第26話「深層、力の果て」

 ケルヴァスの咆哮を聞いた正也の意識が、静寂と闇が支配する世界に落ちる。


 正也は目を覚まし、右、左、そして自分を見下ろして、口を震わせる。


「ここは、どこだ」


 正也は手を伸ばし、掴む素振りをしてみる。しかし、何にも届かず、何も掴めない。


「俺は、何をしていたんだ」


 混濁した記憶の中、きっかけを探し、そして「あっ」と呟いた。


「そうだ。先輩ッ!」


 呼びかけてみる。しかし、声はかき消え、返ってこない。


「戻らないと」


 焦燥感に駆られ、走り出す。でたらめに手を伸ばし、さらに脚を回転させる。


『出口はどこだ』

『早く戻って、戦いを!』


「そうだ」


 しかし、脚が止まった。


 思い出してしまった。


「あの剣は、使えない」


 もはや機能しない血契刀。頼っていた声の正体。櫻に対する申し訳なさと、情けなさ。


「俺が戻っても、意味無い」


 正也は無力感に支配され、そんなことを呟いた。


 そのときだった。


「会うのは初めてだな。妖木正也」


 背後に人の気配。同時に、若い男の声が聞こえる。


 男のその声は、正也には聞き覚えがあった。


「ッ!」


 弾かれたように振り返る。しかし、その瞬間に人型の煙が霧散する。


 煙が流れた方向、右耳の傍、もう一度声がする。


「我が誰だかわかるか」


 動けないまま、口を開いた。


「わかる。お前が、吸血鬼の王だ」


 そう答え、耳元で心底愉快そうに笑う声が響く。


「早速だが、手短に済まそう」


 背後、右から左へ気配が流れていくのを感じ取る。


「我に身体を委ねろ」


 有無を言わせぬその圧力に、正也は足が竦む。


「そうすれば、今回も勝たせてやろう」


「その次は」


「ん?」


「その次は、あの人を殺すのか」


 王はすぐには答えず、この張りつめた空気を撫でるようにため息をついた。


「良いか、人間は餌だ」


「ッ……!」


 正也はその口を黙らせようと、怒りに任せて右手を振りかぶる。


 しかし、またも煙はその場に霧散した。


「そう怒るな。お前も、よくわかっているはずだろう」


「わからない」


 首を振る。口を噤んで、もう一度首を振った。


「先輩は俺のことを必要としてくれる。わかろうとしてくれる。先輩も、人間も、餌なんかじゃない」


「あっはっはっはっ!」


 笑い声。正也の神経を逆撫でるように、すぐ近くで響く。


「青い! 青過ぎる。しかしその青さも、ここまで来ると才能か? ん?」


「お前にはわからねえよ」


「わからん! わかるはずもない。何の価値にもならない綺麗ごとだ! 現実を直視出来ない弱者の吐く台詞だ! 実にくだらん」


「弱者か、そうだろうな」


 正也は怒りを拳の中にしまい込み、項垂れた。


「俺は、弱い。何も、出来ない」


 肩を震わせながらそう呟く正也の肩に、王は手を置く。


「そう落ち込むな。お前には特別な力がある。我の遠い遠い孫であるお前にだけ与えられた、力が」


 肩に置かれた手を、正也は振り払う気になれなかった。


「さあ、今回も同じだ。そうだろう?」


 聞かれ、正也の脳裏に蘇る、これまでの暴力と自己嫌悪の日々。


 力に頼り、解決しようとしたあのとき。


 ダメだとわかっていながら、それ以外に方法がわからなかったあの瞬間。


 力に頼る度、正義とは何かと自問し続けた毎日。そうしていく内に心が回復不可能な程すり減っていくのを、正也は感じていた。


「簡単なことだ。勝ち続ければ良い」


 簡単、その言葉を聞き、正也の肩がピクリと動く。


「勝ち続け、生態系の頂点に立ち、全てを支配するのだ。そうすれば、お前を悩ませるものは何も無くなる」


 生態系の頂点に立った自分の姿、正也はそれを想像し、


開放感で、心が跳ねた。


「我と共に行こう。遠い孫よ。貴様を虐げてきた者たちに報いを与えるのだ」


 正也は徐に頭上を見上げ、ふっと笑った。


「頂点の景色、そりゃ魅力的だな」


「おお」


 正也は自分の理想の味を噛みしめるように、右手を握る。


「何も悩み事が無い。さぞ清々しいだろうな」


「そうかそうか。では」


「でも、契約だから」


「……なに?」


 王の手が、正也の肩を強く握る。


「あんな契約、あの女を眷属にすれば済む話だ。何の問題も無い」


「でもあの人、ふとした時に遠い目するんだよな」


「は?」


 正也は頭上を見上げたまま、握っていた右手の力を抜く。


「話してるとき、歩いてるとき、会話が途切れると、そういう目で遠くを見る。何か言いたげで、何も言いたくないみたいな、そういう目」


「何の話だ。気でも狂ったか」


「気が狂ってんのはお前の方だよ」


 今度は正也が、くつくつと笑った。


「あの人は生きたいと願ってる。死にに行きながら、止めてくれる人を探してる。そして俺を見つけた。俺がいなくなって、どうする」


「はっ、馬鹿々々しい。恋というやつか?」


「そう呼びたいならそうすれば良い。それ以外に形容する言葉が見つからないならな」


 王は正也の肩をぎりぎりと掴み、そして放す。


「口が達者なのは勝手だが、この状況、どうするつもりだ? お前が我儘を言っている内は何も変わらん」


「簡単だ。お前に身体を預けて先輩を裏切るくらいなら、俺は死ぬ」


 正也がそう言い放ち、その背後の王の圧が一瞬消える。


「何を、言っている」


「お前の言う通りになるくらいなら死ぬ。そう言ったんだ」


「貴様、本気で言っているのか」


「本気だよ。結局俺は力を使うことしか貢献出来ないし、あの人は自分のこれからの人生全て賭けてくれた。俺は、命を懸ける」


 正也の背後、動揺と怒りが空気を震わせる。


「青い青いと思っていたが、ここまで来ると病気だな。人間の血が混ざったからなのか? 人間に絆されて、これだから吸血鬼が弱体化していくのだ」


「弱体化? 何言ってんだ」


 正也は右の拳を握り、胸に押し当て、心臓の音を聞いた。


 愛を貫こうと昂る自らの心臓の音を、固い拳で聞いた。


「大切な人に生きていて欲しいと願う。これが強さでなくてなんなんだ?」


「ッ!」


 弱気な背中から一転、覇気を纏う正也に、王はたじろぐ。


「冷静になれ。今意識を取り戻したとしても、結果は変わらん。血契刀は機能しない。本当に死ぬぞ」


「ああ、それで良い」


「さっきから何を言っている⁉ 良い訳無いだろう⁉」


「そう、良い訳無いだろう?」


 正也は振り返る。


 自分と同じくらいの背の人型の煙を、真っ正面から捉える。


「ありがとう。俺の前に現れてくれて」


「な、に?」


「おかげで希望が見えた」


 正也は、まるで櫻がそうするように不敵に笑い、手を差し出した。


「俺に死んでほしくないなら、わかるよな?」


「……流石だな。我の血を引く男よ」


 王を覆っていた煙が剥がれていく。


 そして、長い前髪で目を隠した、細身の若い男の姿を露わにする。


 鋭く長い爪と牙、そしてその背中から伸びる巨大な黒翼が、彼を異形たらしめていた。


「また会おう。器よ。もしくは」


 王はそこで言葉を止め、次の瞬間、その爪で自身の首を切り裂いた。


 飛び散った鮮血は宙に留まり、正也の目の前に螺旋を描いて集まっていく。


「王子よ」


 温度を取り戻していく意識の中、嬉しいような悔しいような、そんな声が聞こえる。


『もう迷わない』


 正也のその心の声は、彼の中に確かに響いた。

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