第2章「それは、最悪で最強の契約」

第9話「傍に来て」

 街を一直線に走り抜け、正也の目に、夕暮れに染まった校舎が映る。


 グラウンドには既に誰もいない。


 正也は体育館の前で足を止めた。


 櫻の血の匂いが鼻を突く。身体が一度、大きく震える。


 風が強く吹いて、木々がざわついた。


「大丈夫」


 自分に言い聞かせるようにそう呟き、体育館の重く冷たいドアを僅かに開ける。


「……?」


 そのとき、足に何か乗っかったような感触がし、視線を落とす。

 そこには、「封呪」と書かれた札が落ちていた。


 正也の全身を駆け巡る、悪い予感。


「先輩っ」


 力を込め、一気に両スライドのドアを開けた。


 正也の視界に飛び込んだのは、黒い壁。


 夕陽の色を飲み込んだような、無音の壁だった


「何だ、これ」


 手を伸ばし、触る。しかし、コンクリートのそれのように、ビクともしない。


 正也は直感した。これは、櫻が作った“壁”だと。


「おいっ! 神野櫻! 聞こえるか! 開けろッ!」


 次の瞬間、正也は黒い壁に拳を叩きつけていた。


「聞こえてるんだろう⁉」


 叩く。叩く。鈍い音が空しく響く。

 夕陽がさらに傾く。


「おいッ! 開け……」


 正也はもう一度拳を振り上げ、気付いた。


 これは、神野櫻の見ていた光景だった。


 心を閉ざした自分に向かって、櫻も同じように、必死に呼びかけていたのだ。


『私の美味しい血と君の力の、交換だ』


 そう言って契約を持ちかけてきた櫻の姿が、正也の脳裏に蘇る。


「助けてと、言えば良かったのに」


 そう呟いたその瞬間、正也が触れている部分が僅かに“波打った”。


「助けたいと、言えれば良かった」


 もう一度、もう一度脈打つ。それはやがて大きな波となって、壁全体を揺らし始める。


「手伝わせてほしい」


 壁に突き立てた拳が、ゆっくりと壁に“飲み込まれていく”。


「あんたの地獄を」


 正也は目を閉じ、櫻のことを思い出す。


 自分に夜這いしてきたあの夜のこと。祓魔師としての一面。少女としての彼女。


 そして、半年前、初めて会ったあの日のこと。


「……ん」


 ゆっくりと、目を覚ます。


「ここは……ッ!」


 目を開き、一気に視界が開ける。

 血の匂いでむせ返りそうな体育館の奥、ステージの手前、漆黒のスーツを身に纏った仮面の男が後ろ手を組んで立っている。

 そして、中央付近には――。


「君、来てくれたか」


 振り返る。頬から血が滴る。

 象徴的だった長い黒髪は乱れ、美しく着こなしていた制服は傷だらけになっている。

 太刀を握る両手は細かく震えていて、微笑みが痛々しい。


 満身創痍。


 今の櫻を見て、そんな一言が正也の中に浮かんだ。


「ありがとう。でも」


 櫻の目から、光が消えていく。


「逃げてくれ」


 血溜りに血が滴る。正也にはこの静寂が、悲鳴よりも痛く感じた。

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