第19話 虚無の終端

 左腕の瑕疵が、冷たい石畳の上で疼く。 ゼノスが遺した黒い痣。 下水道から戻ると、宿の部屋のドアがわずかに開いていた。 隙間から、ヤツの匂いが漏れ出ている。 汗。 埃。 そして、濃密な「屈辱」の匂い。


 床に、パン屑が散らばっていた。 私が昨夜、床から拾ってヤツのベッドの脇に置いた、あの固いパン。 ヤツはそれを壁に叩きつけた。 カイルの聖域が、ヤツの苛立ちで汚染されていく。


 ヤツは、カイルの身体で、シーツを頭から被っていた。 カイルの肩が小刻みに震えている。


 私は音を立てず、懐から今日の稼ぎをテーブルに置いた。 銅貨が木材の上で乾いた音を立てる。 ヤツの震えが止まった。


「……食わせろ」 ヤツが、カイルの声で、シーツの奥から言った。 「……」 「腹が、減った。なんでもいい。食わせろ」 「パンは、そこにある」


 私は床のパン屑を指差す。 ヤツがシーツからカイルの顔を出した。 カイルの碧い瞳。 その瞳が私を睨みつけている。 飢えと、屈辱。


「……拾え」 「……」 「お前が、拾って、俺に、食わせろ。エリアナ」 「……」 「俺は主人公だ。お前はヒロインだろ。やれ」


 ヤツの「物語」 ヤツはまだ、その紙屑にしがみついている。 私は動かない。 ヤツの命令をただ聞いている。 沈黙が、カビ臭い部屋の空気を重く圧迫する。


「……くそっ」 ヤツが、カイルの舌で舌打ちした。 ヤツは、カイルの身体でベッドから這い出ようとする。 力が入らない、カイルの腕。 ヤツは床に転げ落ちた。 軍靴の跡が遺した泥の染み。 ヤツはその泥の上を這う。 パン屑に向かって。 カイルの聖域が床の埃に塗れていく。


 ヤツはカイルの手で、パン屑をかき集めた。 それをカイルの口に詰め込む。 獣。 カイルの顔をしたただの獣。 ヤツは咀嚼しながら、私を見上げていた。 カイルの碧い瞳から、水がこぼれていた。


「……なんで」 ヤツが、カイルの喉で嗚咽を漏らす。 「なんで、俺が、こんな……」 「……」 「『テンセイ』したのに。最強の『チート』で……イージーモードで……」


 ヤツが、呟き始めた。 私が知らない単語。 ヤツの「物語」 害虫の、鳴き声。


「……『ニホン』じゃ、ダメだったから。こっちで……。神様が、くれたのに」 「……神」 「そうだよ! 光る人型が! 俺を選んだんだ!」


 ヤツは、カイルの顔で叫んだ。 床に這いつくばったまま。 カイルの聖域が、ヤツの「告白」で汚染されていく。


「カイル・アッシュフィールド。この身体。この顔。……お前もそうだ。全部、俺のために用意された……!」 「……」 「なのに、『タマシイ』が足りない。……ああ、そうだ。カイルのタマシイ。俺が喰ったんだ」


 私の左腕が焼けるように疼いた。 カイルのナイフを研ぐ、私の手が止まる。 「……喰った」 「そうだよ。全部、喰った。だから、俺は最強だった」


 ヤツが、カイルの顔で笑った。 乾いた壊れた音。 消滅ではない。 喰われた。 カイルの魂は、まだ、この害虫の中に「残って」いる。


「……返せ」 私の声が、部屋の空気を、切り裂いた。


「……え?」 「カイルを返せ」 「……なにを。俺がカイルだ」 「害虫」


 私は立ち上がった。 カイルが遺したナイフを、ヤツの、カイルの喉元に突きつける。 カイルの皮膚に、冷たい鉄の切っ先が触れる。 ヤツの、カイルの喉が、ヒ、と鳴った。


「……やめろ。エリアナ。俺だ。カイルだ」 「カイルの魂を、返せ」


 その瞬間。 左腕の瑕疵が皮膚を突き破るように激しく疼いた。 ナイフが震える。 違う。 部屋が震えている。 床のパン屑が跳ねる。


 ギルドの鐘が乱打される。 王都の警鐘。 窓の外が暗い。 空気があの廃坑の匂いに変わっていく。 カビと、金属と、腐敗した「虚無」の匂い。


「……来たか」


 ドアが外から叩かれる。 イヴェッタの声。 「エリアナ! 『餌』の役目は終わりだ! 奴が、王都に来た!」


 ゼノス。 ヤツがこの匂いを私の「瑕疵」を、追ってきた。


「……いやだ。あいつだ。ゼノスだ。いやだ!」 ヤツが、カイルの顔で、悲鳴を上げた。 カイルの身体が、私の足元で失禁する。 カイルの聖域が、ヤツの恐怖で汚されていく。


「イヴェッタ!」 私はドアを開けた。 イヴェッタが戦闘用の革鎧を着込んでいる。 その背後に、「鉄の爪」の三人が剣を抜いて立っていた。


「下水道だ。王都の『澱み』を喰らって、『巣』を作った。もうただの影じゃない」 「……」 「この宿は放棄する。あんたたちも逃げろ」 「……断る」 「……なに?」 「ここで、終わらせる」


 私は、ヤツを、カイルの身体を床から引きずり起こした。 ヤツは、カイルの顔でただ泣きじゃくっている。 「いやだ。死にたくない」 「カイル」


 私は、ヤツの、カイルの頬を張った。 乾いた鈍い音。 カイルの聖域を私の手で。 ヤツの嗚咽が止まった。


「お前は囮だ」 「……え」 「お前の『物語』の最後の役目だ」


 私はイヴェッタを見た。 「『鉄の爪』に周囲の人間を避難させて」 「……あんた正気か。ここでやるのか」 「ヤツは私を追ってきた。ならここは私の『狩場』だ」 「……」 「油を。火を。ワイヤを」


 イヴェッタが私の目を見た。 左腕の瑕疵。 私の覚悟。 イヴェッタが舌打ちした。 「……面白い。その『ネズミ』。ギルドが買い取った」


 イヴェッタが「鉄の爪」に指示を飛ばす。 宿の狭い部屋。 そこが、最後の「罠」に変わっていく。


 カイルのベッド。 ヤツを、カイルの身体をそこに縛り付ける。 カイルが遺した、獣用のワイヤで。 「いやだ! エリアナ! 助けて!」 「カイル。動かないで」


 私はヤツの、カイルの口に布を詰めた。 「私がお守りだから」 ヤツがカイルの顔で涙を流す。 これでいい。 ゼノスは、この「魂の叫び」を嗅ぎつける。


 床に油を撒く。 イヴェッタが持ち込んだ発火性の高い油。 ドアノブにワイヤを仕掛ける。 窓ガラスに銀のナイフで傷をつける。 イヴェッタが、私に小さな瓶を投げた。


「『殺鼠剤』は虚無に効いた。だが今度の奴は、『澱み』を喰らってる。……こいつは聖水だ。気休めだがな」 「……」


 私はカイルが遺したナイフを抜いた。 その刃にイヴェッタがくれた聖水を振りかける。 水が鉄の上で音を立てて蒸発する。


 左腕の瑕疵が脈打つ。 皮膚が裂ける。 黒い痣から、あの廃坑の時と同じ、「虚無」の残り香が漏れ出す。 私が最強の「餌」


「……来た」


 窓ガラスが内側から霧散した。 黒い「虚無」が部屋を満たす。 廃坑の時とは違う。 濃密な物理的な「質量」 王都の下水道の「澱み」 それが、ゼノスの新しい「鎧」


『見つけたぞ。毒の器』


 ゼノスの声が頭蓋に響く。 影が私に殺到する。 イヴェッタが松明を投げ込む。 床の油に火が走った。


「グオオオオオオオ!」


 火柱が黒い影を焼く。 ゼノスの絶叫。 だが影は消えない。 澱みが火を喰らっている。


『無駄だ。この王都の「澱み」は我が力』 影が炎を突き破り、イヴェッタと「鉄の爪」を壁に叩きつける。 金属音。 呻き声。


 ゼノスが私を見た。 影が私に狙いを定める。 その時。


「ンンー! ンンー!」


 ベッドのヤツが叫んだ。 カイルの身体が恐怖でワイヤを引きちぎろうと暴れている。 カイルの聖域。 ヤツの純粋な「魂の恐怖」


 ゼノスの影が一瞬ヤツを見た。 『……ああ。古い器。まだ、残っていたか』 ゼノスが私とヤツを天秤にかける。


 その一瞬。 コンマ以下の隙。 私はカイルが遺したナイフを握りしめていた。 聖水を振りかけたあのナイフ。 私の左腕。 黒い瑕疵。 私はその瑕疵にナイフの切っ先を突き立てた。


「……!」


 痛みはない。 私の「虚無」とカイルの「ナイフ」が共鳴する。 ナイフの刃が黒く光った。


 私はゼノスの影の中心にある「核」に向かって跳んだ。 炎を突き抜ける。 影が、私を殴りつける。 左腕が砕ける。 だが、私の右手のナイフは止まらない。


「――返せ」


 ナイフがゼノスの「核」を貫いた。


「グ、アアアアアアアアアアアアアアアア!」


 ゼノスの絶叫。 聖水がゼノスの「澱み」を浄化する。 カイルのナイフが、ゼノスの「虚無」を切り裂く。 私の「瑕疵」がゼノスの「核」を喰らい、暴走する。


 黒い影が、爆発した。 宿の壁が吹き飛ぶ。 王都の空気がなだれ込む。 爆風が、私の身体を瓦礫に叩きつけた。 意識が途切れる。


 ……薬品の匂い。 イヴェッタの声。 「……起きたか。災害娘」


 ギルドの医務室。 左腕は感覚がない。 黒い木炭のように変質していた。


「ゼノスは」 「消えた。あんたの『虚無』が、奴の核ごと喰った。……おかげで宿は半壊だ」 「……」 「『鉄の爪』も軽傷で済んだ。……あんたのおかげだ」


 私は身体を起こした。 カイルのナイフが枕元に置いてあった。 刃は黒く変色したままだ。


「ヤツは」 「……隣だ。泣き喚いて、うるさい」


 隣の部屋。 ドアを開ける。 ヤツがいた。 カイルの身体でベッドの隅でうずくまっている。 カイルの顔は、涙と鼻水で汚れている。 ヤツは私を見た。 カイルの碧い瞳が、ただ私に怯えている。


「……こわい」 ヤツが、カイルの声で呟いた。 「もういやだ。死にたくない。エリアナ」 ヤツが、私に這い寄ろうとする。 カイルの身体が、私にすがる。


 ヤツの「物語」は終わった。 傲慢さは砕け散った。 残ったのは、ただの弱々しい「寄生虫」


「……行くぞ」 「……え?」 「カイルの魂を取り戻す」


 私は、イヴェッタに借りた清潔な服をヤツに投げつけた。 カイルの聖域をこれ以上汚させない。 ヤツが「喰った」カイルの魂。 それを引き剥がす。 ヤツを「喰った」この「世界(カミ)」 そこへ反逆する。


 私は、黒く変色したナイフを腰に差した。 動かない左腕。 ヤツが、カイルの顔で、おずおずと服を着替えている。 私は、ヤツを、カイルの身体を支え起こした。


「……どこへ」 「魔導都市。アルクス」 ヤツがその「異世界知識」で、呟いた場所。


 イヴェッタが戸口に立っていた。 「……街を出な。あんたたちは、もう『ネズミ』じゃない。『災害』だ」 「……」 「アルクスか。……いいだろう。ギルドの『紹介状』だ。持って行け」


 一枚の羊皮紙。 それが、次の「戦場」への切符。 私はカイルの聖域を支えながら、王都の門を目指した。

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