第25話 抱擁
「フラナ、不安にさせたな」
ヴィッセンには緘口令を強いて、イルはランの近くでフラナに声を掛けた。
「いえ…私が勝手に不安になってしまっただけです」
フラナはヴィッセンが来てからは何も話さずに、ただ皆の会話を聞いていた。
「………父が以前言っておりました。母は狩りをしていてお付きの者達と逸れて、怪我もしていた時に助けてくれた人だと言っていました。そして、私が産まれてすぐに城を出て行ったと聞いてます」
フラナには母の記憶がほとんどなかった。それだけ小さい頃に城を出てしまったのだろう。
「“フラナ”という名前は本名ではありません。それが本当かも小さすぎて分かりませんが、母が私をフラナと呼んでいたような記憶だけが唯一の母の記憶で、それで私は故郷を出た時にフラナと名乗る事にしたんです」
あの国の第三王女として生まれ、目立たず生きてきた女性はあの日消えたのだ。
だから、もう名前を捨てようと考えた時に思い出したのが、母の記憶だった。
「…もしも母が森に住み、城内での生活が嫌で森へ戻ったのだとすれば、母が竜人かその血を継いでる可能性もなくはないのかと…」
ランの側にいるというのに悲しそうな顔をしているフラナの手を握った。
「そうだとしても、そうでないとしてもどちらでも良いじゃないか。君のご両親がいてフラナが生まれ、今此処にいる。その奇跡に俺は今とても感謝している」
竜人がほとんどの国で知られていない種族だとすれば、フラナの母が竜人なのか、それは証明しようがない。
それに竜人伝説が本当であれば、イルにも竜人の血は流れている可能性が高い。
「俺はランがいて、この国があって、そして其処にフラナが来てくれた。それでもう充分だ」
多くの人間にとって出生というのは大事なものだ。それを疎かにするつもりない。
それでもイルにとっては、生まれてすぐにランという竜と出会い、共にこの国で生きて、そしてフラナが飛び込んできた。それが全てだ。
「イル様…」
またフラナの瞳から涙が溢れている。存外、泣き虫な女性だったらしい。
「フラナ、一人で抱え込まないで、全て俺に話してくれ」
イルはフラナを抱きしめた。溢れる涙を拭ってもやりたかったが、きっと今の涙は安堵の涙だと思うから、自分が側にいるという事を示したかった。
イルとはランに乗る時に接近する事はあるが、こうして抱きしめられるのは初めてだった。
こんな風にされると、どうしたら良いのか分からない。
昨日ヴィッセンから竜人の話を聞いてフラナはとても怖かった。
まるで楽園のようなこの国から出て行かないといけないかもしれないのかと思い込んでしまって、とにかく怖かった。
ここを出るのなら故郷に戻り罰を受けたら良いのかと、一日の休暇の中で、街からいつもよりだいぶ遠く見える竜舎の方を眺めていた。
「イル様、私…此処にいたいです」
きっと此処にいるフラナの姿を、故郷の人が見れば驚くだろう。
故郷にいた時は何をしても無機質で気持ち悪がられたりしていた。
何が好きで嫌いかさえ分からない人間だった。
「ずっといてくれ。今更何処かに行かれても困る」
この国に何故初代の竜騎士が腰を落ち着けたのかは分かる気がする。
此処は竜騎士や竜にとても居心地がいいのだ。
「…何の約束もしていない若い男女が無暗に接触するのはいかが、かと思いますが」
ヴィッセンに厳重に緘口令を強いてから戻ってくれば、イルがフラナを抱きしめている場面に遭遇した副団長だった。
「わ、私…」
フラナは副団長の声に顔を真っ赤にして、ランに飛び乗り、一人で飛んで行ってしまった。
「副団長!良い雰囲気だったのに邪魔するな!!それにフラナが照れて逃げてしまったじゃないか!」
良い雰囲気ではあったが、仮にもお前は第一王子だろうが。と、一応声には出さずに胸の中で止めておいた副団長だった。
「ラン!戻って来い!!」
追いかけたいのに、ランを連れて行かれてしまって追いかける事さえ出来ない。
「副団長!!お前の責任なんだから、お前が早くフラナ達を連れて帰れ!!!」
竜同志で追いかけるには、既に飛んで行かれてる状況では自分の方が分が悪いのでは?と思いつつ、イルがご立腹なので仕方なく迎えに行く副団長であった。
「フラナ!竜舎に戻ってもらわないと自分がいつまでたっても帰れません!!」
結局多少近付いた所で大声で叫び、フラナの良心を揺さぶりかける作戦が成功して、ランとフラナが竜舎へ戻ってきた。
「あの…私が竜人の事で戸惑ってしまって、それを慰めてくれていただけなんです」
何故かフラナが必死で言い訳をして、走り去ってしまった。
今日は珍しく自室で寝るようだ。
「…自分に文句を言う前に、ちゃんと順序を踏んでからにしてください。と、私は何度もお伝えしてきました。では、自分も帰ります」
フラナが走り去ってしまい、また文句を言ってやろうと思っていたのに、先に釘をさされた。
「貴方はこの国の第一王子。フラナはセリュー国から脱走してきた第三王女だという事はお忘れなく」
竜を愛してこの国まで来た世話人と、生まれてすぐに竜と共に過ごしてきた竜騎士団団長。
この二人が年齢も比較的近く、独身同志だというのだから、それは惹かれ合わない方が無理だろう。だが、問題を抱えてる事も確かだ。
「…そんな事は問題じゃない。一番問題なのはフラナの気持ちだ」
フラナに続いて竜舎を去っていく副団長の背中に小声で呟いた。
日に日に大きくなっていくフラナへの気持ちと、日々フラナがいる事が当たり前になっていって怖いくらいだ。
今更、フラナ以外の女性にランが多少懐いたから結婚しろ。と言われても、それに従える気がしない。
フラナに会うまでは、ランが許してくれる人がいたら、その人が自分の運命の女性なんだろうと思っていたのに。
「ラン…お前もフラナを好いているだろ?」
だったら、それがイルにとっての運命なのだろう。
「フラナにとっては…どうだろうな………」
ランの事は大切に思ってくれているだろうが、イルの事を男性として好きだと思ってくれているかは分からない。
副団長の言う通り順序もそうだが、相手の気持ちも確かめずに抱きしめるのは人として良くない行為だった。
「今日は久々に俺が一緒に寝るか」
フラナが来ないから、ランが寂しくないように今日はイルがランと一緒に寝る事にした。
「イル様?」
心を鎮める為に入浴を済ませ、ランの事が気になり竜舎に来てみたら珍しくイルがランにもたれかかって眠っていた。
炎竜から炎を分けてもらい、暖房具を傍に置いて、寝具をそっとイルにかけた。
心の中で、おやすみを告げてフラナは自室に戻って、一人で眠りについた。
明日もあんな寝顔が見れたらと良いな、と願いながら。
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