・端的と冗長と(使いかけのティッシュ箱がある)

わたしの目の前に、使いかけのティッシュ箱がある。


これについて、あなたに伝えたい。


端的に「ティッシュ箱」とも言えるが、それが新品なのか、使いかけなのか、もしくは空箱なのかは明瞭でなくなり、受け手に委ねられる。

しかしたいていの人は「ティッシュ箱」と聞いてそれを想像したとき、きっと使いかけのティッシュ箱を思い浮かべるだろうと思うので、これでもある程度伝わりそうな気がする。


「使いかけのティッシュ箱」の色や、形や、状態が重要と考え、それを伝えたいのであれば、言葉を尽くして冗長にする外ない。


「使いかけのティッシュ箱がある。それは薄緑色で、角が少しへしゃげている。」


現実であれば何のことはないティッシュ箱ひとつでも、より正確に伝えようとするならば……あるものを言語に変換しそれを正確なイメージとして再構築させようとするならば……さらに言葉を尽くして冗長にする外ない。


「使いかけのティッシュ箱がある。それは若葉のような薄緑色で、右手前の角が少し内側にへしゃげている。」


人に伝えるために言葉を尽くす。それはサービスでもあり、エゴでもある。

伝えたいという強い思いが、言葉をさらに搭載させる。


「使いかけのティッシュ箱がある。それは夏が訪れる前の若葉のような薄緑色で、右手前の角が、以前落下した衝撃により少し内側にへしゃげている。」


もっと緻に、もっと密に、もっと詳に、もっと細に。

伝えたいから言葉は冗長に。思考を一にしたいから、もっと多くの言葉を。言葉を!


「使いかけのティッシュ箱がある。それは夏が訪れる前の若葉のような薄緑色で、ティッシュの取り出し口は細長い「O」の形をしており、一枚のティッシュが半身ほど飛び出ている。そして右手前の角が、三日前に誤って取り落としてしまった際の衝撃により、二ミリほど内側につぶれて変形している。」


まだ足りないから言葉が必要だ。きっとあなたとわたしは、まだ違うものを想像している。

同じものを見てほしい。同じティッシュ箱をそこに見てもらわないと。

現実を言葉に変換する。言葉をイメージに変換してもらう。

冗長な言葉のみがそれを可能にする。


書くから、読んで。

読んで、読んで、読んで、読んで。


「使いかけのティッシュ箱がある。それはことさら暑い夏季が訪れる前の若葉のような、あるいはメジロの毛のような薄緑色をしており、カラーコードでいえば「#A4CA68」がもっとも近い。

ティッシュの取り出し口に主眼を置いていただきたい。その形状は縦に細長いアルファベットの「O」の形をしている。数字の「0」でも構わないが、その場合は中央の空間を拡大した形状を想像してもらえれば、より実際に近い形となるだろう。

そして右手前上部の角。ここには通常と異なるある変化が起きている。

三日前の夜、テーブルで夕食をとっていた時のことである。

たしか白ご飯と、豚の角煮と、たまごスープと、ほうれん草のおひたしを並べていただろうか。

おひたしの小鉢を取ろうと右手を伸ばしたとき、誤って指がテーブルの隅に置いてあったティッシュ箱に接触した。

ティッシュ箱はバランスを崩し、重力にしたがって床面へと落下した。

わたしはその時の情景を鮮明に覚えている。


わたしの人生にはこんなことがいくつもあった。

人を傷つけるつもりはなかった。悪気はなかった。ただ自分のしたいように行動していただけだった。

しかしそれが誰かを傷つけた。ある時は友人を、ある時は恋人を、ある時は見知らぬ他人を。

傷つけたことに気付いたとき、言葉を尽くして取り繕おうと取り組んだ。

どうして傷つけてしまったのか、何が原因だったのか、これからどうやって信頼を取り戻していくか。

感情を変換して、相手にその感情を正しく伝えきるために、より緻密に、より詳細に、ひたすら言葉を載せようと尽力した。

しかし、それは冗長なだけだった。

伝えようと言葉を満載したのに、冗長な言葉は誰にも伝わらなかった。


「もう、いいから」


必死に探して紡いだ冗長な言葉たちは、その端的な一言でかき消された。

そして、やがてすべては忘却される。

肉体の浅い傷が自然と癒えるように、精神の浅い傷も、忘れることでやがて癒えるように人間はできている。

冗長な言葉は忘れられていき、端的な痛みや不快が、ゆっくりと癒えていく。

それもいずれ忘れられ、こうして落としたティッシュ箱を拾い上げるような、ふとした時にのみ思い出される。

思い出されては少し嫌な気持ちになるが、忘れて、思い出して、忘れてを繰り返すうちに、すべてが元通りになる。

だからきっとあの人たちも、みんなそうやって今も生きているはずだ。

もうすべては終わったことなんだ。


いや、本当はわかっている。


冗長な言葉など並べずに、端的に「ごめんなさい」と、心から謝ればそれでよかったのだ。

自分の勝手で人を傷つけて、自分の勝手で言い訳を並べて、自分の勝手ですべてを終わらせる。

最低と罵られても仕方がない。

あの人たちは今も傷ついたままなのだろうか。

あの人たちはまだわたしを覚えているだろうか。

あの人たちに今なら、端的な言葉で謝罪できるだろうか。


また勝手なことを考えるわたしの心の角が、二ミリほど内側につぶれて変形しており、ティッシュ箱の角はそのさまと似通っている。」


ずいぶん伝わってくれただろうか。

なんせこれだけ言葉を並べたのだから。


あなたの目の前に、使いかけのティッシュ箱がある。




記すするトレーニング



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