第5章 夜の学校

 その日、広瀬は残業と称して機械警備に手続きをとり、夜間でも校内を徘徊する権利を得た。

 また、校長たちには懇切丁寧に事情を説明し、隠密にさやかを案内させることを了承させておいた。


 放課後、いつものように校務を処理したあと職員室に戻ったときには、すでに数人しか残っていなかった。

「お先に失礼しまーす」と、広瀬は一度退勤する形を取った。

「あれ?今日早くない?」という冗談が振ってくる。

「勘弁してください。定時からどれだけ経ってるんですか」こちらも軽口でかわす。


 さやかを連れて戻ったときに職員が残っていると面倒くさくなるが、普段は広瀬が一番遅くに退勤しているので、どの職員がいつ頃に退勤するかは予想がついていた。

 軽く外で食事を済ますと、一度自宅に戻ってシャワーを浴びた。何を着るか迷ったが、いろいろ考えたあげく、結局いつもの無地のシャツにチノパンを身に着けることにした。

 懐中電灯を二つ手にすると、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 ハンドルを握る手に、ほんのわずかな緊張が混じっていた。


――――


「さやかさん。お待たせ」

 待ち合わせ場所で立っていたさやかは濃い色のバケットハットをかぶり、カジュアルなパンツスタイルだ。


 その顔はすでにほころんでいた。抑えきれないような笑顔に、久しぶりの夜の外出がどれほどうれしいのかが伝わってくる。

 

「夜のデートね、ドキドキする?」

 助手席に乗り込むさやかは、彼女らしくない冗談を口にした。

「ド、ドキドキするよ。そりゃね…」

 意外なさやかに、普段は機転の利く広瀬も口ごもった。

「ふふ…。私も、こんなにワクワクするのは久しぶりかも。夜の学校って、なんだか、ちょっとしたルール違反をしてるような気分」

 助手席から漂うほのかな香りに、胸の鼓動が速まる。それをごまかすように、ハンドルを握る手に力が入った。


 四十分ほどのドライブ中、広瀬は二人ともファンだったロックバンドの曲をオーディオで流した。

 曲が流れるとさやかの目が輝き、すぐに歌詞を口ずさんだ。

 広瀬も声を合わせて二人で歌いながらドライブを楽しんだ。


 車は学校に到着し、校門をくぐり抜けた。

 校舎からのぞく光が一筋も見えなかったことが、職員はすべて退勤していることを示していた。

 広瀬の読み通りだった。

 駐車場に車を止めると、それぞれに懐中電灯を持って校舎内に入る。


「悠、連れてきてくれてありがとう」さやかが小さな声でささやく。

 ふふ、と笑い声で返事をすると「さやかさん、どこから見たい?」と聞いた。

「一階は職員室?」

「そう、二階からがホームルームの教室」

「変わらないのね」

「うーん。変えられないよね」

「じゃあさ、先に職員室見せてよ」

「え?職員室が見たいの?意外だね」

「だって、広瀬先生がそこで仕事してるんでしょ?」と言いながらさやかは広瀬の顔をのぞきこんだ。そのかわいらしい仕草に、広瀬はまた心臓が高なるのを感じた。

 懐中電灯の光が揺れるたび、視界の端に映るさやかの笑顔がやけに鮮やかだった。


 広瀬は職員から『いい意味で口の悪いアザラシ』と呼ばれるのを、密かに気に入っていた。

 もともと自分に自信が無く、人と話すことも得意ではなかった。

 高校時代、演劇部に所属したのがきっかけで、少しずつ自分を作り替えてきた。

 そして、今は「高校の教師役」を演じている。「饒舌な教師」というキャラクターに自分を映していた。

 だから『いい意味で口の悪いアザラシ』と呼ばれることは、うまく演じられているという証拠のように感じられた。

 だが、女性を異性として扱う役を演じたことがなかった。

 さやかを異性として意識するにしたがい、どう扱えばいいかわからなくなる。

 役を外され、何者にも演じていない――ただの広瀬悠一郎になってしまうのだ。


「ここがね、僕が働いてる場所だよ」

 職員室の電気を点けて、自分の机を案内した。

「結構、散らかってるわね」

「えへへへ」

 机の上のチョコレートの包み紙をくしゃっと握ってゴミ箱にすてる。こんなことなら整理しておけばよかった、と心の中で嘆いた。


「そっかー、ここで広瀬先生はお仕事をなさってるのねー」

 そう言って、さやかは広瀬のイスに腰を下ろす。

 広瀬は、他にお菓子のゴミが散乱してないか、ハラハラしながら見守っていた。

「ねえ悠?」

「なあに?さやかさん」

「卒業生との懇談会、私を招いてくれてありがとう」

「どうしたの、あらたまって」

 そう答えながら、ビスケットの包み紙をごみ箱へ捨てた。

 一瞬、職員室に静けさが走った。


 …あれ?と不思議に思い広瀬が顔を上げた。

 さやかは――まっすぐに広瀬を見つめていた。

「あの講演会がなかったら、こうやって話すこともなかったかもね」

 ――そうだね、と言いかけて、広瀬は口をつぐんだ。胸がほのかに温かくなるのを感じた。

「悠に会えてよかった」

 その一言が、広瀬の思考を一瞬で真っ白にした。

「は」と、声にならない声が口から漏れる。

 二人しかいない職員室に、しばらく沈黙が流れた。

 広瀬は顔を覆い隠し、次の言葉が見つからない。かろうじて「えへへ」と照れ隠しをするしかなかった。


 さやかは照れる広瀬を見て、ふと柔らかい笑みを浮かべた。だが次の瞬間、視線を伏せ、笑顔がわずかに陰った。その瞳はさみしげな色を帯びていた。

 しかし、広瀬はそれに気づくことができなかった。


 広瀬は落ち着きを取り戻すと、手の隙間からさやかをのぞいた。

「ホームルーム教室を見に行く?」


 さやかが在学時に使った教室を案内した。

「やーん。懐かしい。……私どの席だったのかなあ」と、さやかはまた目を輝かせていた。

 さやかの横顔を見るたびに、徐々に広瀬は無口になっていく。

 さやかを異性として意識すればするほど、セリフを忘れた役者のようになっていった。

 そのたびに(落ち着け)と、自分の気持ちを否定し続けた。


 ぱたぱたぱた……と、暗い廊下にスリッパの音だけが響く。

 二人で歩く時にはさやかを見なくて済む。そこでは広瀬はまたさやかと対等に喋ることができた。

「あの野球部の彼は同じクラスだったの?」

 高校の頃のさやかと言えば、広瀬の頭に浮かぶのはやはりあの彼の存在だった。

 さやかも在りし日を思い出しながら、ポツポツと話した。

「あの子は違うクラスだったの。お互い運動部で、部活が終わってから会うことが多かったかな…、二人が付き合ってることは…、誰にも知られてなかった、んじゃない?かなぁ?」

「いつまでお付き合いされてたの?」

「ん?…いつまで?卒業したときは私はブレイズに入団してたから…。あれ?いつ別れたんだっけ?」

「ふうん、そういうものなのか」

 十二年も前のこととはいえ、そんなに曖昧になるものなのか――広瀬は不思議に思った。

 自分には恋愛経験がないから、その感覚がいまいち分からない。

「悠は?高校のときに女の子と付き合った?」

「ない」

「あ、そう」


 校舎内を見て回った後、二人は外へ出た。

 夜の校庭は、懐中電灯がいらないほどの月明かりに照らされていた。

「月がきれいだね」

「なにそれ、愛の告白?」

「素直な感想だよ」

「……そうね。月がきれいだね」


 校舎を外から眺めながら、二人はゆっくり歩いた。

 辺りは静まりかえり、二人の足音だけが響いた。

「寒くない?」

「ん、大丈夫。ありがと」

 軽く言葉を交わしながら一周まわった。

 

「さやかさん、そろそろ帰ろっか」

 一通り案内を終え、広瀬が気遣う。

「悠。体育館にもう一度行きたい。そこで最後にしよ」

 体育館での講演も記憶にあるが、さやかは無人の体育館も見てみたかった。

「うん、いいよ。行こうか」


 扉を開く音が、静まり返った校庭に響いた。

「暗いね」

「うん」

 窓から差し込む月の光だけが床を照らし、体育館全体をうっすらと浮き上がらせていた。

 二人は懐中電灯の存在を忘れ、しばらく闇に目を慣らした。


「誰もいない体育館って広く感じるのね」

 さやかの声が館内に響く。

「そうだね。講演会とか入学式とか、イスを並べるのも大変なんだよ」

「おおー入学式、懐かしいなぁ。卒業式も体育館…」

 そこまで言うと、不意にさやかは言葉を詰まらせた。

「ん?どうしたの?」

「そっか。思い出した」

 広瀬が振り向くと。さやかは虚空を見つめ、立ちつくしていた。

「彼と別れたの、卒業式の日に」

「そうなんだ…」

 広瀬にはさやかの表情が暗くて見えない。

「何で忘れちゃってたんだろ」

 さやかは独り言のように続けた。

「卒業式のあとにね。彼が私のところに来て、他に好きな子ができたって言ったの。その女の子と手をつないで帰って行ったわ。私の目の前で…」

 声がわずかに震えていた。

「私は彼のことが好きだった。だから辛かった。悲しかったな。何で忘れてたんだろ」

 少し間を置き、低く呟く。

「…そう、そうね。あの日から私はレスリングに没頭したの。彼を忘れるために…だったのかもしれない」

 さやかはふっと息をこぼし、視線を床に落とした。

「好きだったな彼。あんなに楽しかったのに……どうして。どうしてだめだったんだろ」

 さやかはうつむいた。体育館の暗さが、彼女をさらに感傷的にさせた。


 広瀬にはさやかの表情が暗くてはっきり見えないが、もしかしたらさやかは泣いているのかもしれないと思った。

 それまで広瀬は黙って聞いていたが、少し考え、頭の中でまとめると、覚悟を決めたかのように一息大きく深呼吸をした。

「さやかさん」

 呼びかけるが、返事がない。かまわずに広瀬は続けて言った。

「さやかさん。ここでちょっと待ってて。ステージの照明をつけるからまぶしくなるよ?」

 と、体育館のステージ横に消えていった。

「え…。どこ行くの?」

 さやかは声を細くしてつぶやいた。

「一人にしないで」

 その声は、広瀬に向けて言ったものなのか、それとも…彼に言ったものなのか、さやか自身にもわからなかった。


 不意にステージの照明がついた。

「わっ。まぶしっ」さやかは目を細める。

 やがて目が明るさに慣れてくると、ステージの上に広瀬が立っていることがわかった。

「悠?なにしてるの?」

「さやかさん。今から、僕の芝居を見てくれないか」

「お芝居?」混乱するさやか。胸の中で、12年前の自分と今の自分が入り混じるような感覚に襲われた。


「これはシェイクスピアなんだけど、原作にはない演出版の場面なんだ。アントニーっていう宰相がクレオパトラに向かってお別れを言うシーン」

「原作にないの?」

「うん。大学の時に観た舞台で、この場面が心に残って、台詞を全部覚えちゃった」

「悠がアントニーを演じるのね?」

「そう。アントニーはクレオパトラを愛していた。だけどクレオパトラがアントニーの元から去っていくんだ。今からする芝居は、アントニーがクレオパトラに向かって最後のお別れを言うシーンなんだ」

「最後の?」

「そう。次に会うときは…死ぬときに会う」

 さやかはゆっくりうなずいた。

 広瀬は深く息を吸い込み、わずかに笑みを見せた。

「よく見ててね」そう言うと、ステージの中央へ歩き出した。


 すでに、その歩く姿は広瀬ではなかった。

 まるで体は鋼鉄で作られたかのように、自信に満ちあふれ、その姿は宰相であり将軍のようにも見えた。

 ステージの中央に進むと立ち止まり、さやかに向き直った。

 たった一人の観客のために、深くお辞儀をした。

 顔を上げ、すっと腕をのばし、深く息を吸い込んだ――。


「私たちは!」

 その一言目から、迫力があった。

 いつもの広瀬からは想像できない、力強い声だった。

 暗い館内に響きわたり、さやかの体と胸の奥を震わせた。鳥肌が一斉に立った。

 広瀬は手振りを交えて、眼前にいるクレオパトラに対してその思いを語った。

「私たちは過去に捉われず、未来に目を向けなければならない!」

「過ぎた日々の栄光や悲しみは、…もはや私たちを縛るものではない!」

「今ここにいる私たちが、未来に向かって新たな道を切り拓くのだ!」

 一呼吸置き、視線を観客席の一点に定める。

「私の心はいつも君と共にあるが、別れの時が来た。…君も自分の未来を見つめ、希望を持ち続けるのだ」

 広瀬が一通り演じきると、再び二人を静寂が包んだ。

 広瀬はふぅ、と一息つき、さやかに向き直ってお辞儀をした。顔を上げる広瀬はすでにアントニーではなかった。


 さやかの目から涙がこぼれていた。

 その涙を拭うことなく、唇が自然に動く。

「今ここにいる私たちが、未来に向かって道を切り開くのだ…」

 広瀬の言葉をそのままなぞるように、さやかは暗唱していた。

 過去の痛みや別れの辛さを乗り越え、未来へ進め――。

 広瀬の迫真の演技は、まっすぐさやかの胸に届いていた。

 普段の広瀬からは想像できない力強さが、その思いを一層鮮やかにした。


 もう、過去に囚われたさやかはいない。

「ありがとう。素敵な……素敵なお芝居だった。私を元気づけようとしてくれたんだね」

 その小さな声は、確かに広瀬の耳に届いていた。

 広瀬はステージから降り、さやかのそばに歩み寄る。

「もう、泣いてない?」

 さやかは涙を拭いながら「なに言ってるの?初めから泣いてないから」と、少し怒ったふりをした。

 広瀬はその表情に、いつものさやかが戻ってきたことを感じ、静かに微笑んだ。

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