第6章 痛みの正体

 夜の学校を案内してもらったさやかは、広瀬に送られて自宅マンションへ戻った。

 たくさんのわがままに付き合ってくれた広瀬へ感謝の気持ちを伝え、別れを告げた。


 シャワーを浴び直し、ソファーに身を投げ出すと夜の学校を思い出す。

 目を閉じれば鮮明に思い出すことができた。職員室、教室、真っ暗な廊下…。そのひとつひとつが鮮やかに浮かびだされた。


 ――そして、体育館。


 なぜ彼との別れを思い出すだけで。あんなに感傷的になったのだろう。

 そう考えた瞬間、ステージ上の広瀬の姿が浮かび、その疑問さえも彼はかき消してしまった。

「今ここにいる私たちが、未来に向かって道を切り開くのだ…」

 あの言葉を口にすると、体と心が震えた感動がよみがえり、胸が熱くなって涙がにじむ。

「素敵だったな。本当に」

 独り言とともに、再び目を閉じる。浮かんだのは広瀬だった。

 さやかに寄り添う優しい広瀬と、ステージ上の力強い広瀬――そのギャップが心を強く揺さぶった。

「もう少し、一緒にいたかったな…」

 気づけば口に出していた。今この瞬間も、側にいて欲しかった。


 これまでプロレスのためにすべてを捧げ、自分を追い込み続けてきた。

 チャンピオンとしての責任を果たすために常にストイックな生活を送ってきたのだ。

 しかし、広瀬との時間は、そんな日常から彼女を一時的に解放してくれる瞬間でもあった。その解放感と、広瀬の穏やかな横顔が、彼女の胸の奥を静かにざわつかせていた。

 さやかの心は、いつしか広瀬に向かっていた。


 事務所で初めて会ったときは、口の軽い男だと思って警戒した。けれど相手をよく見て、言葉を選び、そっと寄り添ってくれる人だと知った。

 リングの上の自分ではなく、人としての自分をまっすぐに見てくれる。その優しさに、心の奥が静かに温まっていくのを感じた。


 気づけば、広瀬と過ごす時間が待ち遠しくなっていた。

 信頼が、恋に変わり始めている――その事実に、自分自身が一番戸惑っていた。


「だけど…」と言うと、さやかは目を開けて立ち上がり鏡を見つめた。

 広瀬の顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥が甘く、そして同時に鋭く痛んだ。

 その痛みは広瀬を思えば思うほど大きくなり、さやかを急かし、すでに目を反らすこともできなくなっていた。

 もうそろそろこの痛みの正体と向き合う頃だ、と自分に言い聞かせた。

 鏡に映る自分の表情は、感情を押し殺した冷たく固いものだった…。


――――


 数日後、さやかから広瀬に「渡したいものがあるから会いたい」というメッセージが届いた。

 広瀬はすぐに返信を打ち、都合のいい日と時間を打ち合わせた。

 しばらくして、さやかから届いたのは、あるホテルのラウンジの名だった。

 広瀬は喜びつつも、浮かれる自分を必死に抑えていた。

 一方のさやかも、送信ボタンを押したあと、胸の鼓動が落ち着くのをしばらく待たなければならなかった。


――――


 広瀬が指定された時間にホテルに着くと、ロビーからラウンジ奥の個室に案内された。

 ソファーに腰掛けていたさやかが、すっと立ち上がって出迎えた。

「久しぶりね」

 落ち着いた上品なワンピースをまとったさやかは、落ち着いた笑みを浮かべていた。


 個室は落ち着いた照明と柔らかなインテリアで整えられ、窓の外から見える景色から切り離されたような静けさがあった。

「何か飲む?」とさやかが促す。広瀬はさやかと同じコーヒーを注文した。


「あのアントニー。素敵だったよ。シェイクスピアって言ってたよね」

 さやかはこの言葉をメッセージでは何度も伝えていたが、どうしても直接広瀬に伝えたかった。

「私、たびたび思い出すの。あのセリフ、”今ここにいる私たちが、未来に向かって道を切り開くのだ”って、何度も口に出してて覚えちゃった」

 広瀬にとっては最高のほめ言葉だった。

「そんなに気に入ってくれてうれしいよ。でもね、あの場面、原作にはないんだ」

「そうだったっけ」

「うん。僕が大学生のときに観た劇団が、最後にアントニーがクレオパトラに別れを告げて、未来へ進めって背中を押す場面を加えてたんだ。創作なんだけど、あまりに胸に残って、何度も台詞を口にして覚えちゃった」

 広瀬は小さく笑って続けた。

「そんなふうに強く前を向ける人に憧れてるんだよ」

「あ、それ、いつか言ってたね。自信満々で大胆なキャラクターを演じ続ければ、いつかはそんな人間になれるかもしれないって」


 さやかは海辺で広瀬が打ち明けた言葉を思い出した。

 あの時の優しい笑顔が、アントニーを演じる力強いまなざしの広瀬と重なっていく。――さやかの胸の奥が次第に温かくなり、同時にきゅっと締め付けられた。

 広瀬はふふっと笑って「よく覚えてるね。そうなんだ。けど、他にもこんな風になれたらいいのにっていうキャラクターはたくさんいるよね」と言った。


 さやかと広瀬は落ち着いた雰囲気の中、会話を楽しんだ。

「アントニーのお芝居って突然思いついたんでしょ?すごいよね。今もお芝居してるの?演劇部ってうちの学校にあったっけ?」

「いやー、最近は何もしてないよ。たまーに動画に落ちてるのを見るくらいかなぁ。演劇部もうちの学校にはないしね」

「その割には上手だったよ。すごいね」

「もう、ほんとにそう言ってもらえてよかった」だが、広瀬にとっては学校という舞台で毎日が本番だった。授業では指導計画とは別に広瀬の中には台本があった。

「だけどなにより、さやかさんが泣きやんでくれてよかった」と広瀬は茶化した。

「だから泣いてないからー」「泣いてたよね」「もー」と、二人は笑いあった。


 さやかは広瀬との何気ない会話とこの時間が大好きだった。いつまでもこの時間が流れたらいいと思った。

 そして――このまま広瀬の胸に飛び込んでいきたい衝動が、確かにあった。

 しかし、そう思えば思うほど、体がこわばり、胸の奥が締めつけられた。


 さやかは一度席を立った。

 化粧室の鏡の前に立つと、自分に語りかけた。

「……今日で最後よ。もう彼とは会わないの。わかってるよね。きちんと言える?さやか」

 言葉にしてみたが、首を横に振った。――心がそれを拒絶していた。

「だめよ。きちんと言うのよ、さやか…私は…、私のために…」

 別れを告げたら、広瀬はどんな顔をするのだろう。

 想像しただけで、胸が張り裂けそうだった。

 ハンドバッグから、一枚の紙を取り出す。それは、さやかの試合の観戦チケットだった。


 広瀬と過ごす時間は、さやかにとってプロレスから解放される特別な時間だった。

 しかし会うたびに、プロレスのリングから遠ざかっていく錯覚を覚えていた。

 広瀬のことを思えば思うほど、さやかの胸を締め付けるのは、他でもない自分自身だった。

 チャンピオンとして、孤高の道を歩まなければならない。

 ブレイズに入団してから今日まで、そうやって自分を追い込み、頂点に立ってきた。

 その自分が、広瀬と会うことで揺らぐのが怖かった。

 広瀬の存在が、決意を鈍らせる——その思いが、さやかを苦しめた。

 部屋で一人になると、心の奥でつぶやく。

「一瞬でもプロレスを忘れさせてくれた広瀬は幻でいい。もう、私は現実に戻るべきだ」

 最後にプロレスラーとしての自分を広瀬に見せて、終わる。

 さやかは目を閉じ、深く息を吐いた。

 しばらく心を落ち着かせ、ゆっくりと目を開けた。

 そこにあったのは、試合前のリングに向かう沢城さやかの顔だった。


 さやかは席に戻ると、二人のカップが空になっていることに気がついた。

「そろそろ…いい時間かな?迎えの時間もあるし」

 さやかは時計を見る振りをした。別れの言葉を口にするきっかけを探していた。

「あ、うん。ありがとう。今日は楽しかったよ」

 広瀬の笑顔が、胸の奥を鋭く突く。

「あの、さ…」

「ん?」

「あ…」声が途切れる。喉の奥が詰まり、胸が苦しい。

「さやかさん?どうしたの?気分悪い?」

 広瀬の顔を見ると涙が込み上げてきそうだった。


 ――私には……言えない。


 震えた声は…別れの言葉ではなかった。

「あ、あのさ。わ、私のプロレス、見にこない?」

「えっ?」

「私の試合、見たことないでしょ?それに、私ね。悠にまだ見せてない部分を見て欲しいなって思ってて。だから、見に来てよ。私の試合をさ」

 そう言って、ハンドバックから一枚のチケットを取り出し、机の上に置いた。

「あ、渡したいものって、このチケットのことだったの?」

 広瀬はそれを手に取った。

「ブレイズ四日市大会…たしかに、リングの上のさやかさんは見たことがなかったよね」


 さやかは何も言えなかった。うつむき、広瀬の顔を見ることができなった。

 ——ごめんなさい。もう会わないの、悠。ごめんなさい。ごめんなさい……

ただ、その言葉を心の中で繰り返していた。


 広瀬はその思いに気づかずに、チケットを見つめたまま「試合か……」とつぶやいた。

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