第5話 境界線上の微笑み
俺は自習室を後にし、夜の廊下を、最初の数歩は小走りで走ったが、時間が経つにつれて歩調を戻した。
冷たい空気は、さっきまで葉山と繰り広げていた静かな戦いの熱気を覚ますのには丁度いいくらいだった。
しかし、体は冷えても心の奥で、燃えるような気持ちは正直収まっていなかった。
右手で握った落ちていた消しカス。葉山の席に放置されていたその小さな破片は、俺にとって彼女が乱れていた証拠であり、支配の成果を示しているように思えた。
少しでも彼女の防御壁に傷をつけることができた。もう彼女の敷いた役割を強いられることは二度とない。
俺は葉山から『秘密の保管庫』という役割を強いられたあの屈辱を解消するために、次の行動を強く望んでいた。次の戦場は葉山がもっとも死守したいであろう教室だ。
翌朝、俺は目覚ましがなる前に、ベッドから飛び起き昨夜より体裁を整えた。洗面台の鏡に映った自分の顔は、相変わらずパッとしないが、瞳に奥に光が宿っている気がした。
家を出て、数分歩いたところで何故か前方に葉山の姿が見えた。葉山を見るのはいつもだったら、横断歩道辺りなのに今日は何故か俺の前にいる。
葉山は俺に気づくと一瞬道端に立ち止まったが、すぐにいつものとびきり眩しい満点の笑顔を浮かべ、軽く会話すると、足を早めて前に進んで行った。
「逃げたな。」心の中で強く思った。彼女が俺を避けたことにより、昨日の俺が彼女にした行動で彼女の防御壁に少しでも傷が入っているということが分かった。
俺の存在が彼女の計算を狂わせているのを実感した。胸の奥がぞくぞくと熱くなる。
学校着き、自分のクラスの教室に入ると、葉山は既に自分の席に座り、周囲のクラスメイトと完璧な笑顔で談笑している。昨日までと何一つ変わらない、優等生の舞台だ。彼女は、俺と目が合ってもすぐに目を逸らした。
俺は自分の席に座る。この俺を避けている行動は全く屈辱を感じない。彼女が必死に「自分の防御壁を修復しようとする力」こそが俺の支配の成功を裏付ける確たる証拠だと解釈した。
俺は今日の攻防のターゲットを定めた。それは葉山が最も維持したい『優等生という評判』そのものに揺さぶりをかけることが第一の目的だったからだ。
自主室とは違いここは彼女の舞台だ。その上で役者を崩壊させる方が、何倍も効果的だろう。
朝のホームルームが終わり、午前の授業がいつも通り始まった。普段なら「いつもの退屈な1日が始まるのか。」と思うが今日は違う。なんてったって今日は俺がこの舞台の主役である優等生の台本を書き換えるからだ。
一時間目の英語の授業。葉山はいつも通り綺麗な姿勢で、先生の話を真剣に聞いている。その姿は自分に対する周囲のプレッシャーを跳ね返すためにやっていることだと分かった。
その姿が俺が葉山に対してやったことによって少しづつ脅かされているということを知っているのは俺だけである。
葉山は教師の言葉をひとつも聞き流さず、ペンを走らせている。その完璧な集中力、それこそがいとも簡単に崩すことができない彼女の防御壁なのだと思った。
集中している時こそ、人は隙を見せる。今こそ俺の存在というノイズを彼女に注ぎ込むこむときだ。
俺はおもむろににカバンの中から小さなメモ帳を取り出した。シャーペンでそれに一言だけ書き、それを破き2回折った。
その動作の音は周囲の音にかき消され、誰も俺の行動に気が付かなかった。
葉山が単語の意味を確認しようと、顔を少しあげ教科書に目線を合わせる。俺はその一瞬を狙った。
俺は音を立てないように、冷静にその小さなメモを机の端、彼女の右手のすぐ横に置いた。
メモの内容はシンプルで二人の秘密に関するものだった。
「昨日の涙、あれ俺のせいだろ?」
葉山はメモの気づく葉山は、一瞬だけ顔から表情が消え、顔が曇った。その時間は、瞬きよりも短い、コンマ数秒の世界だったが、俺は見逃さなかった。
彼女は周囲の生徒の視線を確認し、すぐに「ペンを落とした」かのように装う動作で、机の下に手を伸ばし、そのメモを回収した。ほっとした顔をしたように思えた。
この場で騒ぎを起こして優等生の仮面を剥がされるより、俺の『不履行』を受け入れることを選んだか。なんて奴だ。
葉山は回収したメモを、ノートの隙間に押し込むことで周りから見えないように隠した。
しかし、彼女が再びペンを握った時、その指先は少しばかり震えていた。その揺れが、俺の言葉が彼女の心の防御壁に深く突き刺さったことを示していた。
ヒビが入ったガラスは、わずかな振動でも全体に響く。
葉山の『完璧な姿勢』が、一瞬だけ崩れるのを俺だけが確認し、優越感が高まる。
俺は、この静かな侵入が成功したことに、心の奥底で狂喜乱舞だった。
二時間目の世界史の授業。俺はさらに葉山に仕掛ける。
教師が、葉山に特定の歴史的な背景に関する難しい質問を問いかけた。
「では、葉山。この時代の権力者の真の動機を、君の言葉で説明してみてくれるか」
葉山は立ち上がり、完璧な模範解答をクラスで発表し始める。生徒たちは皆、葉山が話すその優雅で流暢な言葉に感心しているというのを顔を見たらすぐ分かった。
その間、俺は一切表情を変えずに、葉山の目を真っすぐに見つめた。それは、「ここで完璧さを保つことができるか」という、俺からの無言の、強烈な仕掛けだった。
見ろ。この完璧な優等生の殻を。俺という存在がいる状態で、どこまでその仮面を保つことができる?
葉山は迷いなく解答を続けるが、俺の視線に耐えかねたのか、話の途中で声がわずかに裏返った。その瞬間、葉山の表情筋がわずかにピクリと動くのが見えた。
周囲の誰も、それを『緊張』や『自信の揺らぎ』として認識していない。しかし、俺にはそれが、「もう抵抗はしない」という、葉山からの最初の屈服のサインと認識した。
彼女は解答が終わると、即座に席に座り、再びノートに視線を傾ける。
俺は、視線による無言の攻撃が、彼女の評判そのものに揺さぶりをかけたことを理解し、静かに笑うのを我慢した。
昼休みの時間になった。教室は弁当を広げる生徒たちの談笑に包まれ、葉山は女子グループの中心で、今日も明るい笑顔を浮かべている。
俺は、その談笑の中を縫うように、葉山の席に歩み寄った。
「葉山」
俺は、あえて数人のクラスメイトに聞こえるよう、少し大きな声で話しかけた。これを機にほかのクラスメイトたちが俺に視線を注目させた。
「葉山、昨日相談してたこと、解決したか? 大丈夫そうならいいけど」
俺の言葉は、周囲のクラスメイトに、葉山と俺の間に『深刻な秘密の相談』があるという、最も邪魔しにくい偽りの関係を印象づけることを言った。
葉山は、俺の言葉に一瞬だけ顔から表情が消えたが、その沈黙は一瞬で、すぐに完璧な優等生の笑顔に戻る。
周囲の生徒たちには、俺を『親切な友人』として印象づけるように振る舞いながら、俺にしか聞こえないとても小さな声で話してきた。
「潮見くん、その優しさは、私の『秘密の保管庫』には必要ないよ。あなたが自分の役割を理解しているなら、余計な行動はやめて」
まだ『役割』の話か。優しさは不要だと? 冗談言うんじゃねえ。俺の行動は、お前の防御壁を破るための、必要な『暴力』だ。
葉山の偽りの笑顔を打破するため、俺は『身体的な境界線』を破る最後の攻撃を行った。
葉山が机の上に置いたシャープペンシルが、わずかに転がった。俺はそれを拾うときに、わざと葉山の指先に触れた。触れる時間はごく一瞬だったが、公の場で、葉山はこれを拒否できなかった。
葉山は、公の場で身体的な接触を拒否できないという事態に、静かに屈した。
彼女は、周囲には見えない角度で、疲弊した、少しの安堵の表情を俺に見せた。それは、「もう抵抗はしない」という降伏のサインのようだった。
葉山は周囲のクラスメイトに、俺との会話が終わったことを知らせるように、少し首を傾げた後、俺の耳元へ顔を近づけた。その動作は、外野には親密な友人の風景に見えているはずだ。
「潮見くん。放課後、また特別教室に来て」
それは、理久が仕掛けたルールに乗る、葉山からの再度の依存の言葉だった。
『また』、か。支配の成功だと思った。彼女は、公の場での攻防を避け、二人だけの空間に逃げ込むことを選んだ。俺の不履行を止められなかった、決定的な敗北の印だ。俺はこの状況にニヤニヤが止まらなかった。
葉山からの、『再び会おう』という旨の言葉。それは、俺が待ち望んでいた新たな支配の始まりだった。
俺は、午後の授業中、達成感に浸る。周囲のクラスメイトの目には、葉山と俺が「優等生同士の、穏やかな友人関係」にしか見えていない。
俺は、この偽りの友人関係という名の支配を、もっと強く、もっと深く、彼女の心に食い込ませ、満たしてやる。
逃げ場はどこにもない。彼女は俺のことを『秘密の保管庫』としか見ていない。だが、俺は彼女の逃げ場を塞ぐ存在だ。
窓の外の光が、教室を偽善的な眩しさで照らしていた。
俺の心は、次の放課後、葉山と二人きりで攻防になるであろう特別教室での再戦への、歪んだ期待でいっぱいだった。
僕らの、透明な不履行 雲丹 @accident
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。僕らの、透明な不履行の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます