第7話 密室の夜
床板は冷たく硬い。
背中とかばんの間に挟んだ木箱の角が腰の骨を圧迫する。
その鈍い痛みが私を闇の中に繋ぎ止めていた。
部屋は埃とカビの匂いに満ちている。
そこにヤツの匂いが混じる。
馬車の中で嗅いだあの生暖かい汗の匂い。
カイルの匂いではない。
カイルの身体から発散される異臭。
呼吸をするたびその匂いが肺を汚していく。
ベッドがきしむ音。
ヤツが寝返りを打った。
カイルの身体で。
カイルの寝間着で。
ヤツは眠っている。
カイルのものではない不規則な寝息。
時折獣のように浅く喉を鳴らす。
カイルはこんな音を立てなかった。
彼の寝息は鍛冶仕事で疲れた身体を休めるための静かで深い川の流れのようだった。
私はその音を聞きながら眠るのが日常だった。
その日常はもうない。
ヤツの寝息が途切れる。
静寂。
私は息を止めた。
かばんの口に忍ばせた刃物の柄を指先でなぞる。
カイルが「
指紋が吸い付くような冷たい鉄の感触。
「……んん」
ヤツが唸り声と共に再び寝息を立て始めた。
無防備な背中。
カイルの背中。
あの背中にヤツが宿っている。
今このナイフを突き立てれば。
ヤツの心臓を止めれば。
だがそれはカイルの身体を殺すことだ。
私の聖域を私の手で破壊することだ。
それはできない。
窓の外が白み始めた。
一睡もしていない。
だが疲労は感じなかった。
神経が冷たいワイヤのように張り詰めている。
全身が研ぎ澄まされた刃物になっていく。
ヤツが動いた。
ゆっくりとカイルの身体が起き上がる。
寝癖のついたカイルの碧い髪。
ヤツはカイルの手でその髪を雑に掻きむしった。
カイルの癖ではない。
カイルは左手でこめかみを掻くだけだった。
「……あー。よく寝た」
ヤツがカイルの声で呟く。
大きなあくび。
カイルの口から生臭い朝の息が漏れる。
ヤツが私を見た。
床に座り込んだままの私を。
「……お。おはようエリアナ。床じゃ寒かったろ」
ヤツがカイルの顔で笑う。
その紅い瞳が私を「獲物」のように見ている。
「純情」なヒロインが一夜明けてどうなっているか。
試すような視線。
私はゆっくりと立ち上がった。
わざと膝がもつれるように演じる。
「きゃっ」
テーブルの縁に手を突く。
「……おはようカイル」
私は完璧な「エリアナ」の仮面を貼り付けた。
寝不足で少し潤んだ目。
戸惑いと恥じらいで上気した頬。
ヤツの「お約束」通りのヒロイン。
「だ大丈夫。私……平気だから」
「ははっ。無理しやがって」
ヤツの顔が緩む。
私の演技をヤツの「イージーモード」の脳が正しく処理した。
「さっさと準備しろよ。今日は王都まで一気に行くぜ」
「うん」
ヤツはカイルの身体で立ち上がり無防備に服を脱ぎ始めた。
カイルの背中。
鍛冶で鍛えられた筋肉の筋。
そこに小さな古い傷跡がある。
幼い頃私を庇って木から落ちた時にできた傷。
カイルと私だけの秘密の印。
ヤツはその傷に気づいてもいない。
自分の身体に刻まれたカイルの歴史を何も知らない。
ヤツが新しい服に着替える。
村長が用意した旅着。
カイルには少し小さかったはずの服がヤツにはぴったりと合っていた。
ヤツの魂がカイルの身体を内側から変質させているのか。
不快感が背筋を走る。
「さてと。それじゃ行こうぜエリアナ」
ヤツが私に手を差し出す。
カイルの手。
その手を私は昨日から一度もまともに取っていない。
「うん!」
私はその手の横をすり抜けた。
自分の荷物を背負い先にドアに向かう。
「あ。カイル。鍵。昨日から借りっぱなし」
私は椅子の背もたれからドアノブに仕掛けた即席のロックを外した。
カイルに教わった罠をヤツに気づかせないように。
「お? おお。そうか」
ヤツは何も気づかない。
ヤツは私をただの「ドジでチョロいヒロイン」としか見ていない。
それでいい。
宿の階段を降りる。
一階の酒場は朝食をとる商人たちで騒がしかった。
御者が私たちを見つけ手を振る。
「おうカイル坊主! エリアナちゃん! 昨夜は楽しかったか?」
下卑た笑い。
ヤツがカイルの顔でそれに答えようとする。
「まあまあでしたよ」
「カイル! 馬車! 馬車が出ちゃう!」
私はヤツの台詞を遮り袖を引っ張った。
カイルの袖を。
ヤツの肌に触れないように。
「わっ。おい引っ張んなよエリアナ」
ヤツは私の「ドジ」に文句を言いながら御者に金を払っている。
馬車に乗り込む。
昨日と同じ狭い密室。
埃と汗と異臭。
車輪が軋み再び街道の旅が始まる。
王都。
ヤツの「イージーモード」の次の舞台。
私の本当の戦場。
ヤツが荷台の隅で早速ふんぞり返っている。
「王都に着いたらまずは城だな。国王に会ってこの力を……」
ヤツがカイルの声で自分の「シナリオ」を呟いている。
私はヤツに背を向け馬車の揺れに耐える。
かばんの中の木箱が背中に当たる。
硬い痛み。
カイルが遺した痛み。
それだけが私の道標だった。
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