第3章  同じ歩幅で

 広瀬は講演会の翌日も翌々日も講演会のアンケート処理や、毎日の授業などに追われていた。

 それでも、さやかの「本当に誘って下さいね?」という声が頭から離れなかった。

 しかし、思い出すたびに「あれは社交辞令だから!」と自分で否定する。

 …が、否定した直後にさやかがまた現れる。

 登場、否定、再登場──この無限ループが始まると、授業中でも固まってしまう。

「広瀬ちゃん、また何か始まったね…」

「wi-fi 切れてる?」

「授業、こっちの方が捗るんじゃね?」

 こうなってしまうと、生徒たちの呆れた声すら、もう聞こえていなかった。


 気がつけば「デート 個室 静か レストラン」と検索している自分がいた。

 何軒も調べ、ようやく市街地から少し離れた、海沿いの個室付きの古民家レストランを見つけだした。


 広瀬は、その古民家レストランに下見がてら独りで何度か利用をしてみた。

 古民家といっても、実際は大きな屋敷を洋風に美しくリノベーションしていて、その品のある華やかさからは、まるで海辺の洋館だった。

 落ち着いた空気と、しっかりした個室の造り──ここなら、人目を気にせず話ができる。

「ここだな」

 広瀬は決心して、さやかに連絡を取った。

 その瞬間、頭の中のさやかがようやく静かになった。


 ――――


 その日の夕方、広瀬は指定された場所へさやかを車で迎えに行った。

「沢城さん、お久しぶりです。お誘いが遅くなってすいません」

「ずっと待ってたんですよ?だけど、お誘いいただけてうれしいです」

 プライベートのさやかは薄い色のサングラスをかけ、髪を後ろで束ね、明るい色のワンピースと同系色のカーディガンを羽織っていた。

 リングコスチュームとスーツ姿しか知らなかった広瀬はさやかに見とれてしまい、思わず「……良い」と声が漏れてしまった。

 背の高さとしなやかな体つきが服を選ばないことを、嫌でも思い知らされる。

 ふと、いつものスーツ姿の自分と出っ張った腹に気が付き、うんざりした。


 やがて二人は、海沿いの古民家レストランに着いた。

 個室のテーブル席に案内され、向かい合って腰を下ろす。

「お忙しいのに、わざわざ時間を作っていただいて……」と広瀬が言えば、

「いえ、こちらこそ。お仕事終わりにありがとうございます」反射的にさやかも答えた。

 互いに形式ばったやりとりが、妙に芝居がかって聞こえ、「なにこの寸劇」とでも言いたげに二人の目が合う。次の瞬間、同時に吹き出した。

 ひとしきり笑った後、メニューを広げ、料理とソフトドリンクを選んでいった。


 12畳ほどの広さを持つその個室は、もともと和室のようだったが、洋風に整えられていた。白い壁には絵画が飾られ、深い色を帯びた木目のテーブルに掛けられた白いクロスが上品さを醸し出していた。

 広いテラス窓からは、丁寧に整えられた庭が見えていた。夕日に赤く照らされた植栽が風に揺られている。

 もしかしたら、窓を開ければ遠くに波の音も聞こえるかもしれないと広瀬は思った。


「実は……」広瀬が申し訳なさそうに切り出した。「僕は少し不安なんです」

「どうされたんですか?」さやかが首を傾げる。

「僕、沢城さんと話していると、どうしてもあなたがプロレスラーで、チャンピオンだということをすっかり忘れちゃうんです。もしかしたら、また失礼な言い方をするんじゃないかと……」

 広瀬にとって、プロレスはそれほど遠い世界のものであり、彼女からその雰囲気を感じ取ることができなかった。

「なぁんだ。そんなことを気にしてらしたんですか」明るい声でさやかは返した。

 さやかは少しだけ考えたそぶりを見せて「いいんじゃないですか?忘れていただいて」

「え?」

「確かに、私の名前が知られてないのはさみしく感じますけど……」

「あ、いや!すいません!」

 あわてる広瀬だが、さやかは笑って手のひらを見せて振った。

「いえ、ぜんぜん気にしないでください。私も広瀬さんとのお喋りが気に入ってるんですから。話しやすい雰囲気、私は大丈夫ですよ?」

「ほんとに?」

「ええ。だから、あまり気にしないでくださいね」

「よかったー。それなら安心です。けど気に障ったらごめんなさい」

「そのかわり、私も気を使いませんから」

 二人は笑いあった。


 広瀬の心配は、確かに取り越し苦労だった。さやかとの会話は軽快にはずみ、二人の緊張はいつしかゆるんでいった。


 料理が運ばれると、広瀬がこの店を見つけた経緯や食事の話をし、さやかは海外で食べた料理の思い出や、テーブルマナーでの失敗談をした。

 広瀬のユーモアのある語り方や、さやかの的外れな料理の説明に、何度も笑いがこぼれる。

 さやかの屈託のない笑い声が、広瀬は心地よかった。


 しばらく料理を楽しみながら笑いあっていたが、「あ、そうだ」と広瀬は思い出したように口を開いた。「沢城さんって、どうしてプロレスの道に入ったの?」

「ん?やっぱり気になります?」

 講演会の後、お互いの高校時代の趣味や恋愛について話した流れもあり、(もっとも恋愛については広瀬が語れることはなかったが、)その後の進路の話題になるのは自然だった。


 さやかは幼い頃アマチュアレスリングをしていたが、体格が大きくなり限界を感じ、一度レスリングから離れた。高校では背の高さを生かしてバレーボール部に入ったが、思うような結果は出なかった、ということを話した。

「…そんなときにね?」と、ふふっと笑って広瀬を見る。「あの彼がプロレスを観に連れてってくれたの」


「あの彼」とは高校時代の恋人で野球部のキャプテンだ。しきりにさやかは広瀬に似ていると言ったが、決まって広瀬は(このアザラシに向かって何を言ってるんだ)と内心、興ざめをした。


「そうか。そこで見たプロレスが面白かったんだね」

「そうなの!なんかね、自分の中の血がワーッて熱くなってきて興奮したの!それで私もやりたいって!」

 さやかは立ち上がる勢いで身を乗り出し、声が大きくなる。 

 ほほえみながらうなずく広瀬は、興奮するさやかにまた新しい一面を見て、人としての奥行きを感じた。

「沢城さん」

「ん?」

「あなたは本当に面白いね」

「えへえ?」予想外の広瀬の一言に、さやかの口から間抜けな声が出る。

 また二人は大笑いした。

 会話と笑い声は絶えず、二人はゆっくりと料理を楽しんだ。


 料理を食べ終え、ひとしきり笑いあった後、きづけば窓の外はすでに真っ暗になっていた。


「そろそろ帰ろうかぁ。今日は楽しかった…」  

 テラス窓から見える空はいつしか暗さが増し、庭園に照明がたかれ始めていた。

 庭木に目をやる広瀬の表情には寂しさが混じっていた。

 短い沈黙が二人を包んだ。

 

「少し歩かない?」さやかが静かにささやいた。「海、近いんでしょ?」

「あ、それいいね」広瀬は反射的にそう応えたが、さやかが有名人であることを思い出した。「け、けど…人の目が…」

「大丈夫なんじゃない?」

「え。けど…」

「だーいじょうぶ。こんなに暗いんだからさ。ね、もうちょっとだけ話そうよ」

「沢城さんがそう言うなら…」

 そう言うと、二人は席を立った。

 広瀬は「私が払う」というさやかを制して、会計を済ますと、二人並んで海辺へと向かった。


 すでに日は落ち、海岸までの道には街灯が灯されていた。人影はまばらで、砂浜には広瀬とさやかの他には誰もいなかった。

 砂浜は湿っていて意外に固く、砂が靴に入ることはなかった。

 月の光が遠く海面を照らし、穏やかな波の音と潮の匂いが二人を包んでいた。


 二人はしばらく波の音に耳を傾けながら、夜の海を眺めていた。

 

 沈黙を破ったのは、さやかだった。

「広瀬さんは、どうして教師になろうと思ったの?」ささやくような声だった。

「ん?今度は僕?」広瀬は少しだけ考える間を置き、「うーん…」と腕を組むと、やがて思い出したように語り出した。

「……そうねぇ、僕はね、自分に自信がなかったんだ。特にこれといった特技があるわけでもないし。僕は人と話すのが苦手だったんだ」

「え?意外!」とさやかは言った。広瀬は笑って続けた。

「お芝居や映画が好きだったから、高校の頃、演劇部に入ったのね。素人だったけど、部員が少なかったから文化祭とかで役を貰えて舞台に立たせてもらったんだ」

「すごい!」さやかは驚いて手をパチパチと叩いた。

「へへ。ありがとう。お芝居っていろんな人になれるじゃない?自信満々で饒舌で大胆なキャラクターだってあるよね。そんな役を演じたらさ…」広瀬はシリアスなムードが苦手だ。少し照れて頭をかくと続けた。

「僕自身も、饒舌で大胆なキャラクターを演じ続ければ、いつかはそんな人間になれるかもしれないって思った。それを教師って立場で演じてみたいと思ったんだ。生徒という観客の前でね」

 広瀬は体が熱くなったのを感じた。自分の内面をさらけ出すのはやはり苦手だと思った。

「今も沢城さんの前で、"僕"を演じてる気分。そうしないと、なんていうか…自信がなくて、喋ることもできなくなるんだ」と困ったように苦笑いをうかべた。


「ふーん……」さやかは少し考えて「なんか、私と──」と言いかけて、ふと口を閉ざした。

「え、何?なんて言ったの?」

「いや、なーんでもなーい」さやかは海から目を外さず、茶化すように言った。


 二人はレストランまで戻り、車に乗り込む。


 待ち合わせ場所に近づくと、さやかは運転席の広瀬の顔をのぞき込んだ。


「ん?なに?どうしたの?」動揺する広瀬。

「今度は私が誘うからね」微笑むさやか。

「誘うって?」

「またお食事に行こうよ。今度は私がお店を選ぶから」

「あ、うん。よ、喜んで」

「ふふ……。それと、広瀬さん……次からは名前で呼んでいい?」

「え?名前で?」動揺が加速する。 

「悠一郎さん?だった?」

「そ、そ、そ、そうだけど…」

「じゃあ……悠、でいいよね?」

「えっ?」

「いいでしょ?ね、悠!」

「ええええっ!?」

 広瀬は人生一番の動揺を経験した。

 さやかは、広瀬の慌てぶりを見て、楽しそうに笑っていた。


 車を降りたさやかは、去り際に振り返り、「私も次は名前で呼んでね!」と手を振った。

 広瀬は現実を受け入れられず、しばらく駐車場でただぼう然とするしかなかった。


 ***


 さやかは自室に戻るとソファーに身を投げ出した。

「今日は楽しかったなぁ…」

 広瀬との時間は、さやかにとっては意外にも心地がいいものだった。

 レストランでの会話を思い出し、ふふっ…と笑みをこぼした。


 そして、あの海岸での広瀬の言葉が脳裏をよぎる。

 ――「饒舌で大胆なキャラクターを演じ続ければ、いつかはそんな人間になれるかもしれないって思った」

 広瀬の穏やかで柔らかな声は、さやかの心に染みこむようだった。

 そして、あのとき、さやかは言いかけた言葉があった。


 ――「なんか、私と……」

 気づけば、その言葉の続きを声に出していた。

「なんか、私と似てるね」

 弱い自分を隠すために、別の自分を演じている――

 その感覚は、さやか自身にも確かに身に覚えがあった。

「あの人は……やっぱり…私と似てるんだ」

 心の中で確信し、そう気づいたとき、胸の奥に小さな温もりを覚えていた。


 だがあのとき、声に出すにはためらいがあった。

 その一言で、広瀬との距離が一気に近づいてしまう気がしたからだ。それは少し嬉しく、同時に――怖くもあった。


 さやかは、広瀬の柔らかくおおらかな雰囲気に惹かれていた。そして、同時にその奥にある繊細さが、自分と重なるのを感じていた。

 また、広瀬の穏やかで包み込むような人柄に触れるうち、このまま寄りかかっていたいという気持ちも膨らみつつあった。

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