った。
逃げたのだ。
未知の力に怯えて。
私は、その場に膝をついた。
全身から力が抜ける。
左腕の光が、消えていく。
再び、黒い瑕疵に戻る。
『……助かった……』
ヤツの声が、安堵のため息と共に響く。
『おい、エリアナ。……今、カイルの声がしなかったか?』
「……した」
私は、自分の左腕を抱きしめた。
「カイルは、いる。……お前の中に、確実に」
希望が、確信に変わる。
カイルは消えていない。
取り戻せる。
必ず。
私は、岩陰のカイルの元へ戻った。
上着をめくる。
変わらない寝顔。
だが、その表情が、少しだけ安らかに見えたのは、私の願望だろうか。
「……行こう」
私は、カイルを背負った。
アルクスは近い。
そこで、すべてを終わらせる。
管理者も、魔王も、そしてこの歪んだ運命も。
夕日が、荒野を赤く染める。
私の影が、長く伸びていた。
その先に、巨大な都市のシルエットが浮かび上がっている。
魔導都市アルクス。
最後の戦場。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます