第25話 白亜の抹消者

 空が、裂けた。

 赤い月でも、夜の闇でもない。

 真っ白な光の亀裂が、王都の上空に走っている。

 音はない。

 風もない。

 世界そのものが、息を潜めて震えているような静寂。

 亀裂の中から、無数の「目」が見下ろしていた。

 感情のない、冷たい監視の眼差し。

 「管理者」

 イヴェッタがそう呼んだ存在。


 私は、カイルの身体を背負って走っていた。

 重い。

 魂のない器は、ただの肉塊だ。

 だが、その重みだけが、私の世界を現実につなぎとめていた。

 ヤツが、私の脳内で叫ぶ。


『な、なんだよあれ! デカすぎるだろ!』

 ヤツの声が震えている。

 私の左腕の瑕疵に寄生した、惨めな害虫。

『ゲームのバグか!? なんで俺たちが狙われるんだ!』


「黙れ」

 私は息を切らせながら吐き捨てた。

「お前が呼んだんだ。……イレギュラーだから」


『俺は……俺はただ、主人公になりたかっただけなのに!』

 ヤツの嘆きが、頭蓋の内側で反響する。

 不快だ。

 吐き気がする。

 だが、この不快感こそが、カイルの魂を取り戻すための唯一の手がかり。


 ギルドを出て、裏路地を抜ける。

 人々は、空を見上げて立ち尽くしていた。

 悲鳴を上げる者。

 祈りを捧げる者。

 腰を抜かして動けない者。

 彼らにとって、あれは「神の怒り」に見えるのだろう。

 だが、私には分かる。

 あれは、ただの「システム」だ。

 無機質で、冷酷な、掃除プログラム。


 亀裂から、光の柱が降り注いだ。

 一直線に。

 音もなく。

 光が触れた建物が、消滅した。

 爆発ではない。

 崩壊でもない。

 ただ、そこにあったという事実ごと、「無かったこと」にされた。

 瓦礫も、塵も残らない。

 完全な消去。


『う、うわああああ! 消えた! マジで消えた!』

 ヤツが絶叫する。

『あれに触れたら、俺も……!』


 次弾が来る。

 狙いは、私だ。

 左腕の瑕疵が、焼けるように熱い。

 標的マーカーのように、私が位置を知らせている。


「イヴェッタ!」

 私は叫んだ。

 隣を走るイヴェッタが、舌打ちする。

「分かってる! こっちだ!」


 イヴェッタがマンホールの蓋を蹴り開けた。

 下水道。

 王都の地下に広がる、汚濁の迷宮。

 私たちは、その暗闇へと飛び込んだ。


 着地した瞬間、頭上で轟音がした。

 光の柱が、マンホールの入り口を消滅させたのだ。

 石畳が、土が、そして空気さえもが、白亜の光に飲まれて消えていく。

 ギリギリだった。


 下水道は、腐敗臭と湿気で満ちていた。

 ネズミが走る音。

 汚水が流れる音。

 ここなら、地上の「目」からは逃れられるかもしれない。

 だが、瑕疵の熱は冷めない。

 奴らは、私を見失っていない。


「……ここまで来れば、少しは時間が稼げる」

 イヴェッタが、荒い息を整えながら言った。

 松明に火を灯す。

 揺れる炎が、カイルの顔を照らし出した。

 私の背中で眠る、空っぽの器。

 その顔は、安らかだ。

 何も知らない、何も感じない、死のような平穏。


「……カイル」

 私は、カイルの頬に触れた。

 温かい。

 その温もりが、私の震えを止める。


『……おい、エリアナ』

 ヤツの声が、おずおずと響く。

『俺たち、どうなるんだ? あの光、魔法も物理も効かないぞ。……どうやって戦うんだよ』


「戦わない」

 私は答えた。

「逃げる。……アルクスへ」

『アルクス? なんでまた!』

「そこに、お前とカイルを分ける方法がある。……地脈の炉」


 イヴェッタが、眉をひそめた。

「地脈の炉だと? ……あそこは、王国の魔力の源泉だぞ。近づくだけで、並の人間なら消し飛ぶ」

「……構わない」

 私は左腕を握りしめた。

「私の『瑕疵』なら、耐えられる。……そして、この害虫の中に残っているカイルの魂を、叩き出す」


『た、叩き出すって……俺はどうなるんだよ!』

 ヤツが喚く。

「知ったことか」

 私は冷たく言い放つ。

「お前は、カイルを返すための道具だ。……それ以上の価値はない」


『ひどい……俺だって、生きてるのに!』


 生きている?

 お前は、カイルの犠牲の上に成り立っている寄生虫だ。

 私は、ヤツの声を無視して、歩き出した。

 下水道の奥へ。

 王都の外へと続く、古い水路を目指して。


 数時間後。

 私たちは、王都の北側に広がる荒野に出た。

 夜だった。

 空には、まだあの亀裂が残っている。

 だが、「目」は閉じていた。

 一時的な休止か、あるいは次の攻撃の準備か。


 荒野の風は冷たく、乾燥していた。

 私たちは、岩陰に身を隠した。

 カイルの身体を横たえる。

 イヴェッタが、見張りに立つ。


 私は、カイルの隣に座った。

 左腕が疼く。

 ヤツの気配が、私の神経を侵食している。

 不快だ。

 だが、同時に、奇妙な感覚もあった。

 ヤツの感情が、流れ込んでくる。

 恐怖。

 孤独。

 そして、後悔。


『……なあ、エリアナ』

 ヤツが、静かに話しかけてきた。

『俺の世界……ニホンって言うんだけどさ。……俺、そこでも、ずっと一人だったんだ』


 私は黙っていた。

 聞きたくない。

 害虫の過去など、どうでもいい。


『冴えない営業マンでさ。……誰からも必要とされてなくて。……だから、この世界に来た時、嬉しかったんだ。……特別になれた気がして』

 ヤツの声が、湿り気を帯びる。

『カイルの身体も、チートも、お前も。……全部、俺のために用意されたご褒美だと思った。……でも、違ったんだな』


「……当たり前だ」

 私は、低く呟いた。

「カイルは、お前の道具じゃない。……私もだ」


『……ああ。そうだな。……ごめん』

 ヤツが謝った。

 初めて聞いた、ヤツの謝罪。

 カイルの声ではない。

 ヤツ自身の、弱々しい魂の声。


『でもさ……俺だって、死にたくないんだよ。……消えたくないんだ』


 その言葉に、私は何も答えられなかった。

 私の目的は、カイルを取り戻すこと。

 そのためには、ヤツを犠牲にしなければならない。

 それは、揺るがない事実だ。

 だが、私の左腕に宿るこの「命」の重みが、微かな躊躇を生んでいた。


 その時。

 空が、再び光った。

 亀裂が開く。

 「目」が、私たちを見つけた。

 早すぎる。


「来るぞ!」

 イヴェッタが叫んだ。

 光の柱が、荒野に降り注ぐ。

 岩が消滅する。

 大地が抉れる。

 私たちは走った。

 カイルを背負って。

 隠れる場所はない。

 ただ、走るしかない。


 光が、目の前に落ちた。

 衝撃波。

 私は吹き飛ばされた。

 カイルの身体が、私の背中から離れる。

 地面を転がる。

 カイル!


 私は、這ってカイルに近づこうとした。

 だが、次の光が、カイルの目の前に迫る。

 間に合わない。

 カイルが、消される。


「くそっ!」

 私は叫んだ。

 左腕を突き出す。

 瑕疵を、光に向ける。

 喰らえ。

 虚無よ。

 あの光を、喰らい尽くせ!


『うおおおおおお!』

 ヤツが叫んだ。

 私の左腕から、黒い霧が噴き出した。

 それは、私の意思ではない。

 ヤツの意思だ。

 ヤツが、恐怖に駆られて、力を暴走させた。


 黒い霧と、白い光が衝突する。

 音が消えた。

 色が反転する。

 世界が、歪んだ。

 私の左腕が、裂けるように痛む。

 骨が軋む。

 血管が破裂しそうだ。


『痛い! 痛い! 助けてくれ!』

 ヤツの悲鳴。

 だが、黒い霧は消えない。

 光を押し留めている。

 拮抗している。

 「管理者」の削除プログラムと、バグである「虚無」の力が、互いを否定し合っている。


「……行ける!」

 イヴェッタが叫んだ。

「今だ! カイルを連れて逃げろ!」


 私は、歯を食いしばって立ち上がった。

 左腕を掲げたまま、カイルの元へ走る。

 カイルを抱きかかえる。

 重い。

 だが、愛おしい重み。


 光が、霧散した。

 管理者の攻撃が、相殺されたのだ。

 空の亀裂が、一瞬揺らいだように見えた。

 システムエラー。

 私たちが、神に一矢報いた瞬間。


「……はぁ、はぁ……」

 私は、その場に崩れ落ちそうになった。

 左腕が、黒い煙を上げている。

 ヤツの声が、聞こえない。

 消滅したか?


『……死ぬかと、思った……』

 か細い声。

 生きていた。

 しぶとい害虫。


 私たちは、再び走り出した。

 夜の闇へ。

 アルクスへ続く、長く険しい道へ。

 空の「目」は、まだ私たちを追っている。

 だが、希望はある。

 ヤツの力が、管理者に通じた。

 この「バグ」こそが、私たちの武器になる。


 私は、背中のカイルに囁いた。

「……待ってて。必ず、取り戻すから」

 カイルは答えない。

 だが、その心臓の鼓動が、私の背中を通して伝わってくる。

 生きている。

 それだけで、私は戦える。


 東の空が白み始める。

 夜明け。

 だが、それは希望の光ではない。

 私たちの逃避行を照らし出す、冷酷な照明だ。

 それでも、私たちは進む。

 白亜の抹消者から、大切な聖域を守るために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る