第26話 白の追跡者

 空が割れている。

 王都の上空に浮かぶ、巨大な白亜の亀裂。

 そこから漏れ出す光は、太陽のそれとは違う。

 冷たく、無機質で、触れるものすべてを「消去」する絶対的な輝き。

 「管理者」

 神と呼ばれるシステムが、私たちというバグを排除しようとしている。


 私はギルドの扉を蹴り開けた。

 背中にはカイルの身体。

 空っぽの器の重みが、私の肩に食い込む。

 隣にはイヴェッタ。

 手には、ギルドの武器庫から持ち出した長剣が握られている。


「……裏門だ」

 イヴェッタが短く告げる。

「表は『目』が見ている。奴らは光の速さで削除する。遮蔽物がない場所は死地だ」

「分かっている」


 私たちは走り出した。

 石畳を蹴る音だけが、静まり返った王都に響く。

 人々は姿を消していた。

 地下に逃げ込んだのか、あるいは、すでに「削除」されたのか。

 通りには、切り取られたように消滅した建物の断面だけが、無言で晒されている。


『ひいっ、ひいっ!』

 頭蓋の内で、ヤツの声が響く。

 私の左腕の瑕疵に寄生した、惨めな魂。

『来る! あいつらが来る! 俺たちを見つけた!』

「黙れ」

 私は吐き捨てた。

「お前の恐怖が、奴らを引き寄せる」

『だって! 怖いんだよ! 死にたくない!』


 ヤツの怯えが、私の神経を逆撫でする。

 だが、その直感は正しかった。

 空の亀裂から、新たな光の柱が降り注ぐ。

 私たちの行く手を遮るように、石畳が円形にえぐり取られた。

 音はない。

 衝撃もない。

 ただ、物質が存在する権利を剥奪されたような、唐突な消失。


「くそっ!」

 イヴェッタが舌打ちする。

「精度が上がっている。……学習しているのか」

「逃げ道はないのか」

「地下水路だ。……だが、入り口まで保つか」


 次の光が来る。

 今度は、私の頭上。

 カイルを守らなければ。

 私は左腕を掲げた。

 黒く炭化した瑕疵が、熱く脈打つ。

 ゼノスの虚無。

 フィーネの静寂。

 そして、ヤツの魂が混じり合った、不浄な力。


 喰らえ。

 神の光を。


 黒い霧が、左腕から噴き出した。

 白い光と衝突する。

 世界の色が反転するような、強烈な違和感。

 私の骨が軋む。

 皮膚が裂ける。

 だが、光は霧散した。

 相殺された。


『ぎゃああああ! 痛い! 痛いよエリアナ!』

 ヤツの悲鳴が脳を揺らす。

 瑕疵に寄生したヤツも、同じ痛みを共有しているのか。

 いい気味だ。

 お前が呼んだ神だ。

 その痛みも、責任も、お前が背負え。


「……行ける!」

 イヴェッタがマンホールをこじ開けた。

 私たちは、暗い穴の底へと滑り込んだ。


---


 地下水路は、腐敗と湿気で満ちていた。

 地上からの光が届かない闇。

 だが、瑕疵の熱が、蛍火のように周囲をぼんやりと照らしている。

 私たちは、汚水の中を進んだ。

 カイルの足が濡れないように、私は背中の位置を直す。

 ヤツの声は、小さくなっていた。

 消耗しているのだろう。


『……なあ、エリアナ』

 ヤツが、弱々しく話しかけてきた。

『アルクスに行けば……本当に助かるのか?』

「……分からない」

 私は正直に答えた。

「だが、そこにしか道はない」


 アルクスの「地脈の炉」。

 イヴェッタが言った場所。

 魂を鍛え直す場所。

 そこで、カイルの魂を、ヤツの中から叩き出す。

 それが、唯一の希望。


『……俺、さ』

 ヤツが続ける。

『もし、カイルが戻ったら……俺は、どうなるんだ?』

「……消える」

 私は迷わず言った。

「お前は異物だ。カイルが戻れば、お前の居場所はない」


『……そう、だよな』

 ヤツの声に、諦めのような色が混じる。

『俺は、ニホンでもいらない人間だった。……こっちでも、結局、いらない人間か』

「……同情はしない」

『ああ。……分かってる』


 沈黙。

 汚水が跳ねる音だけが響く。

 不快だ。

 ヤツの感傷的な空気が、私の肌にまとわりつく。

 お前は害虫だ。

 カイルを喰った捕食者だ。

 被害者面をするな。


 その時。

 水路の奥から、風が吹いた。

 生暖かい、湿った風。

 だが、そこには何かが混じっていた。

 金属的な、鋭い匂い。

 そして、圧倒的な「気配」


「……止まれ」

 イヴェッタが足を止めた。

 長剣を構える。

 闇の奥。

 二つの光が灯った。

 赤く、輝く瞳。

 魔族か。

 いや、違う。

 あの目は、もっと理知的で、そして残酷だ。


「……素晴らしい」

 声が響く。

 水路の壁に反響して、方向が掴めない。

「『管理者』の光を防ぐとは。……やはり、その『虚無』は使える」


 影が、実体化する。

 黒い燕尾服。

 整えられた銀髪。

 執事のような男。

 だが、その背中には、禍々しい蝙蝠の翼が生えていた。

 魔王軍。

 それも、幹部クラス。


「……『策略』のベルガ」

 イヴェッタが、憎々しげに名を呼ぶ。

「王都に、何匹ネズミが入り込んでいるんだ」

「おや、心外ですね。私はネズミではなく、主の使いですよ」

 ベルガと名乗る男が、優雅に一礼する。

 その視線が、私の左腕に注がれる。


「魔王様が、お待ちです。……その『器』と、『虚無』を」

「断る」

 私は即答した。

 左腕を構える。

 瑕疵が、敵意に反応して熱くなる。


「……交渉決裂ですか。残念です」

 ベルガが、指を鳴らす。

 水路の水が、盛り上がった。

 汚水が形を変え、巨大な蛇となって私たちを取り囲む。

「では、力ずくで頂きましょう。……多少、傷ついても構いませんよね?」


 蛇が襲いかかる。

 イヴェッタが剣を振るう。

 水が弾ける。

 だが、蛇はすぐに再生する。

 物理攻撃が通じない。


「エリアナ! 行け!」

 イヴェッタが叫ぶ。

「こいつは私が食い止める! お前はアルクスへ!」

「……置いていけない」

「馬鹿野郎! お前が捕まれば終わりだ! カイルも戻らない!」


 イヴェッタの剣が、蛇の牙を受け止める。

 彼女の腕から、血が流れる。

 迷っている時間はない。

 私は歯を食いしばり、走り出した。

 イヴェッタを背にして。


「……逃がしませんよ」

 ベルガの声。

 足元から、新たな水蛇が現れる。

 私の足を狙う。

 カイルを背負ったままでは、躱しきれない。


『……右だ!』

 ヤツの声が響いた。

『右の壁に隙間がある! あそこなら抜けられる!』

 私は反射的に右へ跳んだ。

 水蛇の牙が、空を切る。

 壁の亀裂。

 人が一人、やっと通れるほどの狭い通路。

 私はそこに滑り込んだ。


 背後で、激しい水音と、剣戟の音が遠ざかっていく。

 イヴェッタ。

 彼女の安否を気にする余裕はない。

 私は、暗い通路をひたすら走った。


---


 地上に出たのは、夜明け前だった。

 荒野の真ん中。

 王都は、遥か後方に霞んでいる。

 空の亀裂は、まだそこにあった。

 だが、「目」は閉じていた。


 私は、枯れ木の下にカイルを降ろした。

 肩が痛い。

 足が震える。

 だが、止まるわけにはいかない。

 アルクスまで、あとどれくらいか。

 地図はない。

 あるのは、ヤツの曖昧な記憶と、私の執念だけ。


『……助かったな』

 ヤツが呟く。

『あの執事……強かった』

「……ああ」

 私は短く答えた。

 イヴェッタのことは考えないようにした。

 今は、前に進むことだけを考える。


 カイルの顔を見る。

 変わらない。

 静かな寝顔。

 空っぽの器。

 私は、その冷たい頬に触れた。


「……取引だ」

 私は、ヤツに言った。

『え?』

「お前が協力するなら……管理者から守ってやる」

『……マジで?』

「カイルの魂を取り戻すまでだ。……それまでは、お前を生かしておく」


 沈黙。

 ヤツの思考が伝わってくる。

 疑念。

 安堵。

 そして、微かな希望。


『……分かった』

 ヤツが答える。

『やるよ。……どうせ、一人じゃ生きていけないし』

『それに……カイルを助けたら、少しはマシなエンディングになるかもしれないしな』


 マシなエンディング。

 ヤツはまだ、これをゲームだと思っているのか。

 だが、今はその妄想すら利用する。


 私は立ち上がった。

 カイルを背負う。

 北へ。

 魔導都市アルクスへ。

 そこが、私たちの最後の戦場になる。

 管理者。

 魔王。

 そして、この世界というシステムそのものとの。


 左腕の瑕疵が、微かに熱を帯びた。

 それは、痛みではなく、確かな鼓動のように。

 私の意志に呼応するように。


 朝日が昇る。

 荒野を赤く染める。

 私の影と、カイルの影が、一つになって伸びていた。

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