第4章 ふたりだけの約束
広瀬は緊張していた。
駅前のロータリーに一人呆然とたたずみ、さやかのメッセージを読み返す。
「駅で待っていれば迎えをよこす」
確かにそう書いてあった。
その広瀬の目の前に停まったのは、銀色の大型セダンタイプの高級車だった。
新車なら安く見積もっても一千万円は下らない。運転手が恭しく後部座席のドアを開け、広瀬に乗り込むように促している。
生徒には「もし同じ状況になったなら、全力で逃げろ」と言うだろう。そんなことを思い浮かべ、頭をかきながら苦笑した。
運転手に軽く会釈をして、太った体を揺らしながら乗り込んだ。
「いやぁ…」と思わず声が漏れた。「こんな高級車、初めて乗りました。すごいんですね…プロレスの団体って。なんでこんなにいい匂いがするんだろ。乗り心地いいなぁ…」
そわそわと室内を見回し、独り言をつぶやくその様子は、三十六歳とは思えないような落ち着きのなさだった。
その様をバックミラー越しに見ていた運転手は、あきれたようなため息をついたが、広瀬には聞こえなかった。
――――
車は名古屋の中心地に入り、ホテルの駐車場へ滑り込んだ。
運転手の案内で、広瀬は二階の和食レストランへと向かう。
案内されたのは、静かな個室だった。
体をぶつけないように慎重に中へ入ると、さやかが微笑みながら「おつかれさま」と迎えた。
髪を低くまとめ、深みのある落ち着いた色のワンピースドレスが、和の個室の静けさによく似合っていた。
その姿に、広瀬は胸の奥が少し温かくなる。
「今日はお招きいただきありがとうございます」
丁寧にお辞儀をすると、さやかは手を軽く振って「堅苦しいのはなしね」と笑った。
その笑顔につられ、広瀬も口元をほころばせた。
今日の料理は和食のコースだという。
さやかは「飲み物は?」と聞き、酒をすすめたが、広瀬は「ひとりで飲むのは苦手で…」と首を振った。
結局、さやかと同じ飲み物を注文した。
次第に料理が運ばれ、会話は自然に弾んだ。
今日までの仕事のこと、前回訪れた古民家レストランの感想――。
「沢城さん、このお店はよく来るの?」
「うん。今日はコースだけど、ランチとかでもよく来てるんだ。人と会うときとかにもね」
「いいお店だね」
「でしょー?」
料理を楽しみながら、何気ない会話さえも自然と笑みがこぼれた。
「ところで――」 ふいに、さやかが意地悪そうな笑みを浮かべる。
「なんですか?沢城さん」
「悠」
悠一郎の「悠」だ。
広瀬は一瞬、何を言われたのか理解できず固まった。自分の名前を呼ばれたと認識すると、次の瞬間、耳まで熱くなった。
先日の別れ際の、さやかの約束だった。いや、約束と言うよりも、広瀬にとってはあれは宣告だった。
広瀬は、女性からそんな呼び方をされたことはこれまでなかった。思わず両手で顔を覆った。照れてしまい言葉がでない。かろうじて「えへへ…」と声が漏らすしかなかった。
さやかはその反応に、少しだけ満足そうに目を細めた。
広瀬には、さやかを現役のプロレスラーとして意識する感覚が不思議と薄かった。
むしろ、七歳という年齢差や立場の隔たりを感じさせない距離感に、最近ではかわいらしささえ覚えるようになっていた。
「悠」と、さやかがもう一度呼んだ。
広瀬は観念したように顔を上げて、「さやかさん」と名前を呼ぶ。くすぐったさを押し隠した声だった。
さやかは満足そうに微笑んだ。
「私、悠とのお喋りって、新鮮に感じてるんだ」
意外な一言に広瀬は、思わず身を乗り出した。
「え?新鮮?」
「そう。私ね、こうやって、ずっとプロレス以外の話ばかりしてるのって、なんだか珍しいな、と思って」
さやかはそう言うと、軽く伸びをした――両手を組み、長い腕をすらりと天井へ伸ばす。
――たったそれだけの動きに、広瀬は思わず目を奪われた。
(す、すごい……体の柔軟性ってこんな動きだけでもわかるんだ)
長く伸ばされた白い腕と首筋が、女性としてだけではなく、鍛えられたアスリートとしての美しさを表現していた。
広瀬は吸い込まれるようにその動きを見つめていたが、やがて、さやかが伸びを終えて姿勢を戻すと、慌てるように視線をはずした。
「そ…そうなの?」広瀬は会話の流れを忘れるところだった。ようやく声を出した。
「うん。誰と話しても、プロレスの話しにはなるから」さやかはグラスに目を落とした。「もちろん、それも好きだし楽しいよ。私、プロレスラーだし」一呼吸置いて、顔を上げる。
「でもね、悠。あなたがプロレスのことぜんぜん知らないから、ずっと別の話ばかりで…それがちょっと新鮮なの」
さやかはテーブルに両手を乗せ、身を乗り出した。
テーブルがわずかに揺れる。広瀬の腹の肉も一緒に揺れた気がした。
「僕は、さやかさんをどうしてもプロレスラーって意識ができなくって」
「そうなんだ。こんなに背が高くて、体も大きいのに?」
「それはスタイルがいい、ってしか見えてないかなぁ」
広瀬は、深い意味もなく口にした。ただ事実を述べただけのつもりだった。
ところが、さやかは一瞬言葉を失い、頬を赤らめる。
「……あ、ありがと……」さやかは小さな声で答えた。
広瀬は、さやかの反応の意味がわからず、首を傾げた。
「僕には、さやかさんは普通の女性にしか見えてなくって。というよりも…」
(美人だ)と言いかけて口をつぐむ。広瀬は、さやかを女性として意識することに抵抗があった。
「……というよりも?」さやかは小首をかしげる。
「……いや、なんでもない」
広瀬は慌ててグラスを持ち上げ、誤魔化すように口をつけた。
「なによ、それ」
「べ、別に…」と視線を逸らす広瀬に、さやかは少し笑って「ふーん」とだけ言った。
その笑みのまま、ふっと表情を変えた。横目で広瀬をにらむ。
「……悠って、私の見た目だけしか見てないでしょ?」
「は?」
「ま、一応、人から見られる仕事だから、見た目をそれなりに気を使ってるけど……」さやかの目にはいたずらな笑みが混じっていたが、広瀬は気がつかない。
「そ、そういうことじゃなくて!」動揺して声が震えた。「だって、こんなに楽しく喋っててさ、話も合うし。確かに見た目も気にはなるけど……なんていうか。さやかさんの中身とか、人としての深みとか、そういうものにも興味が湧くというか。そういう感じで……」広瀬は真っ赤になっている。
さやかは大きく目を開き、少し驚いた様子を浮かべた。
しばらく沈黙が流れた。真っ赤になりうつむく広瀬を、さやかはまっすぐに見つめていた。
やがて、さやかが口を開いた。
「そっかぁ…うれしいな、見た目だけじゃなかったんだね」
その言葉に広瀬はおそるおそる顔を上げ、さやかの表情を盗み見た。怒っているわけではないとわかると、ほっと胸をなで下ろす。
「うん。できれば、もっとさやかさんのこと知りたい…かな」
「……そうなんだ」
広瀬は、確かに、初めてさやかと会ったときは、その美しい容姿に目を奪われていた。
けれど今は、それだけじゃなかった。
話していて、彼女をもっと知りたくなる。彼女の、人としての奥行きの深さに興味がある――そんな気持ちが自分の中にあると気づいていた。
「悠、あのね。お願いがあるんだけど」さやかが話を変えた。
「ん?何?」
「学校、見てみたいの」
「え?」
「久しぶりに母校を歩きたいんだ。講演会に行ったときにね。実はもう少し歩きたかったの。卒業生だけど、気軽に行けないじゃない?」
「えー?」広瀬は頭をかいた。「真剣に言ってる?」
「うん。お願いできないかな」
広瀬は思わず腕を組み、考え始めた。
――有名人のさやかが来れば、あの時のように人だかりになる。その混乱がおきないように学校を訪問させる。
どうやって目立たずに連れて行くか・・・。
無言のまま考え込む広瀬を、さやかは真剣な眼差しで見つめていた。
「…夜?」
広瀬は自分に問いただすようにつぶやいた。
さやかは、ぱっと顔を輝かせて何度も頷く。
「機械警備があるけど、それは僕が何とかできるなぁ。あとは校長たちを説得できれば…」
さやかはすぐに両手を合わせた。
「お願い!」
「何とかなるかも」
もうすでに校長への言い訳が頭の中に浮かんできていた。
「ほんとに?ほんと?悠、あなたって最高ね!」
今にも飛びついてきそうな勢いだ。
その無邪気な笑顔に、広瀬は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
これ以上さやかを見つめ続けると、本当に恋に落ちてしまいそうだった。
携帯電話でスケジュールを確認する振りをして、さやかから目を反らした。
「じゃあさ、夜8時くらいから出られる日ある?」
動揺を知らせまいとする広瀬に対して、仕事を忘れて母校を訪問するイベントにウキウキするさやかは対照的だった。
ところが、さやかにも広瀬に引かれている気持ちもあった。優しくおおらかで気さくな広瀬に対して、友人としての信頼は確かなものだった。
このまま広瀬と付き合えば、もしかしたら恋愛感情を抱くかもしれない、そんな予感もさやかは密かに抱いていた。
ただ、さやかが広瀬に恋愛感情を抱くことは、さやかにとって同時にある不安を伴っていたのだった。
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