第27話「最強の契約」
「正也君! 目を覚ませ!」
夜空の頂上まで上った満月が、正也に縋る櫻の姿を照らす。
正也は赤く染まった目を見開いたまま俯き、ぶつぶつとうわ言を呟くだけだ。
「正也君!」
「くははっ」
まるで悲劇のワンシーンのようなその光景を、全身を分厚い毛皮に覆われた狼男、ケルヴァスは黒い愉悦を隠すことなく見つめる。
「お前、正也君に何をした⁉」
櫻に睨みつけられ、ケルヴァスはいかにも面倒くさそうに頬を掻く。
「何をって、二択を迫ったんだよ」
ケルヴァスは小首を傾げ、二本の指を立ててみせた。
「二択?」
「ああ、運命を受け入れて王の器となるか、力に魅入られて王子となるかの二択をな」
「そんなこと、出来るわけが無い」
「出来るんだよォ」
そしてケルヴァスはその二本の指で自分の胸をトントンと叩いた。
「吸血鬼の本性を暴き出す。それが俺の血魂共鳴(ブラッドエコー)」
ケルヴァスは得意げにそう言い放ち、満月を見上げて仰々しく両手を広げた。
「ああ今夜は、とびきり良い夜だ」
そしてケルヴァスは、遠い目を浮かべた。
「本当に、永い昼だったぜ」
そうして目を閉じ、深呼吸を挟んだケルヴァスは、ぐるりと首を回して骨を鳴らした。
「さあ、そろそろ終わりにしよう」
「……嫌だ」
集中力が途切れてしまった櫻は、意識を取り戻さない正也に縋ったまま動けない。
「変わった世界に弱者は必要無い」
ケルヴァスはじりじりと間合いを詰めていく。
「現実が支配し、適応した強者だけが生き残る。それで良い」
そしてケルヴァスは、怯えて足が竦んでいる少女を捕えようと手を伸ばす。
「子供だからな。楽に死なせてやる」
「ッ!」
櫻は本能的に目を閉じる。
一瞬、死を覚悟する。
そのときだった。
「この、音は」
正也の胸に当てた耳に飛び込んでくるのは、正也の心臓の音。
急速に熱を取り戻し、激しく脈打ち始めた心臓の音。
安心して、頬が紅潮する。
「遅いぞ、ヒーロー」
そして、ケルヴァスのその手が櫻に触れることはなかった。
「ッ⁉」
ケルヴァスの太く血色の悪い腕がぎりぎりと締め上げられていく。
彼は顔を上げ、恐怖で言葉を失う。
正也の冷徹で、殺気のこもった目が彼を射抜いた。
「彼女に触るな」
正也はそう呟き、さらに力を込める。
「離せッ!」
「そうだな。そうしよう。だが」
「がっ⁉」
そして、ケルヴァスの身体を引き込み、今度は首を締め上げる。
「逃がさねえ」
そう呟く正也の冷たい目と対照的に、ケルヴァスの目は恐怖で濁っていく。
「うがぁぁあ!」
ケルヴァスは限界を迎える直前、全身の力を絞り出し、正也の手を振りほどく。
首を抑え、瞬時に正也と距離を取ったケルヴァスは顔を上げ、呼吸も忘れて目の前の光景に見入った。
「何だ、その目」
殺気に染まっていた正也の目は、櫻を見下ろすことで穏やかなものに変わっていく。
「その手」
ケルヴァスの首を締め上げた反対の手で、まるで宝物を扱うように櫻の身体を包みこむ。
彼のその姿は、今や理性そのものだった。
「何者なんだよ、お前ッ」
首を抑えて呼吸を整えるケルヴァスを一瞥し、正也は腕の中の櫻に視線を落とす。
「すみません、遅くなりました」
「すみませんじゃないよ。本当に、心配したんだぞ」
櫻は正也の腹に顔を擦り、背中に手を回す。
「もう、戻ってこないかと」
正也は少しだけ笑い、櫻の頭をそっと撫でた。
「もう、どこにも行きません」
「私だって、どこにも行かせない」
櫻はそう言い、徐に自分の首筋を露わにする。そしてもう片方の手を、正也の肩に回した。
「私のものだ」
独占欲をさらけ出したその瞳を見つめ、正也も同じ温度を瞳に込めた。
「はい」
そして、櫻の首筋に顔を近づけ、輪郭を食むように口を開いた。
「俺のものだ」
正也の鋭い牙が櫻の柔肌に侵入していく。
その甘い血が喉から入っていく度に、支配欲と使命感が血管を走る。
二人のその行為に、誰も口を挟めなかった。
正也の放つプレッシャーは、ケルヴァスの目から見ても確かに王に匹敵するものになっていた。
「何なんだよ、お前! 王に、支配されたんじゃなかったのか」
正也は顔を上げ、ケルヴァスを冷たく見下ろす。
「そいつなら今、お前を殺すために協力してくれてるよ」
「な、に?」
正也は右手をかざす。すると血契刀が跳ねたように浮かび上がり、その手に収まった。
「答えてくれ。この剣なら、お前のことを斬れそうか?」
ジャキッと音を立てて刃先を向ける。
情けなど欠片も入り込む余地の無さそうな、禍々しいオーラに包まれた大太刀が、月明かりを反射した。
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