第18話 狩場

 左腕の包帯が皮膚に食い込む。

 黒ずんだ瑕疵。

 ゼノスが遺した「印」

 ギルドの医務室。

 薬品の匂いが思考を鈍らせる。


「毒は抜けていない」

 イヴェッタが棚の薬瓶を数えながら言った。

 私に背を向けたまま。

「あんたの身体はまだゼノスの『残り香』に当てられている」

「……」

「奴はそれを目印にする」


 振り返ったイヴェッタの目が私を射抜く。

 眠そうな目ではない。

 研がれた刃物の光。


「あんたは『餌』だ。ギルドはあんたを監視する」

「……」

「ゼノスが王都に『巣』を作るのは御免だ。せいぜい利用させてもらう」

「構わない」

「そうかい。物好きだね」


 イヴェッタは机の引き出しから私のナイフを二本投げて寄越した。

 カイルが遺した木の柄のナイフ。

 イヴェッタがくれた銀色のナイフ。

 二つの冷たい鉄の感触。

 それを懐の木箱に収める。


「行くのか。あの抜け殻のところへ」

「宿へ」


 私は医務室を出た。

 イヴェッタの視線が背中に突き刺さる。

 餌を見る目。

 狩人を見る目。

 その両方だ。


 ---


 宿のドアを開ける。

 カビと埃の匂い。

 ヤツの異臭は消えている。

 昨日イヴェッタがギルドに運んだ時清拭された。

 ヤツがカイルの身体で寝台に座っていた。

 私を見てカイルの顔が歪む。

 安堵。

 あるいは所有欲。


「エリアナ! よかった無事だったか!」

 ヤツがカイルの声で叫ぶ。

「俺ずっと心配で。あの『鉄の爪』の連中何も教えてくれないんだ」


 私は黙って水差しを手に取った。

 井戸で汲み直した冷たい水。

 ヤツはカイルの顔で眉をひそめる。


「俺の身体が。重くて動かねえ」

「……」

「あの力さえ戻れば。あのオーク共も」

 ヤツはまだ自分が戦っていたつもりでいる。

 廃坑で魂を使い果たした抜け殻。

 ヤツはまだ自分が「主人公」だと信じている。


「水」

 ヤツがカイルの声で命令する。

 私はコップに水を注いだ。

 ヤツの口元に運ぶ。

 ヤツがカイルの口でそれを飲む。

 カイルの喉が動く。

 私がヤツを生かしている。

 私がカイルの身体を生かしている。


「ああ。力が戻るまでだ」

 ヤツがカイルの顔で虚勢を張る。

「それまでお前が世話しろよ。主人公の俺を」

「……」


 私はヤツから目を逸らした。

 寝台の脇。

 汚れた布と、水の入った桶。

 イヴェッタが使った残り。


「汗をかいた」

 ヤツがカイルの声で言う。

「身体を拭け」


 ---


 桶の水を入れ替える。

 冷たい水が手の皮膚を刺す。

 新しい布を水に浸し固く絞る。

 ヤツの寝台に戻る。

 ヤツはカイルの身体で横になり私を待っていた。

 カイルの寝間着がはだけている。

 カイルの胸板。

 私の聖域。


 匂いがした。

 ヤツの汗の匂いではない。

 カイルが使っていた石鹸の匂い。

 イヴェッタが使った石鹸だ。

 ヤツがカイルの匂いに擬態している。

 それが何より不快だった。


 私は布を握りしめた。

 ヤツの腕を掴む。

 カイルの腕。

 その皮膚に布を当てる。

 ヤツの体温が布越しに伝わってくる。

 生きているものの熱。

 害虫の熱。


 布を滑らせる。

 石鹸の匂い。

 カイルの皮膚。

 ヤツの体温。

 三つの「現実」が私の指先で混じり合う。

 指が震える。

 布が止まる。


「……どうしたエリアナ」

 ヤツがカイルの声で私を見る。

「早くしろよ」


 私は布を擦り付けた。

 擦る。

 ヤツの体温を打ち消すように。

 カイルの匂いを剥ぎ取るように。

 皮膚が赤くなる。

 カイルの皮膚が。


「いっ。痛えよ! 何すんだ!」

 ヤツがカイルの腕を引いた。

 私の手からカイルの聖域が逃げていく。

 水が滴る。

 私の指先から。

 布から。


「……」

 私は立ち上がった。

 持っていた布を桶に叩きつける。

 冷たい水が床に跳ねた。

 ヤツがカイルの顔で私を見ている。

 怯え。

 あるいは苛立ち。


「……物資を調達してくる」

「おおい! エリアナ!」

 ヤツの声を背中で聞く。

 ドアを閉めた。


 ---


 ギルドのカウンター。

 酒場の喧騒が遠くに聞こえる。

 イヴェッタが私を見ていた。

 眠そうな目。


「戻ったか。早いな」

「仕事が欲しい」

「……ほう」


 イヴェッタは私の手を見た。

 水に濡れた指先。

 それが小刻みに震えているのを。


「あの抜け殻の世話は飽きたか」

「仕事が欲しい」


 イヴェッタはギルドの依頼書を一枚めくった。

「あんたの登録は『カイル』のままだ。だがまあいい」

 イヴェッタの目が私を値踏みする。

 カイルが遺したナイフ。

 廃坑で見せた罠の知識。

 私の左腕の瑕疵。


「ちょうどいい仕事がある」

 イヴェッタは依頼書をカウンターに滑らせた。

「ネズミ駆除だ」

「……」

「王都の下水道。大物がいるらしい」


 イヴェッタの口元が歪む。

 皮肉だ。

 ゼノスという「ネズミ」を追う私に。


「危険だが報酬はいい。どうする?」

「受ける」

「そう言うと思ったよ」


 イヴェッタは鍵束から一本の錆びた鍵を投げた。

 下水道の入り口の鍵。

 冷たい鉄の感触。

 カイルのナイフとは違う。

 ただの道具の重さ。


「あまり奥には行くなよ」

 イヴェッタが言った。

「王都の『澱み』はあんたが喰らった毒より性質が悪い」


 私は鍵を握りしめギルドを出た。

 王都の空気が肺を満たす。

 埃とパンと下水の匂い。

 私の新しい狩場の匂いだ。


 ---


 鉄の格子戸。

 イヴェッタの鍵が回り重い金属音が響く。

 空気が変わる。

 地上の埃とパンの匂いが消えた。

 カビ。汚泥。腐った何か。

 王都の「澱み」が凝縮された匂い。


 松明の火が壁の濡れた染みを照らす。

 水の滴る音。

 遠くで何かが擦れる音。

 私の狩場。

 左腕の瑕疵が冷たく疼く。

 ゼノスが遺した「印」

 この闇はあの廃坑に似ている。


 私はカイルに教わった歩き方で進む。

 音を立てない。

 カイルのナイフは腰。

 イヴェッタの銀のナイフを右手に。

 獲物がいた。

 赤黒い目。

 通常より二回りは大きい「ネズミ」

 ヤツが私に気づく。

 私の左腕の匂い。

 ゼノスの残り香。

 ヤツが狂ったように跳躍する。

 私は銀のナイフを逆手に持っていた。

 ヤツの喉元を切り裂く。


 返り血。

 獣の異臭。

 私は死骸の耳を切り落とす。

 討伐の証拠。

 淡々とした作業。

 これが私の「日常」

 害虫を飼育するための糧を得るための。


 ---


 夕方。

 私が宿に戻る。

 イヴェッタに証拠を渡し銅貨を受け取った。

 ドアを開ける。

 カビと埃の匂い。

 ヤツが寝台で私を待っていた。

 だが、空気が違う。

 私が部屋を出た時よりも、濃い「屈辱」の匂いが澱んでいる。


 ヤツがカイルの顔で私を見た。

 その頬に、乾いた泥の跡が、わずかに残っていた。

 床が濡れている。

 水差しが倒れ、ヤツの届かない場所に転がっていた。

 こぼれた水が、埃と混じり、異様な染みを作っている。


 そして、その染みの上を横切るように、一つの「跡」があった。

 私のものでもない。

 ヤツのものでもない。

 泥のついた、軍靴の踵の跡。

 ギルドで見た、「鉄の爪」の連中が履いていたものと同じ型だ。


「……遅い」


 ヤツがカイルの声で言った。

 声が、震えている。

 ヤツは私を見ていない。

 床にこぼれた水を、濡れた埃を、ただ見つめている。

 カイルの顔が、見たこともないほど、無様に歪んでいた。

 私は銅貨の袋をテーブルに置いた。

 音を立てて。

 そして懐から固い黒パンを取り出した。

 今日の糧。

 ヤツの前に差し出す。


「飯だ」


 ヤツがそれを見た。

 カイルの顔が歪む。


「……またこれか」

「……」

「俺は病人だぞ! 肉だ! もっとマシなモンを買ってこい!」


 ヤツが叫ぶ。

 カイルの喉で。

 弱々しい腕。

 ヤツはその腕で私の手を払いのけた。

 パンが床に落ちる。

 乾いた音がした。

 パンが埃まみれの床を転がる。


 静寂。

 ヤツの荒い呼吸だけが聞こえる。

 ヤツは私を見ている。

 カイルの顔で。

 ヤツはまだ自分が「主人公」だと信じている。

 私が「ヒロイン」として謝罪しパンを拾うと信じている。


 私は床に落ちたパンを見ている。

 カイルが愛したパン。

 ヤツが「マズい」と捨てたパン。

 私はゆっくりと屈んだ。

 床のパンを拾い上げる。

 埃を払う。


 そして。

 私はそのパンを自分の口に運んだ。

 ヤツの目の前で。

 固いパン。

 下水道の匂いが混じったパン。

 それを咀嚼する。


 ヤツが息を呑む音。

 カイルの碧い瞳が私を見開いている。


「……お前。何を」


 私は残りのパンを懐にしまった。

 ヤツの分のパンはもうない。

 ヤツはカイルの身体を人質に取っているつもりだった。

 だがカイルの身体は私なしでは生きられない。

 私はヤツの「命」を管理している。

 害虫の序列がここで決まった。


 ヤツはカイルの身体で震えていた。

 カイルの顔から血の気が引いていく。

 私はヤツに背を向けた。

 カイルのナイフの手入れを始める。

 ヤツの飢えなど私の知ることではない。

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